1-嘘にだらけた怠け者
「私、もう死にたいんだよね」
「…うん」
薄々気づいてはいた。彼女がこういうことを言う人間であるということを。気づいていながら、こうして実際にこの言葉を聞くまでは知らないフリをしていた。
だって、あまりにも恐ろしいではないか。自分の発言や行動、一挙手一投足が彼女の「死ぬ理由」につながってしまうかもしれないというのは。
俺には、そんな役割は重すぎる。
だから、認めたくなかった。自分が彼女の命の綱を握っているということを。
「もう人生嫌なことばっかりでさ、このまま生きてたって、しょうがないんじゃないかなって」
「……うん」
「でも、ね。でもだよ…」
「うん」
「彼方がそばにいてくれるなら、もう少しだけ生きてみてもいいかなって思うんだ」
「………うん」
「ずっと一緒にいようよ。いてくれなかったら私、死んじゃうかも」
もう彼女に関しては、あらゆることが手遅れだ。
「死ぬ理由」ばかりがあるのに、逆に「生きる理由」は一つだけ。そして困ったことに、その一つしかない「生きる理由」が俺であるらしい。
普通なら、誰かの「生きる理由」であれることは名誉であり、喜ぶべきことなのだろう。
でも、俺の今の心境はそうではなかった。
なぜなら、俺は彼女のこういうところが嫌いだからだ。
こんな卑怯な言い方をするのが嫌いだ。
断ったら、本当に死ぬだあろうその心の弱さが嫌いだ。
「死ぬ」だなんて過激な言葉を簡単に使うのが嫌いだ。
だが、そんな思いとは裏腹に”俺は”場違いな笑顔を浮かべる。
「言われなくとも、ずっと一緒にいるよ」
「…っ!……ありがとう、彼方。本当に、ありがとう…ありがとう…」
俺の空っぽな言葉に、彼女は奇跡でも体験したかのように大袈裟な言葉を綴っていく。彼女はこんなに心を揺らしてくれているというのに、この状況をどこか俯瞰して見ている自分に嫌気が差す。
俺は彼女のことが嫌いだが、それ以上に、その何倍も自分のことが大嫌いだ。
だからいつの日か、いや一日でも早く、彼女が「生きる理由」をたくさん持って、俺から開放されることを願っている。
これから彼女と過ごす日々は決して青春なんかじゃない。
青春みたいな、青春のように見える、まるで青春のような、そんな勘違いをしてしまいそうになるが、ただ明日彼方が一色彩葉を再生させるだけの日々だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
言うなれば、青春ごっこだ。
・
恥ずかしくって誰にも言えていないことなのだが、実は俺は自分自身のことをよくわかっていない。
記憶喪失とか人格がどうとかの大層な話ではなく、十数年ばっちり生きてきた上で、自分がどういう人間なのかがわかっていないのだ。
一時期、性格診断系のサイトとかを歩き回ってみたが、結局よくわからなかった。
生きていくうえで最も近しいはずの存在の正体がわからないだなんて、こんなに気持ちの悪いことを他には知らない。
自分でわからないのなら、自分以外の人に聞けばいいじゃないか。そう思い立った中学生の頃、”友達”に自分について聞いてみた。家族でもいいのだけど、それはちょっと恥ずかしかったのでやめておいた。
「俺って、どんな人間だと思う?」という思春期全開みたいな質問に、”友達”の皆は苦笑したりしながら答える。
「優しい」「しっかりしてる」「行動力がある」
違うんだ。そうじゃない。そんな当たり障りのない浅くてつまらない言葉が欲しいわけじゃないんだ。
もっと心の深い底のところに響くような、そんな言葉を求めるのは贅沢なのか?贅沢なのだろうな。
いやきっと、”友達”の皆は俺のような悩みなどはもっていないのだろう。
俺のようにめんどくさいことを深く考えていなくて「生まれてきた、だから生きている」くらいの感覚で日々を過ごしているのだろう。
つまり、俺はどうやら普通からは少し外れているらしいということがわかった。
その事実が、なんだか胸にすんと落ち着いた。見つけられなかったパズルのピースが見つかったような、そんな感覚。
自分は普通ではない、だから今日も俺は演じていたのか。
普通の、それっぽい誰かを。
「本当?ハハッ、ありがとうな」
口が勝手に人並みのセリフを並べる。
顔が勝手に月並みの笑顔をつくる。
普通から外れないように無意識に必死に、ひどくつまらない自分が作られていく。
それに合わせて、”友達”はわざとらしくも感じられるような笑い声を発する。
そういえば、俺が演じている方の自分にできた友達って、一体何なんだ?
その俺は本当の俺じゃないのに、その友達って一体………
そこまで考えて俺は考えるのを止めた。止めたはずなのに、脳みそのど真ん中には、「孤独」の二文字が君臨していた。
それから月日ばかりが流れ、いつの間にか高校生になってしまった。あれから俺はちっとも変われていないというのに、時間だけが無情に過ぎ去っていく。
・
「あっ、明日!帰る前にちょっといいか?」
担任の先生が、帰り支度をしていた俺を呼び止める。
厳つい顔にはミスマッチなプリントの束を抱えているのを見て、なんとなく用事を察しながら教卓に近づく。
「なんですか?」
「そのー、お前は一色彩葉と知り合いだったよな?」
「えぇ、まあ。しばらく会っていませんけど、昔はよく話してましたよ」
「そうか。だったら、悪いけどこのプリント届けてやってくれないか?俺この後やることあってさ」
予想していた通りの名前に、予想していた通りの展開に内心げんなりする。
別にいやってわけじゃないけど、長らく会っていない相手とどう話せばいいのかがわからない。
気遣えばいいのか、なんでもないように振る舞えばいいのか、どう対応したって気まずくなることが確定しているのは、まぁまぁしんどい。
まぁ、断ることはない。
「いいですよ」
「ありがとな。それじゃ、これ頼むわ」
先生はそう言ってプリントの束を俺に渡し、別れの挨拶もそこそこに急ぎ足で教室から出ていく。
俺もプリントをカバンに入れて、教室から出る。
一色の家の扉前に立っても、あまり懐かしさは感じなかった。いつも通学途中で通るからか、日常の景色でしかなかったのだろう。
ただ、いつもと違うのは、一色の家が日常の背景ではないということだった。
視界のスポットライトのど真ん中には、インターホン。
それを押すだけで、一色と会うことができる。
親が出てくるかもしれないと思ったが、この時間はたしか、一色家には一色…一色彩葉しかいないのだっけ。
不登校になった彩葉しか。
何も緊張することはないのに、インターホンを押す指が重たくなった。
ピンポーン
チャイムの音が響く。
少ししてからドタドタと足音が聞こえ、扉が開かれる。
「はー…ぃ。えっ…」
「あっと、久しぶり」
俺の声に対する反応はなく、一色の体がフリーズする。
随分見ない間に一色の体は成長していたが、俺が持ってた彼女へのイメージと眼の前の彼女は、違和感なく重なっていた。
腰まで届く黒髪はポニーテールでまとめられて、太陽を浴びていない肌は真っ白だ。自分より二歳ほど幼く見える顔は真っ直ぐにこちらを見つめ……、その瞳は急に真下を向き、勢いよく閉められた扉で見えなくなる。
「えっ、ちょ、待ってよ。一色、プリントを届けに来たんだよ」
「…」
「一色?」
「…」
これは、なかなか重症のようだ。
困惑と驚きが同時に来て、次第に一色に拒絶されたというショックが頭の中で膨らんでいく。俺が恐れている孤独感が、波となって心に流れ込んでくる。
一色と過ごした時間は長く、俺が本当の俺に近い状態で話すことのできた唯一の相手だった。今まで意識していなかったけど、一色という存在は俺にとってかなり重要であったらしい。この胸の痛みが証明だ。
「はぁ…」
痛みを紛らわすようにため息をし、踵を返してポストを見つけて、そこにプリントを入れる。あぁ、最初からこうしていればよかった。そうすれば無駄に傷つくこともなかったのに。
そんなことを考えながら、ぼんやりと一色の家の二階を見る。よく二人で遊んでいた、一色の部屋を。
「…あっ」
すると、帰ろうとする俺を見ていたのか、一色と目があった。…が、すぐに目は逸らされ、カーテンが引かれた。
俺はしばし、立ち止まって考える。
また明日にでも来てみようか、と。