第2話 昭和の学校と初めての通信
須羽家の朝は、けたたましい目覚まし時計のベルの音で始まった。僕にとっては、充電完了を告げるシステム音声がそれにあたる。視界の隅に表示されていたバッテリーアイコンが、鮮やかな緑色で100%を示していた。
「ミツ夫! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」
階下から聞こえる母親の張りのある声。僕はミツ夫の学習机の椅子に座ったまま、静かにその声を聞いていた。本来、この声で叩き起こされるべき部屋の主は、ベッドの中でまだスヤスヤと寝息を立てている。昨夜遅くまで、パーマンとして街のパトロールに出かけていた疲れが残っているのだろう。
「うーん……母さん、もうちょっと……」
寝ぼけ眼の少年が、僕に助けを求めるような視線を送る。僕は無言で頷き、すっと立ち上がった。彼の意図は、脳内にインストールされた情報と、今の状況から即座に解析可能だ。
「はーい、今起きるよー!」
僕は、須羽ミツ夫の声色と口調を完璧にコピーして返事をする。それから、クローゼットへ向かい、彼のいつもの服装――赤いラインの入ったシャツと半ズボン――を手早く身につけた。鏡はないが、自分の手足が少年のものになっている感覚には、少しずつ慣れてきた。
「じゃ、コピー。あとは頼んだぞ。俺はちょっと押入れで休んでるから」
ミツ夫はそう言うと、おもむろにパーマンセットを装着し始めた。マスクを被り、マントを翻す。あっという間に、頼もしい(?)ヒーローの姿へと変身した彼は、僕の肩を軽く叩くと、小さな声で言った。
「もしバレそうになったら、鼻、押してくれよな」
「了解しました、主」
僕は心の内でそう応え、彼の代わりに部屋を出て階段を降りる。リビングの扉を開けると、食卓には湯気の立つ味噌汁と、焼き魚、そして白いご飯が並んでいた。the・日本の朝食。前世ではトーストとコーヒーで済ませていた僕にとって、懐かしくも新鮮な光景だ。
「おはよう、ミツ夫。また夜更かししたでしょ。顔色が悪いわよ」
「う、うん。ちょっとね」
母親の指摘に、脳内データを参照して曖昧に笑ってみせる。彼の妹のガン子が悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見ていた。すべてが、須羽ミツ夫の日常そのものだ。僕はその日常を乱さないよう、完璧な「偽物」を演じなければならない。
ITエンジニアだった前世の僕なら、この状況を「ユーザーエミュレーション」とでも呼んだだろうか。しかし、これは単なるシミュレーションではない。僕の行動一つで、彼の人生が、そして世界のあり方が変わってしまうかもしれないのだ。主役は彼で、僕は影。その事実を、味噌汁の塩味がやけにリアルに教えてくれる。
***
ランドセルを背負い、家を出る。「行ってきまーす」という声も、今や僕自身の声のように馴染んでいた。通学路は、前世の記憶にある平成後期のそれとは全く違う。舗装されていない道、空き地に放置された土管、軒先に吊るされた干し柿。何もかもが、古い映画のセットのようだ。
「おーい、ミツ夫!」
後ろから、ガキ大将特有の野太い声が飛んできた。カバ夫と、その子分であるサブだ。
「よお、カバ夫。おはよう」
僕はミツ夫のデータを基に、少しだけ気圧されたような態度で挨拶を返す。社会人経験のある僕からすれば、ただの小学生なのだが、ここで堂々とした態度を取れば「今日のミツ夫は何か違う」と怪しまれるだろう。役割の遵守が最優先事項だ。
「ミツ夫、今日の給食、カレーらしいぜ!」
「ほんと!? やったー!」
僕の隣を歩く、クラスのアイドル・沢田ミチ子が嬉しそうに声を上げた。その笑顔は、脳内データで知ってはいたが、実物は破壊的なまでに可愛らしい。僕がミツ夫の姿でいることに、微かな罪悪感が芽生える。
「須羽くん、昨日のテレビ見た? ギャンブルマシーンの怪獣が出てくるやつ!」
「あ、ああ、うん。見た見た」
もちろん見ていない。その時間、僕はまだ研究所の棚の上で起動もしていなかった。だが、ミツ夫の記憶には、その番組の感想がしっかりと記録されている。それを引き出し、当たり障りのない相槌を打つ。我ながら、完璧なパフォーマンスだ。だが、心のどこかで冷たい何かが渦巻いていた。これは、僕の経験ではない。僕の感情ではない。借り物の記憶と人格で、僕は世界と対峙している。
***
懐かしい木の匂いと、チョークの粉が舞う教室。僕は須羽ミツ夫の席に座り、粛々と授業を受けていた。今日の三時間目は算数。黒板には、小学生レベルの分数の問題が書かれている。元エンジニアの僕にとっては、あくびが出るほど簡単な内容だ。しかし、周囲の生徒たちはうんうん唸っている。ミツ夫自身も、算数は大の苦手科目だ。僕は彼のキャラクターを演じるため、わざと少し悩んだようなフリをしてノートに答えを書き込んだ。
その、時だった。
『――おい! コピー! 聞こえるか!』
唐突に、頭の中に直接声が響いた。他人の思考が、強制的に割り込んでくるような奇妙な感覚。これが、転生者特権の「思考声」通信か。声の主はもちろん、僕のマスターである須羽ミツ夫だ。どうやら、どこかでパトロールをしているらしい。
僕は誰にも気づかれないよう、意識だけをその声に向ける。
『……聞こえています。こちら、現在算数の授業中。何かご用件ですか、マスター』
『マスターって言うな! なんか偉そうだろ!』
……失礼な。最大限の敬意を払っているつもりなのだが。
『それより、今やってるドリル、P20だろ?』
『ええ、そうですが』
すると、ミツ夫からとんでもない要求が飛んできた。
『よし! じゃあ、そこの問1から問5までの答え、全部教えろ! 俺、あとで宿題やるの面倒くさいからさ!』
僕は一瞬、思考を停止させた。なんだこの主は。ヒーロー活動の合間に、自分の身代わりに宿題の答えを要求してくる小学生がどこにいる。あまりのズボラさに、前世でも感じたことのない種類の呆れがこみ上げてきた。
『……それはできません』
僕は毅然として、思考で返信する。
『はあ!? なんでだよ! お前、俺の身代わりだろ! 命令聞けよ!』
ミツ夫の思考が、苛立ちで揺れているのが伝わってくる。だが、ここで屈するわけにはいかない。これは、僕と彼の関係性を決定づける、最初の重要なコミュニケーションなのだ。
『第一に、教育的観点から好ましくありません。ご自身の学力向上のためにも、自力で問題を解くべきです。第二に、僕がここでノートを見ながら通信に集中すれば、挙動不審で先生に怪しまれるリスクがあります。正体秘匿の原則に反します』
我ながら、完璧な正論だった。元ITエンジニアとして、仕様とリスク管理については徹底的に説明するのが僕のやり方だ。
『ぐぬぬ……なんだってお前、そんなに理屈っぽいんだよ! ロボットのくせに生意気だぞ!』
ミツ夫からの悪態が、思考ノイズとなって頭に響く。
『事実を申し上げたまでです』
僕は冷静に返し、すっと手を挙げた。
「先生、ここの問題、わかりました」
ミツ夫を演じるのとは別に、たまには優等生ムーブをかまして周囲の評価を少しだけ上げておくのも、彼の学校生活を円滑にするための布石になるかもしれない。先生が僕を指名し、僕は黒板の前に立つ。
『おい! まさか発表する気か! やめろ! 俺が天才だと思われちまうだろ!』
ミツ夫の焦った声が聞こえるが、もう遅い。僕はスラスラと、しかし少しだけ考えたフリをしながら、完璧な解答を黒板に書き付けた。教室が「おーっ」という感嘆の声に包まれる。ミチ子が尊敬の眼差しでこちらを見ているのが分かった。
『……お前、ぜってー覚えとけよな!』
最後に捨て台詞を残して、ミツ夫からの通信は途切れた。
僕は席に戻りながら、内心で小さくため息をつく。主はズボラな小学生ヒーロー。僕はその身代わりを務める、やけに理屈っぽい元社会人のコピーロボット。
これから先、こんなやり取りが日常になるのだろうか。
それはそれで、退屈はしないかもしれない。主役は彼でも、彼の知らないところで、彼の人生に少しだけ良い影響を与えていく。それもまた、僕という「影」の存在意義なのかもしれない。
ただの道具ではない、生意気な相棒。
僕たちの奇妙な共犯関係は、今、静かに幕を開けたのだった。
初めての身代わり任務を終えた僕は、須羽家での留守番を命じられる。そこで目にしたのは、帳簿の計算ミスで頭を抱えるミツ夫の父親の姿。元エンジニアの血が騒いだ僕は、誰にも気づかれない、ささやかな「改善」を試みる。それは、この世界における僕の存在価値を問い直す、小さな一歩となるのだった。
次回、「エンジニアの小さな善意」。