5、小槌村の伝説
おれは埃の洪水を手で振り払い、クキがゴミまみれの空間をさらに混沌とした状況に陥れてまで見せつけたかった物を見ようとした。なりふり構わず床の物を踏んづけ、蹴飛ばして彼女の隣に立ち、それを目にした。
最初、それが何なのか解らなかった。
胸に抱えられる程度の木彫り細工である。
製作から長い年月を越えたことを思わせる独特の色合いをなしている。
そこまではわかっても、何を題材とした作品なのかはなおも判然としない。
染みこんだ埃のせいか、この彫刻のもともとの特徴なのか、陰影が激しく光の当たり加減で受け取る印象は急角度に変化する。
見る向きを何度も変えて注意深くその木彫りを観察していくと、次第に胸のうちに奇妙な不安感が湧いてくるのを感じた。
そして、ついに木彫りが何を意味しているかを悟り、総身に鳥肌が立つのをおぼえた。
そのねじくれた団子みたいなものは、この世にはありえない生物を表現しているのだった。
その形容をうまく人に伝達することは難しい。とにかく、忌まわしいとしか言えない。
まがりなりにも自分が猟師をし、動物と関係する仕事をしているからこそ、なおさらこの造型は受け入れがたかった。
あえて例えれば、それは、なにか毛深い獰猛な獣と、体節のある複眼の節足昆虫と、人の骨格めいた枯れ枝を縦横に広げる樹木が、それぞれを馬鹿馬鹿しいほど戯画化し、決して混じり合わない要素を天才的な感性で渾然一体にさせた、奇跡ないし悪夢の所業といえた。さらに輪をかけて恐ろしいのは、その生物には明らかに肉食獣じみた凸状の口が三つ付いていた。
これが神社の名の由来か?
気分が悪くなったおれは奇怪な塊から視線を外した。
やがて、クキがこちらの精神状態などに全然関心がないことが分かる興奮した面持ちで説明を始めた。
「ね、凄いでしょ。これ、なんだか分かる? この像はね、三口神社に祀られている御本尊なんだよ。私たちは熊神様って呼んでいるけれど本当の名前は………………っていうんだ」
「えっ? 今なんか言ったの?」
おれには彼女がなんと言ったのか聴き取れなかった。
というか、クキは口は開けたもののそこから声は出ず、それなので、おれはいきなりクキがあくびをしたのかと思った。
「あなたには正確に伝えられない。熊神様の真の名前は一万六千ヘルツ以上で発音しないといけないから」
超音波じゃないか!
おれはそう突っ込みそうになったが、そんな時に限ってクキの表情は真剣そのもの。今回も彼女のジョークと解釈して棚上げにする。
「それで、その熊神様がどうしたの?」
「うん、ちょっと待って。たしかこの辺に………あった!」
彼女は雑然極まる堆肥の中より数秒で目当ての品を探し当てた。来た時よりもさらに散らかした後なのに大したものだ。
彼女が差し出してきた物は、雑多な汚れで黒みを帯びたボロボロの古びた書物だった。
題字された文字はのたくる蛇を思わせ、古文書といった感じのたいへん価値のありそうな品物だった。
「古くから三口神社に継承されている、『熊神縁起』という小槌村の誕生と歴史が綴られた本だよ」
「そんな大事な物を余所者のおれに見せていいのか? しかも、考えうる限り最悪な扱い方をしているし」
「いいんだよ。どうせ今じゃ、この本を読める奴なんて私だけだし」
クキはパラパラとページをめくってくれた。たしかに、びっしりと神経質なまでに書き込まれた文字はおれなどには気色悪い模様にしか見えない。
「クキにはこれが読めるのか。すごいな……。考古学の勉強でもしてたのか?」
「勉強なんてしてないし、考古学なんてわからない。でも、この本の内容だけは理解できるんだ」
そして、クキは『熊神縁起』の内容を少しだけ教えてくれた。
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物語は上田具門という一人のきこりが山の中で斧を木に叩きつけているところから始まる。斧の刃が幹の半分まで食い込んだころ、切り口から突如として、どろりとした緑白色の液体が人の頚動脈を切ったように大量にあふれ出てきた。不思議なことにその液体は垂れ落ちず、空中に流れ上ってきたのだ。宙を浮遊する液体はどんどん量を増し、ついに具門を包み込めるだけの傘となるまで成長した。突然の怪事に放心していた具門は我に帰り、その場を逃げようとするが時すでに遅く、彼は哀れ、釈迦の手の平の如き流動性の傘に全身を抱擁され、木の開いた切り口に吸い込まれてしまった。しかし、物語はここで終わらず、そこから上田具門の壮大な冒険が繰り広げられる。かん難辛苦、試練に次ぐ試練を乗り越え、具門は一介のきこりから勇敢にして賢哲なる魔導師へと変貌していく。具門は壮大な旅と戦の果てに、やがて偉大なる………………と相対する。
姿形に関しては、
そのもの、偉大ではあるが見目はなはだ醜く、巨大な獣にあらず、広大な森にもあらず、長大な蟲にもあらず、しかし総じて眺めれば熊に近しい形状をなしたらんと察す。
と記されている。面倒くさいので呼び名は熊神で統一する。
熊神は具門に、彼を異世界に引き込んで数々の試練を与えたのは自分の仕業であり、彼にある重大な仕事を任せるためにどうしても避けられなかった義務であったのだと告げる。熊神が与える仕事とは、具門は元来た世界に戻り、人知れず村を作る。そこに、熊神を具門の元いた世界、つまり人間の世界に招来するための地場を形成することだった。そうすれば、人間の世界には人間達が知りえずともやがて知ることになる、限りない恩恵がもたらされるであろう、と宣言する。具門は熊神の命令に従い、人間世界に帰還した後、山奥に秘密の村を作った。名を小槌という。
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話し終えたクキにおれは疑問を呈す。
「これ、一体いつ書かれたお話なんだ? いくらなんでも非現実的すぎるだろ」
「そうだね。昔話として読めば面白いけどね。書かれた年代は……よく分からない。詳しく記されていないし、内容から推測しようにもほとんど別世界の描写しかないからそれも難しいし」
「大学とか博物館に依頼すれば、使用文字や紙の質から年代を割り出せるんじゃないか?」
「そうだけど、別にいいよ。興味ないし」
「著者は誰なんだ?」
「上田具門本人みたい」
「ますます怪しいな。創作の可能性が……」
そこまで会話した時、おれはある理由のために途中まで表出しようとしていた言葉を切り捨て、荒くなりゆく呼吸を抑えて口をつぐんだ。
クキは怪訝そうな表情になり何か言おうと薄い唇をわずかに開こうとしたので、おれは素早く手を伸ばして彼女の柔な口元を塞いだ。
傍目には不可解なおれの突然の行いにもクキは特に反発はしなかったが、瞳の動きでしきりに疑問を訴えていた。
しかし、やがて彼女もおれの変化の理由に気づいたようだった。彼女が理解したということが伝わり、おれはそっと手を退いた。
この村に入った時から敏感になっていたおれの聴覚器官は、社務所の外で何か人間とは違う重いものが這い回る音を捉えていた。かすかな獣の息遣いと共に。




