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おやじの彼女

作者: おだアール

   おやじの彼女

              おだアール


 んとに、まったく――、おやじのやつ、なに考えてんだ。よりによってあんな人と結婚したいなどと……。


 先週、おやじの家を訪れたときのことだった。男やもめにわくのはウジだったか、家に入ったとき、男臭いにおいがツンと鼻をついた。

「おまえに、会ってほしい人がいるんだ」と言うおやじの口調は、いつになく震えていた。おやじは頭をかきながら「桃子さんと、言うんだが……」と続けた。

 おふくろが死んで十七年、小学生だった俺を男手ひとつで育て上げてくれたおやじは、いまこの家にひとりで暮らしている。定年までまだ七年あるが、早期退職して趣味の合唱ざんまいの生活を送るのだという。おやじの人生だ、好きにすればいい、と俺も思っていた。

「へえっ、好きな人ができたって? おやじもなかなかやるじゃないか」

「同じサークルにいる人でね。定演にも出てたから、おまえも見てるはずなんだが……」


 おやじが所属する合唱サークルの定期演奏会が開かれたのは、先月のことだった。「いっぺん、聴きに来てくれよ。アマチュアだけどなかなかのものだと評判なんだから」とおやじに勧められ、俺は演奏会に出向いた。受付で渡されたプロフィールに合唱サークルのことが紹介されていた。メンバーは五十人あまり、中高年の男女が中心で最高齢は八十三の女性だという。

 後方の目立たない席に座ってまわりを見渡した。観客のほとんどが出演者の家族のようだった。開演を告げるブザーのあと、舞台袖から華やかな衣装に身を包んだ出演者がつぎつぎと登場してくる。客席からパチパチと拍手がわき起こった。出演者の中にひとり、まだ二十歳過ぎに見える女性がいた。品のいいメガネをかけていることが知的な印象を与えている。このメンバーの中ではひときわ目立つ存在だった。おやじは最後にあらわれた。少し腰の曲がった老女の手を引いている。「おばあちゃん、がんばって!」と客席から声援。拍手がひときわ大きくなった。

 合唱なんて高校の文化祭以来聴いたことがなかったが、おやじの言うとおり、なかなかのものだったと思う。声を張り上げて歌う舞台の上のおやじはいきいきとしていた。


「見たことがあると言われてもねえ……、女の人も、おおぜいいるんだろ。どの人のことかわからないよ……」

「いや、たぶん、おまえも覚えているはずだ。演奏会では、とくに目立ってた人だから………」

 目立っていた女の人というと……。まさか――、と俺は思った。同時に、おやじがどうして盛んに演奏会に来るよう勧めてきたのかがわかった。おやじは、俺をその人に会わせる前に見せておきたかったのだ。

「ほら、ソプラノの前列にいただろ。あの人だよ」

「メガネかけてた人?」

「そうそう、その人」

 間違いない。おやじは、あの若い女のことを言っている。

「あの女の人って――、おやじと三十は離れてるだろ」

「うーん、ちょうど三十歳差かな」

「ちょっ、ちょっと待てよ。おやじ、なに考えてんだよ!」

「愛に年の差なんか関係ない。わしとあの人は愛し合ってるんだ。ふたりとも、結婚したいと思ってるんだよ」


 俺がこの家を出てから、おやじはずっとひとり暮らしだ。そりゃ、寂しいだろうとは思う。いい人を見つけて再婚したとしても、おふくろも許してくれるだろう。ひょっとして、もうすぐ結婚する俺に触発されたのかもしれない。しかしいくらなんでもあの人とは……。三十歳違い――、ということはいま二十三、俺より四つも若いじゃないか。

 いや、そんなことより、俺はもっと重大なことを目撃していたのだ。演奏会の翌日だったか、俺は偶然電車の中で、その女の人を見かけたのだ。若い男がその女の肩を抱き寄せているところだった。女も男の胸に身をあずけていた。演奏会のときの印象が強かったから、サークルのその女だったことは間違いないはずだ。

 おやじがだまされているのか、あるいは、彼女に好意を持たれているとおやじが勝手に思い込んでいるだけなのか、ともかく彼女がおやじと結婚することはあり得ない。なんとしてもおやじを断念させなければ、と俺は思った。

「年の差にも限度があるだろ。真由美さんだって、いま二十六だよ。おかしいと思わないか」

「真由美さんはおまえの婚約者じゃないか。わしには関係ない」

「そんな人のこと、俺、どう呼べばいいんだよ。かあさんって呼べってか。呼べるわけないだろ」

「そんな人、なんて言い方をするな! 彼女に失礼じゃないか」

「俺、見たんだよ。あの人が若い男と一緒にいるところ。ほんとだって、彼氏がちゃんといるんだって。おやじが知らないだけだって」

「そんなはずはない。あの人は、わしの前で、わしのことを好きだとはっきりと告白してくれたんだ。わしとあの人は、永遠の愛を誓い合ったんだよ」


 恋は盲目とはよく言ったもの。もはや、おやじになにを言っても無駄だと思った。その女に会うだけ会ってみよう。会って女の本心を聴き出せばいいことだ。真相がわかって落胆するおやじの表情が目に浮かんだが、長い人生の中の苦い思い出のひとつと思えばたいしたことはない。おやじには、またいつか、ふさわしい女の人があらわれるだろう。

 その人は、息子を連れて家にやって来るという。おいおいその女、連れ子までいるというのか、万一、結婚ということになれば、その息子は俺の義弟ということになる――。俺はますます気がめいってきた。


 つぎの日曜、おやじの家でその人が来るのを待った。いつもは散らかり放題の和室だが、きょうはきれいに片付けている。テーブルに特上寿司が四人前、息子の分まで注文したらしい。だれが吸うのか、おやじは灰皿まで用意していた。

 昼過ぎにチャイムが鳴った。おやじは「はい、はい」と立ち上がって、いそいそと玄関に向かう。俺もあとをついて行った。玄関を開けると、そこに小柄な女の人が息子を連れて立っていた。演奏会のときのドレス姿とはまた雰囲気を変えて、渋い色の和服がよく似合っていた。

「桃子さん、ようこそ。ささっ、どうぞ、どうぞ」とおやじにうながされて、女の人は部屋に入ってくる。息子の手を引いているが、逆に引かれているようにも見えた。


 テーブルを挟んで、俺たちの向かい側に桃子さんと息子が座った。桃子さんにビール、息子にはジュースをついで乾杯したあと、おやじと桃子さんは親しげに話し始めた。俺は、その人に言いたいことがいっぱいあったはずだ。だが、玄関で桃子さんを見た瞬間、俺は言葉を失ってしまっていた。なにを話せばいいのか――、俺はおやじの横に座って、だまって寿司に箸をのばしていた。

「どうぞ」と桃子さんの息子が俺に言った。

 息子は両手でビール瓶を持って俺に向けてくれている。俺が「あっ、どうも」と言ってグラスを差しだすと、息子は慣れた手つきで上手についでくれた。俺は、ぐいっとビールを飲み干した。

「では、ご返杯」

 息子のグラスにジュースを注ぎながら、俺は言った。

「車じゃなく、電車で来られれば、ビールをおすすめできましたのに」

「いえね。母が、きょうはどうしても和服で行きたいと言ったものですから……。和服で駅の階段のぼるのって、大変らしいんですよね」

 聞けば息子は、おやじより年上だという。そういう人に敬語で話されて、俺は恐縮していた。息子はたばこを取り出して「かまいませんか」と尋ねた。俺は「どうぞ」と言って、灰皿を差しだした。

「母が言うには、サークルに通っているのは、お父さんとお会いするのが楽しみだからだとか。お父さん、いつもやさしく、手を引いてくださるそうですね」

「はあ――、そうなんですか……」

 横を見ると、おやじは大きく開けた口を桃子さんに向けている。

「はい、アーンして」とよく通るソプラノの声。

 桃子さんは静脈の浮き出た手でトロを持って、おやじの口に入れてやっていた。老眼鏡の向こうの瞳が輝いていた。

「桃子さんが食べさせてくれるお寿司、うっまーい」

 確かに、愛に年齢は関係ない。おやじの甘えた声を聞いて、俺はそう思った。


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[良い点] 老け専おやじ(笑) おもろいです。文章が良いので一気に読めました。
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