16、乱闘
「いっ、ぎあぁぁ!」
ミリミリと肉の裂ける音がして、俺の左手は肘の先から消失した。太い肉塊を咥え獣が昂然と立ち上がった。腕の断面から鮮血がドバッと溢れ出す。
「どうした、106号!」
杭沢さんが走り寄って来る。獣は杭沢さんの気配を感じてその場を飛びすさる。
「い、生きていました。一匹だけ、死に損なっていたんです。油断して腕を食い取られてしまいました」
「心配するな。お前には餌役としての特殊機能が搭載されてあるだろ。大事には至らない。それより、問題はあいつだ」
杭沢さんはおれ達から離れた安全地帯でおれの腕をうまそうに貪る獣をにらみつけた。
「毒薬はないんですか」
「ある。が、すべて弾丸に仕込んで灰神楽の猟銃に装填してある…………おい、灰神楽、わかっているな! 残弾は少ないんだ。一発も無駄にするなよ!」
「重々、承知していますよ。任してくださいな」
灰神楽は標的をクキから獣に切り換える。
「さて、今度こそ本当に息の根を……」
その時、灰神楽の隙を突いてクキが銃身に掴みかかった。
「なっ、このガキっ!」
灰神楽はクキを振り払おうと左右に大きく振り回すが、クキは反動をつけて灰神楽の大腿部に強烈な回し蹴りを食らわせた。
これにはさすがの偉丈夫もまいったらしく、痛みに呻き、力を抜いてしまった。すかさずクキは相手から猟銃を奪ってしまった。
「形勢逆転だね」
クキは銃の筒口を灰神楽に向ける。
「クキ、それを返せ。女子供に使えるモンじゃねえよ」
「どうかな。試してもいいけど?」
二人はじりじりと互いの反応を探る。
「猿柿さん! いるーっ?」
灰神楽から目を離さず、クキは後方でこの危険なやりとりを傍観するしかなかった村長に呼びかけた。
「ああ、いるよ。クキよ、我々はどうしたらいい?」
「みんなを連れてここから離れて」
「それは出来ない。お前にもしものことがあったら……」
「私は大丈夫。熊神様がついてる」
猿柿村長はハッとしたような顔をした。
「そうか。そうだったね。この村では、クキは絶対に安全だ」
「分かったら言われたとおりにする!」
「ああ。わかったよ。クキ、脅威なる庇護のあらんことを」
「うん。猿柿さんにも、みんなにも、脅威なる庇護のあらんことを」
二人はそう言い交わして、村長はどうしたら良いか判じかねて立ち尽くす村人たちに引き上げを促した。
灰神楽が一歩、足をするように前に出る。
「ずいぶん、心の余裕が出来たもんだ。だが、よく考えろよ。その引き金を引いたら唯じゃおかないぞ」
「それより、早くそれをこっちに渡して」
クキは顎をしゃくって灰神楽が小脇に所持する書物を示す。
「その銃と交換条件、というのはどうかな?」
「あんたを撃ち殺して、死体から奪ってもいいんだよ」
「おいおい、手違いで大事な本に傷でもついたらどうする?」
灰神楽は書物を胸の前に持ってきて盾みたいにする。両者の間では敵意と策謀の臭気が刻一刻と増大していく。
一方、杭沢さんとおれは活動を再開した獣の動向を見張っていた。
獣はおれの腕を食い終わると新たな獲物と敵への報復を求めて、のろのろとその場を旋回していた。栄養を摂取したためか獣は先ほど受けた傷をすでに問題にしないほど元気活発であった。
「おい、106号。患部の具合はどうだ?」
「はい、止血は終わりました。そろそろ皮膚の再生に入ります」
おれは答える。事実、おれの食いちぎられた腕の断面からは血は止まり、ピンク色の膜に覆われて肉芽が形成されている。
これが、餌役のクローン体に搭載される能力の一つ、超治癒力だった。残念なことに組織の再生までは不可能なので、会社に戻ってから人工の腕を手術で縫い付けてもらわなければならない。
「もう、動けます。大丈夫です」
「そうか。しかし、あの薬が効かない個体がいようとはな」
「薬効は表れていましたが、他になにか毒薬の効果を阻害する要因でもあったのでは」
「いや、なにせ研究段階の霊界の植物を主成分にしている試験品だからな。未知の効果が現れてもおかしくない。データが採れただけ、まだ収穫だ。……ま、それとこれとは別だ。あれは私がどうにかしよう。灰神楽は動けないようだしな」
杭沢さんは靴と上着を一気に脱ぎ捨て半裸の状態になる。すぐに、杭沢さんの肉体が変異し始めた。
身長が伸び始め、スマートだった体が一回り大きくなった。いたるところの皮膚から細かな繊毛が広がり、あっという間に全身は茶色掛かった毛に覆われた。手には猛禽類のような長く鋭い爪が生え、足も鷹か鷲のごとく獲物を掴み取るのに適する湾曲した爪と足底になった。背中からは薄い皮膜を張った長大な翼が左右に広がった。ハンサムだった容貌は見る影もなく変化して、皺のよった茶色い眼元、耳下までザックリと裂けた燃える赤色の口内からは二本の長太い犬歯がにゅっと突き出ていた。
その姿は巨大な蝙蝠だった。
これも『霊験転写法』研究の功績といえる。杭沢さんは蝙蝠を操り、自らも蝙蝠に変身できる力を与えられているのだ。ちなみに、使役する蝙蝠は簡易な監視から信号のやり取りまで幅広く運用可能である。
「があぁぁっ」
杭沢さんは鳴き、大空に飛び立った。十分に滞空してから、一気に下降し、四対の鋭いかぎ爪で獣に襲い掛かる。
獣もなかなか抜け目がない。これまで見たこともないスピードで広場を駆けぬけ、杭沢さんの高速の攻撃を間一髪でかわしている。
攻撃が空振りに終わった杭沢さんは一度、地上数十メートルの高さまで急上昇する。焚き火の明かりが届く領域から出て、夜空の闇に同化する。
獣は上空を仰ぎ見て、グロテスクに変形した耳をヒクヒクと動かしている。聴覚を駆使して一帯を索敵しているのだ。
杭沢さんは森の方向から猛スピードで滑空してきた。そのまま一気に首を取るか、大空に持ち上げて遠方に投擲する魂胆だったのだろう。
しかし、獣の反応も負けていない。なんと獣は背後の敵が己に触れる寸前に見事なバック転をきめ、薄茶色の皮膜の上に飛び乗った。杭沢さんは地面に墜落する。が、接地と同時に回転して獣を地面に擦り付ける。
獣は弾き飛ばされ、右半身の皮膚がべろりと剥離する。杭沢さんも背中に負傷して、足を広く持つことで姿勢を保っている。
両者、息荒く、獰猛な野生の圧力はさらにその場の空気をギチギチと引きしぼる。
村人たちは人間離れした戦いに恐れをなして、皆、森のなかに避難していた。
こっちでは杭沢さんと獣との空対地の対決が繰り広げられていた。
あっちでは銃を構えるクキと書物を盾にする灰神楽との交渉合戦が続けられていた。
おれはなすすべなく、ボンレスハムと見分けのつかなくなった自分の腕に視線を落とした。
と、その時、おれは気になるものを見た。
おれの腕から流れ落ちた血液が地面に吸い込まれていったのだ。やがて、すべての血が土の下に消えた。
しばらくは何事も起きないように思えた。
だが、それは、ゆっくりと確実に起こった。
地面が光を放ち始めたのだ。




