6、獣の森
勢いよく扉を開け放ち、外に転がり出てあたりに素早く目を向ける。肩に担いだ荷物を包む布を取り去り、つややかな薄茶色の光沢を放つ銃身を外光にさらす。
地面には明らかに大型の動物が建物の周りをのし歩いた痕跡が残っている。噂の小槌村の恐ろしい熊であると確信していたが、その足跡にはどこか違和感があった。
しかし、今はそれを論じている余裕はない。
おれは猟銃に弾丸を手馴れた動作で装填し、信管を解放した。そして、足跡に随って追跡を開始しようとしたとき、クキがまだ近くに潜んでいるかもしれない危機など一切介さないのろのろした動作で外に出てきた。
「追わないほうが良いよ」
おれはクキに露骨な非難の視線を浴びせた。結局、クキも他の村人と同じ、おれも狩りに失敗すると思っていたのだ。人食い熊を神様の使いだとする迷信を信じ、犠牲になった人々の無念など考えてもいないのだ。
クキはまっすぐにおれの眼を覗き込んできた。その瞳にはどんな感情も読み取ることは出来ない。潤んだ眼球に緑色と白色の光が点滅する淡い輝きに一瞬間だけぼおっとした気分になったが、それだけだった。
「わるいけど、おれはこのために来たんだ」
駆け出すおれをクキは強いて止めなかった。
全ての不要事項を頭から締め出して身体の全機能に戦闘開始の合図を発し、生き残るための集中力を込めるよう切り換えを促した。
足跡を辿って生い茂る枝葉を銃身で掻き分けて鬱蒼とした樹林の奥へ、奥へと進んで行った。滝のように垂れ下がる蔦や思わぬ方向から突き出る枝が、まるで視界を目隠しする意地悪な意志を持っていかのように錯覚させる。
枝を払いのけた先から突然獣の牙が襲い掛かってくるという予感が恐怖を増幅させる。聴覚と嗅覚の能力を最大限に拡張してわずかな異変にもあらかじめ察知できるよう意識する。
やがて、前方から獣がゼハゼハと息をつく、人間の恐怖本能を逆撫でする喉音を断続的に聴き取った。おれは物音を殺して、近くの木陰に潜伏する。
耳と鼻を頼りに木の裏側の様子を探り続けていると、かなり厄介な事実が明らかとなった。
どうやら目標は一匹ではなく複数いるらしい。のし歩く足音、呼吸音、取り交わすうなり声から最低でも三匹は下らない。どうやら、偵察に来た一匹は森の中で待っていた仲間と合流したものらしかった。
クキがどうしておれを止めたのか分かった。彼女は獣が単独ではないと知っていたのだ。
しかし、この程度の危難で怖気づくわけにはいかない。おれの役目とは自ら危険な所へ飛び込んで行くことなのだからだ。
おれは銃身を握りしめ、いつでも発射できるように引き金に指を絡める。そして、意識するものは自分の胸の鼓動と目標の動きだけに限定した。
そうして、待ちの一手で構えていると、ガサガサと草木の間をすり抜ける音が聞こえてくる。
いよいよだ。
極限の集中力が眼球を押し出し、脳内血管は張り裂けんばかりに脈を打ち、強張る体表面には脂汗が止め処なく川をつくる。何度も唾を飲み込み喉の奥が鳴る。
不自然に揺れ踊る草むらに照準を合わせ、姿を現したところをその眉間に風穴を開けるイメージを保つ。
緊張の一瞬。ついに深緑の間隙から相手が顔を突き出した。
だが、それは獣とは似ても似つかぬツルリとした肌色していた。
「だから言ったじゃん。三匹もいるし、危ないよ」
うわっ。
おれは危なくクキの額を打ち抜く寸前だった。
とっさに銃口を上空に逸らしたが、引き金は引き切り、ズドン、と一発、青空に発射してしまった。
クキは事も無げに普通の声量で話しかけてくる。
「ちょっと危ない。私、死ぬとこだった」
「うるさい。声は小さくしろよ。熊がそこに……」
「もういないよ」
おれは慌てて耳を澄ました。さっきまですぐそこで聴こえていた獣どもの呼吸音が消失している。
身を隠していた木を回り込んで目視すると、踏みつけられた草むらを残して獣らしい影はどこにもなかった。おそらく、連中は銃声に驚いて森の奥へ逃げ込んでしまったのだろう。これ以上の追跡は無理である。
おれは木の根元にぐったりと身を沈ませた。極度の緊張から解放されたことで体中に何ともいえない痺れが充満する。
「残念だったね。まさか、あの朝田比留夫が獲物を取り逃がすなんてね」
クキは面白がるような残念がるような、とにかく微妙な声音でおれが狩りを失敗した事実をわざわざ投げつけてくる。おれは突如として単発的な怒りに駆られ、クキの両の二の腕をつかんだ。
「痛いよ。離して」
「お前なあ………」
クキに対して罵声を浴びせようとしたが、おれを見つめるクキの様子が異様であることに気づいた。彼女に接近しことで感じとれたのだが、彼女の全身から今までにない甘みのある気配が濃度をどんどん増して周りに広がり出していた。
男の荒々しい怒りをしぼませ、代わりに別の情動を目覚めさせるある種のフェロモンであった。
ここは、おれ達の他に人っこ一人いない森のなかだった。おれ達は互いに体を接触させる寸前であり、一歩踏み出せば抱擁も可能である。
クキは濡れたワカメみたいに脱力しており、おれの手の内で柔らかく収まっている。それまで意識していなかったお喋り好きのよく動く、薄い紅色の唇が妙に気になる。
おれは心の裏で分裂した二大勢力のマシな片方に意志力を持って味方した。一片の名残惜しさを感じつつ、彼女の弾力のある筋肉の詰まった細い二の腕から十本の指を引き剥がした。
おれはクキに背を向けて、自分でも不自然だと感じる沈黙に逃げ込んだ。
「あっ、傷が出来てる」
さっき山道を走り抜けた時に茨か何かに引っ掛ったらしく、ズボンが裂けて血が滲んでいた。クキがおれの目の前に回ってきて傷の状態を確かめようとする。
「痛そう。大丈夫?」
クキが身を屈めておれの膝に触れようとする。
「いいから。放っておいてくれ」
おれは慌ててクキから離れた。いろいろな意味でクキに触れられたくない。
「でも、手当てくらいはしないと…」
クキの透き通るくらい白々とした華奢な手が逃げようとするおれの足を追跡してくる。
「いいって言ってるだろ!」
おれは、必死な勢いで身を屈めて傷口を隠し、クキの手をぎゅっと握りしめた。
おれの目線はクキと同じ高さにあった。至近距離にあるクキの濡れた瞳を見つめた。
その時の気分は表現しがたい。
おれは最初はクキをあどけない少女だと思っていた。だが、次第にもう少し大人なのではないかと考え直し、いまや、彼女は経験豊富なすれっからしの女そのものに感じられた。
彼女の仕草の何もかもに幽かな媚態が含まれていて、おれの不埒な突撃を暗に手招いているようだった。両者の顔面の近さは過去に比類ないものとなり、網膜が切り取る映像は彼女の整った顔のパーツのみで、表情その他いかなる感情の表れにも反応できないほど視野が狭くなっていた。
遠隔は理性の距離であり、度を越えた近接は理性の後退を意味する。
おれは抗いがたく、彼女の手を引いてこちらに重心を傾けさせ、己の体を密着させていく。
クキもあえて抵抗しようとせず、おれの行為に合わせるように目を閉じる。
その場の空気が気色悪いピンク色に化学変化していく。
その時、おれ達に正気を取り戻させるかのように、一発の銃声が轟いた。しかも、おれの背後の髪の毛を高速で飛行する小さい何かが掠めていった。
反射的に身を離すおれ達。見るとすぐ傍の樹皮に銃創が開いている。
誰かいたのか?
辺りを見回すが、人影を見つけることは出来なかった。
その後、おれ達はなんとなく気まずくなり、一言も言葉を交わさず立ち上がった。視線も合わせづらいので二人の間に少し距離を置き、森を抜けることにした。
深閑とした木立の下にはすでに肌寒い空気が風へと成長し、剝き出しの腕にガマガエルの舌となって絡みついてきた。




