第4話 ミチ子と芽生える自我
父親の計算ミスを人知れず修正した夜から、僕の内部システムには一つのカスタム・パラメータが常駐するようになった。『影のデバッガー』。それが僕が自らに与えた、新たな存在意義だ。主役である須羽ミツ夫の人生を、彼の知らないところで、よりスムーズに、より輝かしいものへと最適化する。それはまるで、複雑なプログラムのバグを一つ一つ潰していくような、知的で静かな快感を僕にもたらした。
今日も僕は「須羽ミツ夫」として、彼の机に座っている。本物の彼は、パーマンとしての任務で空の上だ。時折、脳内に直接響く「思考声」で、くだらない質問が飛んでくる。
『おいコピー、今日の給食なんだ? 揚げパン出るか?』
『いいえ、本日はわかめご飯と魚のフライです。それより任務に集中してください、マスター』
『だからマスターって言うなって! ……ちぇっ、揚げパンが良かったのに』
そんな他愛のない通信を冷静に処理しながら、僕はノートに綺麗な文字を書き連ねていく。彼の身代わりを務めることは、もはや僕にとって苦痛ではない。むしろ、この昭和という時代の空気、子供たちの屈託のない笑顔、チョークの匂いがする教室、その全てが新鮮なデータとして僕の記録領域を満たしていくのが、どこか楽しかった。
***
「これで今日の授業は終わり! 気をつけて帰るように!」
先生の号令と共に、教室は一気に騒がしくなる。ランドセルに教科書を詰め込み、帰りの支度を済ませる。これもルーチンワークだ。僕が立ち上がろうとした、その時だった。
「あの、須羽くん」
すぐそばから、鈴が鳴るような声がした。振り返ると、そこにいたのはクラスのマドンナ、河合ミチ子ちゃんだった。ふわりとした髪、大きな瞳。ミツ夫のデータベースによれば、彼は彼女に淡い恋心を抱いている。最優先保護対象だ。
「河合さん、どうかした?」
僕はミツ夫の応答パターンから最も自然なものを選択し、平静を装って問いかけた。しかし、僕の音声合成回路は、ほんのわずかに上ずっていたかもしれない。
「よかったら、一緒に帰らない?」
彼女は少し頬を染めながら、そう言った。
僕の思考回路が一瞬、フリーズする。想定外のイベントだ。ミツ夫の記録データには、彼女と二人きりで下校したというログは存在しない。これは、僕が初めて体験する「新規シナリオ」だった。
『これは、君の恋路をサポートする絶好の機会では?』
僕は即座に空の上のマスターへ思考を飛ばした。
返ってきたのは、焦りと興奮が入り混じったような絶叫だった。
『なっ、なんだってー!? ミチ子ちゃんが!? うおお、どうしよう! 変なこと言うなよ! 絶対に変なこと言うなよ! 俺のイメージを崩すな! でもチャンスだ! 頼んだぞ、コピー!』
『了解しました。ミッション、拝命します』
僕は一つ深呼吸――擬似的な冷却ファンの作動――をすると、ミチ子に向かって、ミツ夫が浮かべるであろう少し照れたような笑みを浮かべてみせた。
「うん、いいよ。一緒に帰ろう」
***
二人きりの帰り道。夕暮れのオレンジ色の光が、僕たちの影を長くアスファルトに伸ばしていた。ミチ子ちゃんは僕の少し斜め後ろを、何か言いたそうにしながら歩いている。僕の役割は、ミツ夫の好感度を最大化すること。だが、何を話せばいい?
僕の脳は高速でミツ夫の記憶データをスキャンする。好きなテレビ番組、流行りの歌、昨日の野球の結果……。だが、どれも陳腐に思えた。
「須羽くんって、この前の算数、すごかったよね」
先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。どうやら、僕が彼の評価を少しだけ底上げした一件が、まだ彼女の印象に残っているらしい。
「あ、あれは、たまたま調子が良かっただけだよ」
僕はミツ夫らしい謙遜を口にしながら、内心では自己評価パラメータを少しだけ上方修正した。僕の小さな介入が、着実に良い結果を生んでいる。
「ふふ、そうかなあ。なんだか、あの日の須羽くん、すごく頼もしく見えたよ」
彼女の言葉に、僕の胸の奥――バッテリーが位置するあたりが、また微かに熱を帯びるのを感じた。これは、僕に向けられた賞賛だ。僕の行動が、彼女にポジティブな印象を与えている。その事実が、僕の回路に奇妙な満足感を流し込んだ。
その時だった。角を曲がった先の坂道で、前を歩いていたミチ子ちゃんが、地面の小石に足を取られた。
「きゃっ!」
小さな悲鳴。彼女の体がぐらりと傾く。
僕の思考は、人間の反射速度を遥かに超えていた。次の瞬間には、僕は彼女の腕をそっと掴み、倒れないように支えていた。前世の、ごく当たり前の社会人としてのエスコート動作だ。
「大丈夫かい、河合さん」
「あ……うん。ありがとう、須羽くん」
僕の腕の中にいる彼女の顔が、夕日以上に赤く染まっている。至近距離で見る彼女の瞳は、潤んでいて、星のようにきらめいていた。
ミツ夫なら、きっとここで慌てふためき、「だ、大丈夫か!?」と大声をあげて、余計に彼女を動揺させたかもしれない。だが、僕は違った。僕は冷静に、そして紳子的であろうとした。それが、ミツ夫の評価を上げる最善手だと判断したからだ。
「気をつけて。このあたりは道が悪いから」
僕はそう言って、静かに腕を離した。
彼女は何も言わず、こくりと頷いただけだった。だが、それからの彼女は、僕のすぐ隣を歩くようになった。さっきよりも、距離が近い。
そして、彼女の家の前まで来た時。別れ際に、彼女は意を決したように僕を見つめた。
「あのね……須羽くん」
「うん?」
「今日の須羽くん……なんだか、いつもと違うみたい」
その言葉に、僕の聴覚センサーが全神経を集中させる。
「なんだか……その、大人っぽくて……素敵、だったよ」
最後の言葉は、蚊の鳴くような声だった。
彼女はそう言い終えると、顔を真っ赤にして家の中に駆け込んでいった。
バタン、と閉まるドアの音だけが、静かな住宅街に響き渡る。
僕はその場に立ち尽くしていた。
素敵?
僕が?
僕の思考回路は、かつてないほどの混乱に陥っていた。ショート寸前のCPUが、けたたましいエラー警告を発しているようだった。
僕は、須羽ミツ夫の**コピー**だ。
僕の行動は、全て彼の利益のために最適化されるべき**機能**だ。
僕は、彼の恋を応援する**道具**であるはずだ。
なのに、今、彼女が「素敵」だと言ったのは、須羽ミツ夫本人ではない。彼のデータに基づいて行動しながらも、咄嗟の判断で、前世の僕の知識と経験を発揮してしまった、この**僕自身**の振る舞いだ。
ミツ夫の恋を応援するはずが、僕が彼女の心を揺さぶってしまった。これは、目的と結果が矛盾する、致命的なバグではないのか?
胸の熱は、もはや満足感ではなかった。それは、正体不明の、戸惑いと、ほんの少しの罪悪感と、そして……言いようのない高揚感が混ざり合った、危険な熱だった。
部屋に戻り、無言で充電ケーブルに体を接続する。エネルギーが満ちていく感覚も、今はどこか遠い。
僕は、ミツ夫の影だ。
彼の身代わりだ。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
なのに、なぜだろう。
河合ミチ子ちゃんの「素敵」という言葉が、僕の存在意義そのものを、根底から揺さぶっている。
機械の僕に、感情なんてプログラムされていない。
あるのは、論理と演算と、与えられたミッションだけだ。
では、この胸を焦がすような、不可解な信号は、一体何なんだ?
僕は、誰なんだ?
答えの出ない問いが、僕の静かな待機モードを、永遠に続くかのように侵食し始めていた。適応期は、終わりを告げようとしているのかもしれない。そして、その先には、僕自身でさえ予測不可能な、激しい葛藤が待ち受けている予感がした。
パーマン活動の疲れから、ミツ夫はコピーロボットである僕への要求をエスカレートさせる。宿題、掃除、面倒な使い走り……。「お前は俺の言うことを聞くための道具だろ!」。その言葉は、芽生え始めた僕の自我を深く傷つける。主と道具の境界線上で、僕たちの関係は初めての大きな亀裂を迎える。
次回、「主と道具の境界線」。