11. 魔女シエルテについて
翌朝。
いつもより早い時間に起きたオリーは、メガネを掛けるとパジャマのまま急いで部屋を出た。
オリーが急ぐ理由――それは、昨夕から二人の姿を全く見なかったのは、宿を変えたからかもしれないと寝入りに気付いてしまったからだった。
最悪、もう町を出ていってしまった可能性が脳裏をよぎりながら、オリーは二人が泊まっているはずの部屋のドアをノックする。
ノックから数秒――昨夕と変わらず、部屋の中からは返事も気配もない。
やっぱり、とオリーが諦めかけたところで、不意にドアが開いた。
「――おはようございます」
「リィナさん! よかった。まだここに泊まってらしたんですね」
安堵の息と共に出たオリーの言葉に、シワひとつないメイド服姿で現れたリィナは怪訝な顔をした。
「昨日、この廊下でお別れしたと思いますが?」
「その後で部屋を訪ねても、お二人ともいらっしゃらなかったので宿を変えられたのかなぁと」
「あー……気のせいでは?」
「……」
あからさまなごまかし――。
オリーが訊ねるより先に、ところで、とリィナは急に話題を変えると表情を引き締めた。
「アーシェルさんに聞きたいことがあるのです」
「聞きたいこと、ですか?」
「はい。ただ、シエルテ様には聞かれたくないので、アーシェルさんの部屋にお邪魔してもいいですか。今ならシエルテ様がまだ寝てるので今のうち」
特に悪びれる様子もなくそう言ったリィナに、オリーは笑顔を引きつらせた。
「わ、わかりました。どうぞ」
ドアを開けて部屋に入るオリー。その後に続いて、リィナもオリーの泊まる部屋に足を踏み入れた。
――飛び込んできた光景に、リィナが呆れ顔になった。
ベッドに開いたまま置かれた本と、床に垂れた掛け布団。椅子に脱ぎ捨てられたまま掛けられたオリーが昨日着ていた服……。
「汚いですね」
「な、何を言っているのかなぁ。このぐらい、汚いうちに入らないよ。うん。ちょっと。ちょーと、散らかっているだけだよ」
「……そうですか」
向けられたオリーの冷たい視線に耐えかねて、オリーは咳払いをひとつした。
「それで。聞きたいこと、というのは?」
「忘れるところでした。シエルテ様について、あたしに教えて欲しいのです」
「え?」
教えて欲しいのはむしろオリーの方だ。予想外の言葉にオリーは思わず聞き返した。
「それはどういう?」
「シエルテ様に拾っていただいてから、あたしはシエルテ様に色々なことを教えていただきました。この国の言葉から魔術だって。……ですが、シエルテ様自身のことは教えてもらったことがありません」
(ああ、そうなんだ。この子は何も知らないんだ)
「えーと……ご本人があまり話したがらないことを、他人から聞くのはやめておいたほうがいいと思うの」
魔女の機嫌を損ねるかもしれないことはしたくない、と思うオリーの内心を知ってか知らずか、リィナは力強く頷いた。
「それは大丈夫です。アーシェルさんから聞いたことを秘密にしますから」
それは大丈夫とは言わない、と喉元まで出かかった言葉をオリーは飲み込む。代わりに仕方なく、オリーは昨夜、自身も確かめた本を手に取るとリィナに開いて見せた。
「この本には有名な魔術師や魔女の名が記されています。昔々の魔術師組合が組合員やその師弟を系図にしたものです。その中に――」
オリーはわかりやすいよう記された名を指さす。
「……シエルテ様の名前」
「はい。さらに驚きなのがその師匠の名前です。名を『冷たい月のヴィヴィアン』。五百年前、国をひとつ地図から消し去った魔女です」
言葉の意味が理解できず、リィナは小首を傾げた。
「国を? 消した?」
オリーが真剣な表情で頷く。
「そう伝わってます。王都は何もない荒野と化し、さらにヴィヴィアンを討伐しようと追撃した貴族の領都はそのことごとくが更地になったという伝説があるのです。その所業をして、ヴィヴィアンは別名を『更地の魔女』と呼ばれていました」
「……シエルテ様はそんなすごい方の弟子なのね」
呟きながら、リィナは褐色の頬を上気させる。
「いつ頃、弟子になったのかはわかりませんが、ヴィヴィアンが存命中で、かつ、この本が書かれた三百年ほど前に名前があるので、ネペタ様は最低でも三百歳以上ということになりますね。――と、わたしが知っているのはそのくらいしかありません」
「そうなのですね。……三百歳?」
「そうなりますね。……あれ?」
二人して驚いた表情で顔を見合わせる。
「えっと、魔女とはそういうものなのだそうです。人ではなく、妖精や精霊に近しいとか」
「……年齢を気にして話したがらないのかな、シエルテ様」
「……」
魔女を相手に仕方がない人だという態度のリィナに、オリーはつい、思った疑問を口にした。
「怖くなったりはしないのですか?」
「はい?」
意外なことを訊かれたという風に、リィナはきょとんとした顔をする。
「何をですか?」
「ネペタ様を。簡単に人を殺せる力を持つ、人ではない魔女という存在をおそろしいと思うことはないですか?」
いいえ、と迷いなくリィナは答えた。
「あたしにとっては、シエルテ様はあたしを救ってくれた方。自分を救ってくれたのが人ではないのなら、人ではないことを恐れる理由はないと思いますけど」
力でも生まれでもなく、生き方を知っているから――。
(本当に畏敬ではなく、尊敬なのね)
オリーはくすりと笑った。
「……」
自分が笑われたと思ったのか、少しムッとしたリィナは「そんなことより」と言葉を続けた。
「次の質問をいいですか」
「え。あ、急いでるんでしたね。はいどうぞ」
「この町で食材と生地、おすすめのお店を教えてください」
「食材と生地、ですか?」
急な話題変更に困惑しながら、オリーは見せるために開いていた本を閉じて聞き返した。
「はい。港街で購入したスパイスで作った鶏料理がシエルテ様に好評だったので、他にも色々と試してみようと。生地はあたしの魔術、と趣味です」
「魔術ですか!」
途端に目の色を変えるオリーに、今度はリィナが困惑する。
「……アーシェルさんは魔術が好きなんですね」
「もちろんです。それで、どんな魔術を? あ、待ってください。生地を買い求めるということは、んー……刺繍ですか?」
「そ、そうですけど……」
勢いに怖がるリィナの表情に気付くことなく、オリーは満足そうに何度も頷いた。
「ふっふっふ。この程度、魔術史研究家のわたしにとっては当然です。ちなみに、どんな魔術なんです?」
「それは……」
「――仲良しだな」
突然の声に、オリーとリィナは同時に肩をびくりと震わせた。
いつから見ていたのか、半眼をしたシエルテの顔が少しだけ開いたドアから覗いていた。
「シエルテ様!」
「姿が見えないと思ったらこんなところにいた。探し回ったじゃないか」
「ごめんなさい」
「ふむ。『ヴァイス』にも探すよう言ってしまったから一度戻るよ」
「はい。――アーシェルさん、先程の質問はまたのちほど」
「わ、わかりました」
会釈をしてリィナが部屋を出ていく。――直後、廊下から「どうして裸で出てきたんですか!」と叫ぶリィナの声が聞こえてきて、オリーは苦笑した。
「……確かに、怖くはないのかもしれませんね」




