8、祭りの日
定時報告。
小槌村に滞在を続けて本日で四日目となる。対象にはいまだ特別に目立った動きはなく、村の様子にも変化は見られない。村人への聞き取り調査は継続しているが、芳しい成果はあがらず、事態はなかば膠着した状態にあると思われ、班長の意見を求めたく……
「ねえ、ヒル~。また報告書?」
鼠御殿の一室で書類に書き込みをしていたおれの後ろからクキが覗き込む。細くもほどよく肉のついた腕をおれの肩から身体の前側に回しこみ、全体重に傾けてしなだれかかってくる。
薄い化繊のフワフワした袖の生地が首筋をくすぐる。頬に擦れる一切無臭の黒髪、小さな唇からそよぐ女性の息、肩甲骨に押し潰される不届きな柔い膨らみ。このように、全身をもってクキを感じられる過剰とも言えるスキンシップも今ではすっかり慣れっこになっていた。
彼女はこの四日間、おれの部屋を訪れてはおれを村の案内に誘うか、何もしないで畳の上でゴロゴロしているという時間を過ごしていた。つまり、おれは村入りの日からクキの顔を見ない日はなかったということだ。
それくらい一緒にいると、彼女が類い稀な美人といえども見慣れてくる。いくら隣であられもない姿をさらけ出していても、こみあげる無作法な感情を臭いものに蓋の要領で塞き止めることもやぶさかでないのだ。
ただし、今日は少し趣きがちがう。
「そんなの早く片付けてお祭りに行こうよ」
「わかってるから、ちょっと静かにしていてくれ。大事なものなんだよ」
クキはつまんないだの退屈だの仕事が遅いだのと好き勝手に文句を言いたい放題だ。
正直、かなりの雑音だが、彼女と一緒に同じ空間にいるというのは嫌いじゃない。だから、うるさくは思っても追い出しはしない。
クキが奏でるBGMに耐えて集中力を保ち、なんとか報告書類を書き終える。
「いつも思うけどさあ、この『106号』って数字はなんなの? 報告書にまるで名前みたいに毎回書いているけど」
「これはおれの所属ナンバーだよ」
「猟師なのに誰かに雇われているの?」
「まぁ、そんなとこ。派遣社員みたいなものだよ」
実際は大分ちがうのだが、おれは適当に誤魔化すことにした。
「へえ、大変だね」
クキは分かっているのか分かっていないのか、はかりかねる返事をする。彼女の目下の懸案事項は早くお祭りに行きたいという思いだけなのだろう。そういう幼い面は素直に可愛らしいと思うが、やはり鬱陶しい感じは拭えない。
おれは報告書を片付け、布に包んだ猟銃を担いで立ち上がった。
「それ持ってくの?」
「当然だろ。いつどこで熊が出没するかわかったもんじゃないんだから」
あっそ、とクキは気のない返事をしたが、それ以上は何も言わなかった。
フロントに下りると、行き帰りでいつも優しい声を掛けてくれる女将さんの姿が珍しくなかった。今日のお祭りは村人が総出で出席するそうなので、女将さんもそっちに行ったのだろうか。
旅館の営業を放棄して?
無責任なようだが、泊り客は事実上、おれと灰神楽だけなのだとしたら、事情を知るおれ達は放置しても大丈夫と思ったのかもしれない。この四日間で、おれと女将さんの間には友好的な信頼関係が築かれていた。
ところで、ここのところ外の出歩きは控えていた。いろいろと事情があるのだが、主な理由は道のど真ん中で灰神楽と邂逅して西部劇さながらのドンパチ的な修羅場に巻き込まれることを懸念したためであった。
幸いな事に、そして少なからず不思議な事に、おれはあの時の不快な問答以来、灰神楽とは会っていない。それどころか、姿を認めたこともなければ、気配を感じたことさえない。同じ旅館に宿泊している事実から鑑みれば、何処かおかしな話ではないか。
彼はどうしているのだろう。
身に迫る問題だから、クキにそれとなく尋ねてみた。
「ああ、灰神楽さんね。あの人、一昨日から姿を見ていないんだよね」
一昨日。おれが灰神楽自身から村から出て行くよう脅迫された次の日だ。
「もしかして、彼もとうとう山の熊達の餌食に……」
「さあ、どうかな。やられたにしては死体や血痕も出てないし、それらしい痕跡も見つかってないんだよね」
もし、熊に襲われて今頃死んでいるのだとすれば、認めたくないが状況はおれにとって有利となる。逆に生きていたとしたら、もしかしたら言うことを聞かなかったおれに罰を加えるためにどこかで息を潜めているという可能性が浮上する。
仕事をするうえでは彼にはいなくなってくれる展開を望むが……個人的には生きていてもらいたい。やはり、数少ない仲間だからなのか。灰神楽の品行下劣な性質に忌避感を抱いたにも拘らず、そんなことを思う自分のお人好しさを、おれは他人事みたいに一歩引いて眺めている。
それから、クキと楽しく話しながら歩くうち、もう灰神楽のことは考えなくなっていた。お祭りは三口神社で開催されるらしい。おれ達は最初にクキに案内された道筋をもう一度たどる。
クキはお祭りを楽しみしていて、今朝から「お祭りに行こう」としつこく言っていた。彼女のいでたちも普段のラフな格好と異なり、ベタとはいえしっかりと夏向きな涼しい浴衣を着ていた。
背中の中ほどまで届く黒髪が乱れないよう紐で縛り、いつになくめかし込んでいる様子だったけれど、やはりクキはどこかでだらしなく、帯の結びかた下手くそなちょうちょ結びである。指摘したいが、おれも帯の結び方など見当もつかない部類なので、見て見ぬふりをする事にした。
朱塗りの鳥居はこの前の昼に見たときよりも夕暮れに映えて美しく見えた。
山の端より射し込む赤々とした夕日は反対側から押し寄せる夜の気配の煽りを食い、線香花火の溶け落ちる瀬戸際を模して情けなくも月に大空の支配権を渡して山の向こうに隠遁する。
初めて訪れたときはひとりも参詣者はいなかったのに、今晩はたくさんの人間たちが参道の階段を登っていた。たくさんといっても疎らで、とても都会のゴミゴミとした参拝風景とは比べられないが、この鄙びた村にあっては十分に賑やかな状態なのは間違いない。
頭上からは祭囃子の準備のために太鼓や笛を調節する音色が降下してくる。具体的な音律をなしていない楽器の単発音だが、日が沈み涼気が肌をくすぐっていき、近くの木にいるはずなのに遥か彼方で鳴いているように聞こえるひぐらしの慎み深い鳴き声を支援して、物悲しい風情に見事な調和をなしていた。
クキと連れ立って石の階段を一段一段と登っていく。おれ達はいつの間にか手をつないでおり、すぐそこで相手の息遣いを感じられるほどの距離にいた。妙に照れくさかったし、奇妙な身体の慄きも覚えた。その奥で、荒々しくも心地良い、自分でも理解できない衝動が渦を巻いている暗闇があった。
境内ではいたる所に棒と籠でこしらえた松明が焚かれ、広場を照らし出していた。その他にも、この前までなかったテントややぐらが建造されていて、普段は農業をしているだろう村人たちが忙しそうに立ち働いていた。お祭りの準備はつつがなく進行しているらしい。
やぐらの高さはおよそ三メートルほどの小ぶりなもので、踊りをするにも演奏をするにも心もとない。せいぜい一人しか立っていられないだえろう。あと、やぐらの土台部分の付近に、誰が座るのか知らないが、変な装飾の施された五つの椅子などが設置されていた。
しかし、どこを見回してみてもお祭りという行事には必須条件のはずの夜店は出ていない。夏の終わりのデートを期待して、そういう夜店をクキと一緒にめぐる事を夢想していたおれは少し裏切られた気分だった。
どうやら、かなり真面目な類いの祭事のようだった。
おれ達は仲良く並んで境内の入り口をふさぐ邪魔な存在となっていた。そこへ、色あせたグリーンのポロシャツを着た中年の男が歩いてきた。
「あっ、村長だ。おつかれさま」
クキの呼び掛けに村長は温かく笑って迎えた。




