第8話 レンガと暖炉
ピピピピピ! ピピピピピ!
けたたましい電子音に、強制的に意識が浮上する。
重い瞼をこじ開けると、目に飛び込んできたのは、見慣れた安アパートの、シミのついた天井だった。
月曜日の朝。現実への、強制送還だ。
「……体、重っ……」
全身が、まるで鉛を詰め込まれたかのように重く、軋んでいる。
週末の肉体労働による、心地よい筋肉痛だ。
だが、その痛みさえ、今の俺にとっては、どこか誇らしかった。
異世界での充実した時間を、この体が、確かに記憶している証なのだから。
満員電車に揺られながら、俺はスマートフォンの画面を食い入るように見ていた。
開いているのは、ゲームでも、ニュースサイトでもない。
『YouTube』だ。
画面の中では、海外の屈強な男が、泥だらけになりながら、原始的な方法で「煉瓦」を作り、頑丈な「窯」を組み上げていく様子が、軽快なBGMと共に紹介されている。
『DIY ブルックリン』『原始的な生活』……。
今の俺にとって、これらは最高のエンターテイメントであり、最高のビジネス書だった。
通勤時間は、もはや苦痛なだけの時間じゃない。
次の週末に向けた、貴重な「学習」と「計画」の時間へと変わっていた。
そして、待ちに待った金曜の夜。
俺は、大量の「空のペットボトル」と「ビニールシート」という、奇妙な荷物を抱えて、異世界へと降り立った。
「ただいま! みんな、今週も頑張るぞ!」
俺の帰還を、コロポム、キラミン、そしてモックルが、三者三様のやり方で出迎えてくれる。
その光景に、俺は「我が家に帰ってきた」という、確かな安らぎを感じた。
「さて、今週のプロジェクトは、これだ!」
俺が発表したのは、『自家製煉瓦製造計画』。
ログハウスの中に、安全で、暖かい「暖炉」を作りたい。そのためには、火に強い、頑丈な煉瓦が必要不可欠だ。
もちろん、コーホクの通販で耐火レンガを買うこともできる。
だが、それでは、面白くない。
この世界にあるもので、自分たちの手で作り上げる。そのプロセスこそが、最高の贅沢なのだから。
「コロポム! 例の、極上の粘土を頼む!」
「ポム!」
俺の号令一下、最高の営業部長兼、資材調達担当であるコロポムが、その能力を遺憾無く発揮する。
畑の隅の一角が、あっという間に、質の良い粘土の採掘場へと変わった。
次に、俺の出番だ。
俺は、日本から持ってきたカッターナイフで、大量のペットボトルを半分にカットし、即席の「煉瓦の型」を何十個も作った。
そして、大きなビニールシートの上で、コロポムが掘り出してくれた粘土に、湖の水を加え、足で、ぐにぐにと踏みつけていく。
さらに、強度を上げるために、乾燥した草――ワラを細かく刻んで、粘土に混ぜ込む。
これも全部、YouTube先生に教わった知恵だ。
「うぉぉぉぉ! なんか、楽しくなってきた!」
子供の頃の、泥遊びを思い出す。
最初は要領を得なかったが、次第に、最適な粘土と水の配分が、感覚で分かってきた。
モックルも、興味深そうに俺の作業を見ていたが、やがて、小さな手で、粘土をこねるのを手伝い始めてくれた。
俺と、モックルと、コロポム。
泥だらけの、奇妙なトリオは、日が暮れるまで、ひたすら、煉瓦を作り続けた。
地面に並べられた、数百個の、灰色の煉瓦。
それは、俺たちの、汗と努力の結晶だった。
数日間、太陽の光で煉瓦を乾燥させた後、いよいよ、次の工程、「窯作り」へと移る。
俺たちは、乾燥させた煉瓦を、ドーム状に積み上げて、簡易的な「窯」を組み上げた。
そして、その中に、テスト用の煉瓦をいくつか入れ、窯の周りで、盛大に火を燃やす。
パチパチと音を立てて燃える炎が、夜の闇の中で、窯を、オレンジ色に怪しく照らし出していた。
翌朝。
十分に冷えた窯の中から、俺は、焼成された煉瓦を、緊張しながら取り出した。
灰色の、脆い粘土の塊は、見事な赤茶色に変わり、石のように、硬く、焼き締まっている。
試しに、煉瓦同士を打ち付けてみると、カキン!と、甲高い音がした。
「やった……! 成功だ! 自家製レンガの完成だ!」
俺は、思わずガッツポーズをした。
スキルで鑑定してみると、『異世界の土レンガ:1個 80円』と表示される。
売れば金にはなる。だが、この煉瓦の本当の価値は、値段じゃない。
俺たちの家を、より快適で、安全な場所にしてくれる、プライスレスな価値があるのだ。
勢いに乗った俺たちは、その日のうちに、ログハウスの壁際に、暖炉と煙突を組み上げた。
モックルが、湖で拾ってきた石を、まるでパズルのように組み合わせて土台を作り、俺が、自家製のレンガを、粘土をモルタル代わりにして積み上げていく。
不格好だが、頑丈で、立派な暖炉が、ついに完成した。
その夜。
俺たちは、完成したばかりの暖炉の前に、集まっていた。
俺が、薪に火を灯すと、パチパチと、心地よい音を立てて、炎が燃え上がる。
赤い炎が、ログハウスの内部を、優しく、そして、力強く照らし出した。
もう、嵐の夜に、寒さに震える必要はない。
この火が、この家が、俺たちを守ってくれる。
俺は、暖炉を作る合間に、粘土をこねて作った、いびつな形のカップを、そっと手に取った。
窯で一緒に焼いた、俺の、生まれて初めての作品だ。
そのカップに、湖の水を注ぎ、ゆっくりと、口に含む。
ただの水のはずなのに、今まで飲んだ、どんな高級な飲み物よりも、美味しく感じられた。
自分で作った家の中で、
自分で作った暖炉の火にあたり、
自分で作ったカップで、水を飲む。
その、一つ一つの事実が、俺の心を、じんわりとした、温かい幸福感で満たしていく。
これ以上の贅沢が、この世にあるだろうか。
俺は、揺らめく炎を見つめながら、この、かけがえのない週末の夜を、心に深く、刻み込んでいた。