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18、獣神の花嫁と偽者の狩人

 おれは境内のなかに恐る恐る入り込んだ。


 そこは、光が天空に放たれる前と特に変わったところはないように見えた。踏みしめた土は四日前の昼にクキと踏んだものと同じく、また、数分前に踏んでいたものと同質であった。


 おれは地面に灰神楽の猟銃が落ちているのを見つけた。あの人の忘れ形見だ。目が潰れ、異形たちの旅隊に連れ去られて、彼は一体どこまで行くのだろう。


 周囲の森に逃げ込んだはずの村人たちの気配はすでに無かった。


 おれは銃を拾い上げ、脚の間に挟んで支え、何とか片手で撃鉄を起こした。左側の二の腕を台にして銃をクキに向けて構えた。


 クキは涙を拭かずにおれのほうに首を傾げた。



「ありがとう、ヒル。扉を開く鍵になってくれて」


「……あのでかい光が、クキの中に収まっていくのを見た」


「そう。私のいるところにあの扉は開く」



 おれは村人が彼女をどう呼んでいたかを思い出した。



「クキノイリヤノミコ。扉を開く者。輝ける緑白晶……」


「でも、それだけじゃだめ。原動力となるエネルギーとして人間の血液が必要だった」



 クキはもう一度、夜空を見上げ、



「蟹山のおばさん。無事にあっちに行けたかな」



 そう言って、ため息をついた。



「こんなとんでもない事を仕出かしておいて、自分だけ感傷にひたってる場合か?」


「こわい声出さないでよ。あなたのおかげで渡航は無事に成功した。とても感謝してる。あの時、助けてくれたんでしょう? それなのに、どうして銃なんか構えてるの?」


「答えろ。お前は何者だ?」


「私はただ、熊神様に使える神官。村民の夢である渡航を手助けする存在」


「それだけじゃないだろう。あの光のなかで、お前はどうして他の怪物に襲われることなく、熊神と戯れることができたんだ?」


「大した理由じゃない。私は、熊神様に仕えると同時に、熊神様の婚姻者という身分にある」



 恐ろしい真相を事も無げに言い放つ。愁いを帯びた少女の顔に三日月の弱々しい明かりが照り映える。



「婚姻者? あの怪物の?」


「そう。でも、私は熊神様の妻としてやらなくてはならない使命がある。それは、熊神様が通過できる回廊を、年に一度だけ、この地に繋ぐ仕事」


「どうして、そんなことを?」


「私にしかできないことだから。それが私の存在価値で、宿命だから」


「何だよそれ」


「私の父親の名は、上田具門」



 クキは片手に持っていた、灰神楽が落として行った本を振ってみせた。


 おれは唾を何度も飲み込み、飲み込みがたい現実を必死に嚥下しようとした。



「……何だって? どういうことだよ」


「私は小槌村の創始者にして不世出の魔導師の娘として生まれた。私は生まれ出でた頃から熊神様の花嫁だった。本当のことを言うとね、私もみんなのように渡航したいんだ。でも、それは許されない。私はこの村を渡航の中継点にし続けなくてはならない。これまでと同じく、またこの先何百年も」



 おれは以前、クキに年齢を聞いたことを思い出した。


 彼女にとって、人間の数える年齢指数などまったく意味のないものなのだろう。クキには、あどけない少女と、威厳のある女性と、熟れくずれた婦人とが同居していて、それは、人とは異なる時間を生きている彼女だからこそ持ち得た美しさだったのだろう。



「クキ。お前は人間なのか? それとも、違う何かなのか?」


「どうだろう。私は人間。でも、偉大な神を夫に持つ妻。だから、人間じゃないかもしれないけど、やっぱり人間なんだ」



 おれは引き金を引いた。


 ズドンと銃口が火を噴き、反動で身体が反った。弾丸がクキの頬に傷をつけて掠めていった。



「答えるんだ。お前は人間じゃないのか?」



 おれが助けたものは、この世にいてはならない怪物なのか。



「そんな答えに意味なんて無い。見たものだけが現実。信じたものだけが真実。真相なんて捉え方しだいで幾通りも様変わりするあやふやなものなんだから」



 クキはそう言って困ったように微笑み、続けた。



「でも、あなたの質問に答えられることが一つある」



 おれは息をつめてクキの言葉を待った。



「私の産みの母親はずっと昔にいなくなったんだけど、私の記憶の通りだとすれば、その人は口が一つだけじゃなかった」



 身体の底から冷たい触手が湧いてきて、内蔵を撫でた。引き金にかけたままの指が青くなり、凍りついていた。


 死体の肌のように柔らかくヌメりを帯びた沈黙。


 そして、再び、クキが口を開く。



「そう。見たものだけが現実。でも、あなたは今回、自分の見た物を見誤った」



 クキの微笑みが意地悪なそれへと変化する。



「あなたはさっきの一発を当てるべきだった。それで、決着はついたはずなのに、下らない好奇心から運命の一発を脅しに使ってしまった。でも、もう遅い。…ねえ、儀式を始めるとき、私が朗読した『熊神縁起』の一節を覚えてる?」



 おれはクキの言いたいことの見当がつかず当惑する。背後の森で木々がざわめく。



「そこにはこうある。『そは光を滑り千なる樹脈に湿潤するもの』 熊神様は全ての森、地球と外宇宙の惑星のありとあらゆる植物に等しく湿潤する存在。あなたは熊神様が光に乗って宇宙の彼方に去ったと思っているのでしょうけど、それは勘違い。だって、ほら、後ろを見てみればいい」



 背後の森より迫る荒い息遣い。獣の体臭。重い生き物が大地を踏み歩く振動音。背後を振り返ることはできない。



「さようなら、偽者の狩人さん。なんというか、それなりに楽しかったかも」



 おれは頭上を覆い尽くさんばかりの気配を感じて、本当の餌食になるのだと悟った。逃走も攻撃も抵抗も無意味だった。ああ、髪の毛にかかるのは湿った呼気ではないのか。


 と、その時、肩先に鋭く固い物ががっちりと食い込んできた。そして、おれの体は物凄い力で上方に引っ張り上げられた。状況を正しく認識できぬ間におれは大空へさらわれてしまっていた。



「帰るぞ、106号。こんな危険な場所からはとっとと退散だ」


「杭沢さん! 生きてたんですか!」


「あの光のタワーが出現する直前に大急ぎで境内の空中から外れたのさ」


 おれを掴んでいるのは変身した杭沢さんの猛禽類状の足だった。杭沢さんはおれを抱えながらも一向に衰えない速力で飛行している。


 見下ろすと、神社の境内に立つクキと、さっきまでおれが立っていた場所のすぐ後ろに黒々とした大きな影がわだかまっている景色があった。


 どんどん遠ざかっていくクキの顔には一体、どのような表情が浮かんでいたのか、もう知ることは出来ない。



「……あの、すみませんでした。おれのせいで任務が失敗して」


「まったくだ。会社に帰ったらしばらくは研究室に監置処分だろうな。それから、その腕の治療費は自己負担だ。わかってるな?」


「……はい」


「本当ならもっと重い罰を下すところだけどな。今回は不慮の事故ってことで大目にみてやる。」



 実はあれは故意でした、なんてことは言えなかった。言ったところで、どうしてあの時、自分がそんな事をしたのかを上手く説明するのは難しいだろう。


 おれはクキにヒルと呼ばれていた日々を思い出した。その間だけ、おれは偽の朝田比留夫でも106号でもなく、「おれ」でいられた気がした。彼女と過ごすうちに、生みの親の研究員から授かった唯一の存在意義が揺らぎ始め、おれとしての自我が発芽するという奇妙な感覚に陥った。


 それは錯誤なのか。ユメマボロシなのか。


 たとえそうでも、単なる餌役だとしても、いや、餌役だからこそ、指示に従う以外にも出来ることはあるのかもしれないと、そう思ってしまったのだ。


 おれの内奥の、細胞の奥から朝田比留夫の遺志が、今やはっきりと、そう囁きかけている。


 空にはおれを嘲笑う三日月。その隣に熊神が去った星座。眼窩には起伏の激しい山林。吹き上がる木々の香りが鼻孔を吹き抜ける。


 ふと、クキの明るく軽い笑い声が頭の中でコダマし、心の窓から意識的にその幻影を排除しようとした。


 無理だった。


 たぶん、おれはこれからもずっと、彼女のことを恐怖と思慕をもって思い返すのだろう。




題名のベイトマンとは餌男という意味です。今さらですが。

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