2、旅館・鼠御殿
「いらっしゃいませ。あら、珍しいお客だわ」
フロントというにはあまりに民家的な、銭湯の支払い台といっても通じそうな受付口だった。
そこに立つ、割烹着姿の昭和の母親像を体現した日焼け顔の女性に、宿泊代と食事代をこみで支払う。
行きずりの人に尋ねると、村で唯一の宿はここ、旅館・鼠御殿しかないらしい。
失礼を承知で言わせてもらえば、御殿というには、この旅館はあまりにみすぼらしい佇まいだ。
わざわざ鼠を冠にかけて謙遜しているあたり、名付け親はなかなか冗談を解する人だったのだろう。
入り口を抜けると十畳程度の広間。
三つのソファが背もたれを向かい合わせ、壁際の本棚の上にテレビが置いてある。
視聴者が一人、ソファに座ってこちらに後頭部を見せていた。
「この時期は別に珍しくないでしょう。たくさんの猟師たちが小槌村に観光に来ると聞きますが」
「観光だなんてとんでもない。誰も彼も殺気立って気楽に休暇なんて雰囲気じゃないわよ。それに、すぐにいなくなっちゃうしね」
「やっぱり、今年も犠牲者が出ましたか」
「そうなのよ。でも、夏の初めに最初の来た人はまだ泊まっているけどね」
「その人以外の人たちは?」
女将さんは押し黙ってしまった。
その芝居がかった沈黙が彼女の心の言葉を表していた。
「むごいですね…」
「ここの熊たちには猟師といえど、人間じゃ敵わないのかもしれないわね……ごめんね。あんたも同類なんでしょう」
女将さんはおれの背中にある細長い荷物を指差した。
おれは何も言わず、ペンを借りたい旨を伝えた。
「はいどうぞ。あとこれに名前書いてね」
ボールペンと帳面。
おれはささっと書き飛ばす。
「あさだ……ひ、る、おさん?」
「はい。朝田比留夫です」
女将さんが台下の戸棚に帳面を仕舞おうとする。
と、突然、細い別の女の手が横合いから邪魔をして帳面をかっさらっていった。
驚く女将さんとおれ。
狼藉を働いたのはどうやら広間のソファに座っていた女性のようだった。
意外にもかなり若い。
「朝田比留夫……。あなた本当に、あの朝田比留夫なの?」
「ええ、まぁ……」
初対面の相手なのに押しが強いので、おれは呆気にとられて言い淀む。
「やだうそっ! すごい! ちょっと蟹山のおばさん、あんたは知らないでしょうけど、この人はすごい有名人なのよ。失礼のないようにもてなしなさいね」
女将さんはわけが分からず何も言えないでいる。
そんな女将さんに一言も説明せず、彼女はおれに日が昇ったような晴れやかな微笑みをくれた。
反射的に目をそらした。
彼女の笑みは、眩しすぎて見つめていられない陽光だった。
それほどの、魅力があったのだ。




