第9話 楽園の完成と、過去の足音
2025年6月16日、月曜日、午前7時30分。
けたたましいアラーム音に叩き起こされた俺、相川健太は、東京都大田区の安アパートで、重い体をベッドから引き剥がした。
窓の外は、どんよりとした曇り空。昨日までの、あの澄み切った青空とは似ても似つかない、灰色の現実だ。
「……行きたくねぇ」
本音が、漏れる。
昨日まで、俺は、自分で建てたログハウスで、仲間たちと笑い合っていたというのに。
今は、窮屈なスーツに身を包み、革靴で足元を固め、これから満員電車に揺られて、あの息の詰まるオフィスへと向かわなければならない。
電車の中で、俺は、同じように死んだ魚のような目をしたサラリーマンたちを眺めながら、彼らを少しだけ、哀れに思った。
彼らにとって、この窮屈な日常が、世界の全てなのだろう。
だが、俺は違う。
俺には、帰る場所がある。金曜の夜になれば、あの温かい光が灯る、本当の『我が家』が、俺を待っている。
この退屈な平日は、あの最高の週末を迎えるための、長い長い助走に過ぎない。
俺はスマホを取り出し、YouTubeではなく、コーホクのアプリを開いた。
次の週末に届くように、ガラス窓の材料と、頑丈なドアを作るための蝶番やドアノブを注文する。
そうだ。俺は、ただ耐えているだけじゃない。
このコンクリートジャングルの中で、虎視眈々と、俺の楽園をさらにアップグレードさせるための準備を進めているのだ。
*
そして、待ちに待った金曜の夜。
俺は、大量の資材と共に、仲間たちが待つ我が家へと帰還した。
それからの数週間、俺たちの週末は、ログハウスの「仕上げ」作業に費やされた。
それは、今までの、骨太な建築作業とは少し違う、繊細で、緻密な作業の連続だった。
まずは、窓作り。
通販で注文した、特注サイズのガラス板を、モックルが正確に切り出した木枠に、慎重にはめ込んでいく。
シリコン製のコーキング剤で隙間を埋め、固定する。
そして、初めて、ログハウスの内部に、ガラス窓越しの、柔らかな太陽の光が差し込んだ時。
俺たちは、思わず歓声を上げた。
たかが窓、されど窓。外の世界と、安全に繋がっているという感覚が、家の中に、圧倒的な開放感と安心感を与えてくれた。
次に、ドア作り。
これも、モックルの独壇場だった。
分厚い一枚板を、寸分の狂いもなく加工し、俺が取り付けた蝶番と完璧に組み合わせていく。
そして、俺たちの家には、初めて、外の世界と内側を明確に隔てる、頑丈な扉が取り付けられた。
ドアノブを捻り、ドアを開け、そして、閉める。
カチャン、と、心地よいラッチ音が、家の中に響き渡った。
もう、獣の侵入に怯える必要も、嵐に怯える必要もない。
この音は、俺たちに、絶対的な安全を約束してくれる、祝福の音色だった。
最後は、家具作りだ。
家を建てる際に出た、大量の端材を使い、モックルと俺は、様々な家具を作っていった。
みんなで食卓を囲むための、大きなダイニングテーブル。
人数分の、素朴な椅子。
俺が作った、いびつな食器たちを並べるための、お洒落な飾り棚。
そして、コロポムとモックルの体のサイズに合わせた、藁を敷き詰めた、可愛らしいミニチュアのベッド。
キラミンは、天井から吊るした、手作りのランプシェードの中が、すっかりお気に入りの定位置になった。
家は、完成した。
いや、ただの「家」じゃない。
俺たちの、手作りの温もりに満ちた、かけがえのない『我が家』が、ついに、完成したのだ。
その次の週末、俺は、生まれて初めて、心からの「休暇」を過ごした。
朝は、窓から差し込む光で、鳥の声と共に目覚める。
朝食は、畑で採れたばかりの、瑞々しいラディッシュとベビーリーフのサラダ。シャキシャキとした歯触りと、野菜本来の濃い味が、体に染み渡る。
昼は、キラキラと輝く湖で、のんびりと釣り糸を垂れる。
釣果なんて、どうでもいい。ただ、水の流れと、風の音に耳を澄ませ、仲間たちと、うたた寝をする。
それだけで、満たされる。
夜は、完成したばかりのダイニングテーブルで、暖炉の火でじっくりと焼いた、大きな魚を囲む。
俺は、この完璧な一日の出来事を、仲間たちに、熱っぽく語って聞かせた。
なんて、豊かなんだろう。
なんて、幸せなんだろう。
俺が求めていたスローライフは、今、この瞬間に、完璧な形で、実現していた。
日曜日の午後。
満ち足りた気分の俺は、食後の散歩に、まだ足を踏み入れたことのない、島の南部へと、探検に出かけることにした。
何か、新しい発見があるかもしれない。珍しい植物や、高く売れる鉱石が見つかるかもしれない。
そんな、軽い気持ちだった。
島の南部は、俺たちの拠点がある北部とは、少し植生が違っていた。
背の高い、南国のような木々が生い茂り、色鮮やかな花々が咲き乱れている。
まさに、楽園という言葉がふさわしい光景だ。
だが、さらに奥へと進んでいくと、俺は、ある違和感に気づいた。
不自然なほど、直線的に木々が並んでいる箇所がある。
足元の地面も、ただの土じゃない。よく見ると、苔むしてはいるが、規則的に石が敷き詰められているようだった。
「なんだ、これ……? 道か……?」
俺は、その石畳の道らしきものを、たどって歩いていった。
そして、数分後。
俺は、息を呑むほど、荘厳で、そして、どこか物悲しい光景の前に、立ち尽くしていた。
目の前にあったのは、巨大な『遺跡』だった。
蔦に覆われ、半分以上が崩れ落ちてはいるが、それが、明らかに、人の手によって作られた建造物であることは、一目で分かった。
天を突くようにそびえ立つ、石の柱。
精巧な彫刻が施された、巨大な門の残骸。
苔むした、神殿のような建物の壁。
「…………嘘だろ」
ここは、無人島じゃ、なかったのか……?
いや、人はいない。だが、かつては、ここに、俺たち以外の誰かがいて、
これほど巨大な文明を、築いていたというのか?
俺は、まるで、古代の王墓に迷い込んでしまった探検家のような気分だった。
俺が作り上げた、小さな、ちっぽけな楽園。
そのすぐそばに、こんな、途方もないスケールの、過去の遺産が眠っていたなんて。
俺の、のんびりとした週末スローライフは、この瞬間、ミステリーという、新たなスパイスを加えられ、予想もつかない方向へと、舵を切り始めていた。
陽が傾き、遺跡に、長い影が落ち始める。
俺は、その、物言わぬ石の塊を見つめながら、背筋に、ぞくりとした、奇妙な感覚が走るのを感じていた。
俺の楽園は、誰かの墓標の上に、建てられていたのかもしれない、と。
その、根拠のない予感が、俺の心を、強く、捉えて離さなかった。