血は縦に流れる
前向きな話ではありません。
月、煌々と照り輝く夜。
紺の雲はゆるゆると流れ、木々は微風にざわめく。
蒼い真夏の空。
真昼のごとき明るさの土手。
街へと続く小道を歩いていたその娘は不意に道を外れ、川原へと滑り降りる。
近くにはススキが繁茂して、大勢の虫たちがうるさく自己主張していた。
本能のままに、見境なく。
娘は、でも、その一途さは嫌いじゃなかった。むしろ好ましくさえあった…吐き気がするほどに。
なににも悩まない。
その先に待つ生殖行為のみを目指した羽の摺れる欲情の音。
それを聞くほどに、娘はたまらない喜びを見出し、踏み散らかしたい衝動に駆られる。
蹂躙すること。
それによって彼女は優越者となる。
淫売から生まれた貧者から、哄笑する勝者へと。
彼女はそれを知っていた。
今日も、ここに来た。
真に勝者足り得る者からすれば悲しいほどにささやかな、けれど彼女の日常では決して得ることのできない充足を手に入れるために。
やけっぱなしの快感を得るために。
川沿いの小道を歩く人影がある。
月光の下、照らし出される姿は2人の男女。
甘ったるい雰囲気で肩を組んだり、抱き合ったり、若い2人は互いの体温を不必要に共有する。
まるでそれが生きる上で不可欠な行為だとでもいうように、熱に浮かされた男女は自分達の欲求を隠そうともしない。
団地の外れにある、誰もいない夜の道。
誰もいないのだから、彼らが隠す必要もないのである。彼らが熱烈に互いの唾液を交換する作業に、なんの支障もないのである。
彼らは互いに蛇か、はたまた植物の蔦のように腕を、腰をのたくらせ巻きつける。
動くがままに手を動かして相手の髪をかき乱し、求めるがままに唇を肌に這わせる。
その行為は次第に熱を増し、加速していき、やがて傍から見れば目を覆いたくなるような、そんな姿態を見せ始めた。
その様子を少し離れたススキ原からじっとみつめる視線がある。
その主は、若い娘だ。
本当は決して勝者になることのないあの娘だ。
娘は怒りを灯した瞳を2人の男女に向けていた。
なにも考えずに幸せを謳歌している2人を憎悪していた。
そしてその憎悪は、自分の立場と彼らの能天気さとを比べた結果、我が身を悲観することで、更に強いものとなった。
(…なんでなの、なんで私だけ?)
(…みんなは幸せ。世界は、私を置いて回り続ける)
(…せめて私の苦しみの一端でさえ…感じてよ、お願いだから)
娘は血のついたテッシュをその場に放り、カッターの刃を伸ばすと、群れるススキを払って進んだ。
盛る2人を目指して…ゆっくりと。
頭に浮かぶとめどない空想に促されるままに。
私という存在を、思い知らせてやるために。
女はふと、なにか違うことに気づいた。
それは、小さな異変のようなもの。
じわじわと、にじり寄る予感から女はなにか形のない不快さを感じ取っていた。
それは間違いなく面白くないものだ。
しかし、それは間もなくやってくる。
決してどんな嘆願をしても聞き入れられることのない暴力。それはある意味、人のあふれるこの時代に生きる以上、絶対に見ないでいることのできないものなのかもしれない。
男と戯れる女の前に、それは包丁という刃物とともにやってきた。
女は見た。男の目を。
狂気に堕ちた人の目を。
その目は、女を見つめてはいるものの、女を見てはおらず、愉悦と狂喜に満たされ、明らかにまともなんかじゃあなかった。
口の端から零れる鮮血。
女は自分の腹に根元まで刺さった包丁を、信じられないといった目で見ながら、崩れ落ちた。
夜闇に紅い血だまりが広がる。
男は殺人鬼だった。
前にも一度、女を殺したことがある。
馬鹿な女だった。
夕暮れ頃の街角でちょっとひっかけて、しゃれた酒場で少し飲ませる。後は雰囲気に合わせて人気のないところに誘い込み…精神の高まりに任せて刺し殺す。
最初から、男は殺す算段を考えていたというのに、哀れなその女は自らほいほいついてきた。
男はそんな女が大嫌いだった。
自分の口説きにのってくる、そんな女にへどを吐きたいほど憎しみを募らせていた。
彼が殺人を犯すようになった原因は、彼が育った、複雑でいて実は単純な家庭環境の問題であるのだが、そんなことはここではさして重要ではない。
大事なことは、彼は出会ったばかりの女を殺す残虐な殺人鬼に育ってしまい、実際に今、女を刺したという事。
そして、その出来事をすぐ傍のススキ原に潜んだ娘が見ていたということだ。
でも、見られた事に男はまったく気づくことはなく、何度も何度も女の体に包丁を出し入れしては喜悦に浸った。
相手を殺すということは、相手を支配するということ。
彼はこの場において、馬鹿な女1人の完全なる征服者になったのだ。
その予期しない光景に、怯える影一つ。
言うまでもなく、それはあの娘のことだ。
娘は数分前まで確かにあの2人組に敵意を持っていた。それは八つ当たりとしか言えないような感情であったが、そうそう軽い気持ちでもなかった。
娘は2人組の前に躍り出て、自分の傷だらけの様相を見せるつもりだった。
彼らの目前で自分の手首をかっきり、困惑と恐怖とを与えてやるつもりだった。
なのに、男は女を刺した。
思惑はまるきり外れ、むしろ自分の方が彼らから驚愕を与えられてしまった。彼女は一時自棄になってはいたが、感覚は通常の人間と変わることはない。
男の凶行に毒気を抜かれ、すっかり怯えてしまっていた。
(…ダメ、人殺し…。早く、逃げなきゃ…)
無意識に後ずさり。
揺れるススキ。伝わる音。
視線を外せない。視界から逃しては、不安でたまらなくなる男の背中。
その男が、びくりとして、こちらを向いた。
気弱な娘は悲鳴を上げた。長い長い絹を裂くような悲鳴。
見つかってしまう危険を意識してさえ、悲鳴を押しとどめることはできなかった。
物音に振り向いた、その男の口には。
哀れな犠牲者の腹から取り出された内臓がぶらりと垂れ下がっていたのだ。
見られた。
そう思った瞬間、男は頭から冷水をかけられた気がした。
驚愕に思考が麻痺する。
一番先に頭に浮かんだのは職場のことだ。やっとの思いでしがみついてきたあの職場とも、刑務所行きとなればおさらばだ。憎たらしいすきっぱの上司の嘲笑する顔が浮かんで男は身震いした。
「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ」
「このボケ! ノロマ! お前脳みそはいってんのか!」
…。
(…ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! お前は俺のことをなんにも知らないくせに!)
この女のせいで、今まで積み上げてきた何もかもが崩れていってしまう。
脱力感にも似た絶望。
しかし、男はすぐさま思考を切り替えた。まだ、まだ巻き返しが利くはずだ。
(こんなクソ女を殺したくらいで、俺の人生終わらされてたまるか…!)
男は自分に破綻をもたらす存在に対し血走った目を向けた。自分の主張が社会に決して迎え入れられることのないものであるとしても、関係ない。この場の支配権は自分にある。この些細な出来事も、限定された今、この時間だけのものとしてしまっておけるのなら、これまでと何も変わらない生活を送ることができるのだ。
そのためには、この娘にも黙っていてもらわないといけない。
(なあに、こいつもどうせクソ女だ。クソ女がもう一匹死ぬって事は、社会がそれだけ綺麗になるってだけなのさ)
腰を抜かしたか、尻を引きずり仰向けの体勢で逃げようとする娘。
いい。それでいい。
男は娘の反応に満足する。
この場限りにおいては男は絶対的な支配者なのだ。
クソ女は男に畏怖し、恐怖し、心まで服従されながら、殺されなければならない。
男の想像通りの反応のみに行動し決して予想外のつまらない反抗に出てはいけない。
そうでなければ、男は安心して快楽殺人を実行できないのである。
(だからお前は俺に殺されればいいんだよ。素直に俺に懇願してよ。そうしたらお前の臓物、しっかり愛してやるからよ)
正しいことだ。
正義だ。当然だ。
男自身、これが社会的にも倫理的にも許されざる行為だということくらい、知っている。
けれど、男の中で、今だけは自分のしていることは正しいことなのだ。矛盾だろうとなんだろうと男の行為は認められるものになる。他人に裁かれてはいけない。
男は見せ付けるように包丁をちらつかせ、娘ににじり寄る。
最大限恐怖をあおるように演出し、しかし娘には決して逃げられないと思い知らせる。助けることも無駄だと、絶対的優位者である自分に服従するしかない家畜であるのだと。
男の意図は当たった。いやらしく、恐怖が高まるように緩急をつけた動き。これまでに何度も何度も頭の中で空想した動作は成功し、かろうじて逃亡を試みようとした娘の望みも断った。二三回強く顔を殴れば女は黙って泣くだけになった。
(そう、クソ女は従順にしていればいい)
後は先ほど水を差された代償として、娘を自分の快楽の餌食にするだけだ。
男は獰猛な本能の望むままに娘の上着を軽く剥ぎ取り…気づく。
娘の小さく続く嗚咽。それが徐々に、乾いた笑いへと変化していくさま。
いびつにゆがんだ笑顔を浮かべる娘。
男はぞっとして娘の顔を殴りつけた。
「な、なに、笑ってやがる。気でも触れたかよ!」
娘は笑う。
こらえきれないように、まんまるい瞳から絶え間なく涙をこぼしながら。
「俺を笑っているのか? …なんだよ、ちくしょう! 笑うな、笑うなぁ!」
男は娘の予想にない行動が怖くなった。本人はもうとっくに忘れたと思っている過去の恥辱を思い出した。焼きついた思い出はそう簡単に忘れられやしない。それが悲劇の色を帯びているのなら尚更だ。男は代替行為として殺人を犯さねばならないほどに、脆かったのだ。
娘が笑いだした理由は他でもない。自らの境遇が笑えたからだ。
多分、普通の人が笑っている頃、娘は悲しんでいた。多分、大多数の人間が喜びを享受している頃、娘は泣くこともできなかった。散々苦しみぬいて、自らを傷つけて、終いには異常者に殺される。なんてくだらないて、お似合いな結末だと娘は笑えてきたのだった。
ちっぽけなことだ。
こんな悲劇なんて実はどこにでも転がっている。
でも、娘にはこれはたった一回の人生なのだから、大いに悲観するも自嘲するも自由であるのだった。
(…もういいや、どうせここで終わるなら)
娘はもう、吹っ切れたつもりでいた。
そして、何かの本で読んだことのあった、月を掴もうとする馬鹿げたポーズをとり、娘は笑いをとめて男に言った。
「さぁ、どうぞ。殺してください」
やわらかな声だった。
男は膠着していた。その顔に浮かぶのは明らかな困惑。まさか「どうぞ」なんて相手から催促されるなんてことは彼の考え得る範疇から大きくはみ出していた。
(…殺さないでって、言わないのかよ)
あまりのあっけなさに呆然としていた男は、ふと気づく。
娘の、天に伸ばした右の腕。
その腕には無数の切り傷の痕があって、赤黒く変色した液体が付着していて、深く深く何度も抉られていて…。
噴き出していた血滴がゆっくりと裾へと流れる。
男は見覚えのあるその痕がなんなのか即座に理解した。
「どうぞ」にこめられている意味も痛いくらいに理解した。
そして、わっと泣き出した。
(俺にはこの子は殺せない)
そう思った。
きっと自分だけだ、と思う。
こんなに苦痛に呻くのは。こんなに苦しんでいるのは。
誰にも理解されないということは恐ろしくつらい。近くにどんな形であれ、信じられる誰かがいる人間ならいいが、本来あるべきそれを見失った者は心を食らう病に徐々に蝕まれていく。
彼と彼女が果たして間に合ったのか、それからどうなったのか。
そんなことはあえて語られることはない。
ただ、男は片割れを見つけた。
それだけの話。
たったそれだけの一夜の話。
終