第1話 社畜の果てのドアガチャ、大当たりは異世界でした
金曜、午後10時47分。
カチャカチャカチャ……タンッ!
無機質な蛍光灯が照らすオフィスで、
俺の指だけがまだ、悲鳴のようなタイピング音を響かせていた。
「相川君、例の資料、まだかね?」
ねっとりとした声が、
パーティションの向こうから投げかけられる。
本日7度目になる、佐藤部長の声だ。
「も、申し訳ありません!
今、最終チェックを……!」
「言い訳はいいんだよ。
月曜朝イチだぞ?
絶対に、ミスは許されない。分かってるな?」
「はい……ッ!」
分かってる。
分かってるから、こうして独り、
カフェインで胃を焼いて、
血走った目でモニターに齧り付いてるんじゃないか。
『週末の天気:快晴』
3時間前にスマホに届いた無情な通知が、
脳裏でチカチカと明滅する。
3週間前から楽しみにしていたソロキャンプは、
この瞬間に潰えた。
チクショウ……。
最高のキャンプ日和じゃないか。
タンッ!!
渾身の力で、エンターキーを叩きつける。
【送信完了】
その3文字を確認し、俺は、椅子に深く沈み込んだ。
「…………帰るか」
誰に言うでもない声が、
静まり返ったオフィスに、虚しく響いた。
*
重い足取りで、夜道を歩く。
アパートへの近道は、古びた神社の境内を通り抜けるルートだ。
鳥居をくぐり、砂利を踏みしめる。
その時だった。
「……ひでぇな」
視線の先にあったのは、
ゴミで散らかった、小さな祠。
飲みかけのペットボトルに、菓子パンの袋。
まるで、今の俺の心の中みたいに、
ぐちゃぐちゃに荒んでいた。
見過ごせなかった。
なぜか、今夜は、それができなかった。
俺は吸い寄せられるように祠へ近づくと、
コンビニの袋を広げ、ゴミを1つ、また1つと拾い集める。
5分後。
祠の周りは、元の静けさを取り戻していた。
信心深いわけじゃない。
それでも、綺麗になった祠を前にすると、
自然と、手を合わせていた。
願い事なんて、ない。
ただ、心の底から、本音がぽろりと、こぼれ落ちた。
(ああ…………)
『誰にも邪魔されず、静かに過ごせる、自分だけの場所が欲しい』
焚き火の炎を、
ただ、ぼーっと眺めていられるような。
そんな、ささやかな楽園が――。
*
ガチャリ、と鍵を開け、自室へなだれ込む。
6畳1間。家賃6万円。
壁際には、出番を失ったバックパックが、
寂しそうに佇んでいる。
シャワーを浴び、スウェットに着替えて、
ベッドに倒れ込んだ。
目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、
さっき願ったばかりの、静かで、美しい場所の光景。
(……あんな場所に、行けたらな)
――その、瞬間だった。
パァッ……
閉じた瞼の裏を、
柔らかな光が透過するのを感じた。
なんだ?
電気でも、消し忘れたか…?
重い瞼を、こじ開ける。
そして――俺は、息を呑んだ。
「な…………」
玄関のドア。
俺が今しがた、内側から鍵をかけたはずの、
何の変哲もない、鉄製のドア。
その隙間から、
ありえない光が、漏れ出していた。
月明かりじゃない。
もっと淡く、温かく、
それでいて、どこか神聖な光が。
ギィ…………。
まるで、見えない何かに誘われるかのように。
ドアが、ひとりでに、ゆっくりと開いていく。
ドクン、ドク-ン、ドクン!
心臓が、警鐘のように激しく脈打つ。
恐怖と、それ以上に強烈な好奇心に突き動かされ、
俺はベッドから這い出し、開かれたドアの向こう側を、覗き込んだ。
そこは――
コンクリートの薄汚れた廊下、ではなかった。
鼻をつく、湿った土と、深い緑の香り。
頬を撫でる、ひんやりと澄んだ夜気。
耳に届く、穏やかな水音と、虫たちの優しい音色。
そして、目の前に広がるのは、
満天の星々を映して、
鏡のように静まり返った、広大な湖だった。
「…………は?」
俺のアパートのドアは。
俺の、人生のどん底にあった日常は。
この瞬間、
見たこともないほど美しい、
異世界へと繋がっていた。