第1話 眠り姫、月ノ瀬 夢乃
ここは……そうか、保健室か。
5限目の授業が終わった頃、俺は目を覚ました。
体育の授業中、ちょっとフラついて保健室で横になっていたのだが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「……さすがに3日連続徹夜はマズかったか」
――無理はしないでね。体調が悪いなら放課後まで寝ててもいいよ。
って担任の阿部ちゃんが言っていたことだし、お言葉に甘えて、放課後まで保健室で眠ることにする。
俺は再びまぶたを閉じようとすると、
「…………?」
……何だ。
何か温かい。それだけじゃない。体が――重い?
「……ん、ぅ」
すぐ隣から、小さな寝息が聞こえた。
視線を向けた俺は、一瞬びっくりして固まってしまった。
「すぅ……」
女の子が、飼い主に甘えてるネコのように俺の腕にしがみついて寝ていたからだ。
短い髪がふわっと広がっていて、制服のリボンが少し曲がっている。ほっぺたが俺の胸にくっついていて、息がほんのり伝わってくる。
「……だれ?」
なんで俺の隣で寝ているんだ?
「……んっ……ん〜」
その子の腕の力が少し強くなって、体がぴったりくっついた。
押し当てられていた胸が密着し、柔らかく潰されている。
顔が近いし、いいにおいもする。
……ごくり
思わずツバを飲みこんだ。
なんだ………このラッキーなイベントは?
だがこのまま誰かに見られたら、めんどくさいことになるのは間違いないだろう。
慌てて少し体を動かすと、その気配を感じたのか、彼女がゆっくり目を開けた。
「ん……ふわぁ~」
金色に近い茶色の瞳が、眠たげに俺を見つめる。
「……おはよ」
「お、おはよう……あの~、いきなりで悪いんだけど、君……誰?」
「ん~?わたしぃ?」
まだ眠そうに目をこすっている。まだ俺の腕を抱きしめたままだ。
「私のなまえは……月ノ瀬夢乃……だよ」
「……月ノ瀬?」
その名前を聞いて、すぐにピンときた。
月ノ瀬 夢乃。
2年2組。隣のクラス子だ。
休み時間だけじゃなく、授業中もよく寝ているって話で、みんなから『眠り姫』って呼ばれているらしい。
名前だけは知ってたけど、こんなに可愛い子だったなんて思わなかった。
「あのさ……なんで、俺の隣で寝てたの?」
俺は正直に疑問をぶつけた。
夢乃は、ぽかんと口を開けたまま、数秒間まばたきした。
「ん~……なんでだろ?」
首をかしげる彼女の声は、本気でわかってない感じだった。
「分からないのかよ!」
思わずツッコミを入れると、夢乃はくすっと笑った。
「……気づいたら、陽くんの隣で寝てた」
あっけらかんと答える彼女の無邪気さに、俺は少しだけ言葉を失った。
「……もしかして熱でもあるのか?それで意識がもうろうしてたとか?」
「ううん、元気だよ。寝不足だけどね」
「……だったら、隣のベッドで寝ろよ。空いてるんだから」
「ん~……でも、ここ、気持ちいいから」
そう言って、彼女は俺の腕に顔をすり寄せた。
「おいおいおいおい! 人を抱き枕代わりにするんじゃねぇ。隣で寝ろ!」
あわてて引き抜こうとするが、夢乃の抱きつき力は想像以上に強かった。
「だいじょぶ、もうちょっとだけ。あと5分……」
「いや、そういう問題じゃ……って、寝ようとするなよ!」
目の前で目を閉じる夢乃。
その顔が、安心したように少し微笑んでいて、俺はなんとも言えない気分になった。
――なんだよこいつ。自由すぎるだろ。
もういい。こいつが動く気がないなら、俺が隣のベッドに移動するしかない。
俺はため息をついて体を起こそうとした。すると、夢乃がじぃーっとこちらを見つめてきた。
「……ねえ陽くん。一緒に寝ない?」
「はあ?」
「陽くんと寝ると……すごく落ち着くから。もうちょっとだけ、一緒にいてもいい?」
そう言いながら、月ノ瀬は俺の腕にそっと頬を寄せてきた。やわらかい髪がさらりと触れて、思わず背筋が伸びる。
……ちょ、近いって。
「お、おい、いいのかよ? 男女が同じベッドで寝てたら、誰かに見られたときに誤解されるぞ?」
「別にいいよ。私は気にしないし」
「俺が気にするんだよ!」
「陽くんって、彼女いるの?」
「いないけど」
「じゃあ、問題なし♪」
「いや、あるだろ」
完全にペースを握られていた。何を言っても、彼女は笑顔のまま、眠たそうにこちらを見ている。
「……陽くんって面白いね」
夢乃が小さく笑いながらつぶやく。
「別に面白くねぇよ」
ぼそっと返すと、夢乃はふにゃりと微笑んだ。
「じゃあ……もうちょっとだけ、ここにいてくれる?」
「……なんで、そこまで俺にくっつくんだよ」
「んー、なんでだろうね。陽くんと一緒だと、すぐ眠くなっちゃう。なんだかいい夢が見れそう」
「お前……俺のことを抱き枕かなんかと思っているだろ?」
「まあね♪」
夢乃が悪戯っぽく笑った瞬間、ガラリ、と保健室のドアが開いた。
「──陽兄ぃ!大丈夫か~!僕がお見舞いに来てやったぞ!」
思わずビクッとしてそっちを振り向くと、そこには俺んちのお隣さん、桜井ひなたが立っていた。
「ひ、ひなた!?」
制服の袖をまくって、アイスを片手に持ってる。
状況が状況だけに、いきなりの来訪は恐ろしい。
目が合った。ひなたの視線が、俺と夢乃の距離感にピタッと止まった。
数秒の静寂。
「…………陽兄ぃ?」
やばい、笑ってない。完全にマジのトーンだ。
「ち、ちがっ……いや、これには色々わけが……!」
「へぇ……そうなんだ。ふーん……心配して来たのに、ずいぶん元気そうじゃん」
ひなたがにっこり笑った。けど目が笑ってない!
「陽くん、あの子知り合い?」
夢乃がひょこっと顔を上げて、聞いてくる。
「あぁ、こいつは――」
「違うよ」
ひなたが先に言った。その声は妙に低かった。
「私の知り合いに学校の保健室でいやらしいことをしてる変態なんて、いないから」
「いや、別にいやらしいことなんて」
「知ってる? 不純異性交遊って、校則違反なんだよね。風紀委員としては、見逃せないなあ……これは厳重に処さないといけないね。特に男のほうは」
俺の言い訳はひなたの耳に入らない。
──終わった。
俺は心の中でそっと憩いの時間に別れを告げた。




