7、こわい同業者
鼠御殿に戻ってくる頃には、もう夕方も過ぎて夜の帳が降りて来ていた。
「お帰りなさい、朝田さん。収穫はあった?」
昼間と同じく受付をしている女将の蟹山さんが声を掛けてくる。この民宿は女将さんが一人で切り盛りしているので、彼女の仕事は昼から夜にかけても終わることがない。
おれが答える前にまたしてもクキが横合いから割り込んできた。
「全然。熊とは行き会ったけど取り逃がしちゃってさ、この人」
彼女に、さっきまでのしおらしさはもはや微塵もない。驚異的な切り替えの早さである。
「あらそう、残念ねえ」
女将さんの顔は言葉とは裏腹にそれほど残念そうではない。
やはり、クキの言うとおり、小槌村の住人は山中に棲息する人食い熊を崇拝しているのか、それとも、単に女将さんがマイペースな性格なだけなのか。おれとしては後者であって欲しい。
「そりよりも蟹山のおばさん。夏祭りの準備は進んでる?」
「ええ、そりゃもう。毎年欠かせない大切な行事だからね。普段は公民館に集まって酒ばっか飲んでる村長達もこのときばかりは本腰入れるとか言ってるわ」
「腰を入れすぎてぎっくり腰とかにならなきゃいいけどね」
二人の女性はカラカラと笑い合っている。
どうやら二人はおれの失態の話は早々に切り上げ、別の話題に移ったようだ。村の祭事の話ではおれの出る幕はない。
「蟹山のおばさんのおじいちゃんも頑張ったよね。もう何年?」
「九十年よ。ああなると長いようで早いものよね。とうとうお迎えが来るんだから」
「無事、天に昇れるといいね。私も精一杯努力するからさ」
一体何の話なのか。
祭りの相談かと思えば今度は葬式か? 忙しいものだ。
「あっ、そうだ、忘れるとこだったわ。はいこれ、あんたに書置きよ」
女将さんがおれに、ちぎり取ったメモ帳だと判別できる紙片を差し出してきた。
「誰からですか?」
「あんたの先輩からよ。あの人、どういうつもりかは知らないけどね」
そこには一言、『裏庭のベンチで待つ』と書き込まれていた。
おれは首をひねりつつ、紙片の指示通りに旅館の裏庭に赴いた。念のためクキは随伴させず一人で来た。そのほうが相手方も楽だろうと考えたからだ。
裏庭には花壇も畑もなく、ちょっとした空き地があってすぐそこには村の大半を侵食する樹林が押し迫っていた。そしてそこには、まるで忘れ去れたように設置してある一つのベンチが、風雨の影響で赤錆の衣を身にまとって老いたる我が身の運命をしきりに呪っていた。
金属の足に赤錆の出血痕が見られるベンチに旅館の浴衣を着流した男が座っており、膝に肘をつく猫背の姿勢でモクモクとタバコを吹かしていた。彼の足元にはたくさんのタバコの吸殻が落ちており、長時間、暇を潰していたことが窺われた。
そこまでして、おれを待つ理由……。
当然、嫌な予感がした。
「あの……こんばんわ」
先方はおれに気づいても挨拶ひとつ返さず、無言で立ち上がってこちらに歩いてきた。
背丈はおれより頭一つ分でかい偉丈夫だった。肩幅も広く、袖からチラチラのぞく腕はがっしりと筋張り重厚感がある。口周りに蓄えた髭のせいか相手を威圧する空気があった。
「灰神楽藤吉郎だ」
その声も彼のコワモテな印象をを裏切らない割れ鐘の響きだった。
「は、はい?」
「灰神楽藤吉郎。知らんのか?」
「え、えっと。いやその、はい……」
灰神楽はあからさまに蔑みの目つきで見下してきた。
「ふん。おれはお前を知っているぞ。朝田比留夫。さすがは有名人、同業の者たちの功績には目もくれず、自分の輝かしい衆目人気のことにしか興味はないと見えるな」
おれはむっとした。呼ばれたから来たのに、前触れもなく逆切れ気味に侮辱されている。
「あの、すみません。おれ、疲れてるんで、用が無いのならこのへんで失礼します」
おれは頭を下げてとっとと退散したかったのに、灰神楽はそれを許してくず、おれの暇乞いを無視して勝手に話を続ける。
「朝田比留夫。秋田出身の田舎者ながらマタギとしては一流の腕前。猟銃一丁であらゆる猛獣を仕留められる天性の勘と自然を愛する慈愛心を持つ好人物。と、こんなところか?」
多大に皮肉のこもった口調で吐き捨てられた紹介文に、おれの気分はさらに悪くなる。
「からかっているんですか、あんた」
「本当のことを述べたまでだ。もっとも、俺が耳にした噂をそのまま暗唱しただけだがな」
灰神楽はふん、と鼻を鳴らし、蛇に似た冷徹な目に嘲笑の色を浮べた。
「しかし、今日の様子を見る限りこんな噂は所詮、根も葉もない駄法螺だったことが証明されたな」
「今日の様子?」
「お前は獲物が傍にいるにも関わらず怯えて木陰に隠れ、情けなくも取り逃がしてしまった。あげくにか弱い女性に八つ当たりして、しかも、人の目のないことをいい事に邪な行為に及ぼうとしていたではないか。清廉潔白な博愛狩猟家が聞いて呆れるわ」
おれは得心がいった。この男は自供したも同然だ。
「ということは、あの銃撃はあんたの仕業だったんですか。警察に届ければ殺人未遂に問われ……」
「俺が一番最初にこの村に来たんだぞ。後から来た奴らはみんなやられちまったが、見ろよ、俺だけは生き残っている。俺だけがこのヤマを片付ける資格はあるんだ。それを、後からノコノコ救世主気取りで現れた似非ヒーロー様なんぞは毛ほどもお呼びじゃないんだよ」
灰神楽は興奮してこちらの言い分などまるで聞こうとしない。
「ちょっと待って下さいよ。だからと言って銃で撃つ事はないでしょう。おれだけじゃなくクキも傍に居たんですから」
「気安くクキの名前を呼ぶんじゃねえ!」
肩を怒らせ、目を見開き、頬を震わし、憤怒の形相で灰神楽は恫喝してくる。
「お前だってそのうち飽きられるさ。俺が初めて来た時はクキの奴は俺に夢中だったんだ。それなのに……クソッ、なんなんだよっ」
どうやら、狩猟の縄張り云々というよりもそっちのが本音らしい。みにくい男の執念だ。
「それで、おれにどうしろって言うんです?」
「明日にも村から出て行け。ここで聞いた事見た事、全て忘れていつもの生活に戻るんだ。お前はせいぜい、つまらない動物の尻にでもハアハアして追い駆け回していればいいんだ」
あまりに下品かつ失礼な物言いに怖気が立った。
昔の事とはいえ、こんな奴に夢中だったというクキの気が知れない。いや、それはこいつが言っているだけで、本当かどうかも定かでないが。
「……考えておくことにしますよ」
「考える必要はない。もし、明日、どこかでお前と行き当たる事があれば今日みたいに手加減はしないからな。尻の穴ほじくって俺の言った話をしっかり詰め込んでおけよ!」
灰神楽は歯茎を剝き出して野性の獰猛さも露わに威嚇してきた。あまりにも単純かつ直線的な猪突猛進の怒りに直面して、おれは思わず顔を背けた。恐怖ではなく憐憫がそうさせた。
灰神楽はおれが臆したと考えたのか少し気が晴れたという顔つきになり、身を翻して横柄な態度で歩き去っていった。
一人残されたおれに夜風は冷たい。
面倒くさいことになった。
おれはため息をつき、ぼんやりと旅館の屋根を見上げた。ひさしの影に一匹の蝙蝠がぶら下り、その暗中に浮かぶ二個の火の玉で一部始終を観察していた。わざわざ不吉な演出をしてくれる。
どうにかしてくれよ、まったく。
おれは心の中で自棄気味にそう唱え、苦々しい思いで屋内に戻った。




