投影
黒々とうねる波の、吹きあがる飛沫に煽られ、海鳥が飲まれた。岩礁にぶつかり、跳ね返る波はさらにうねり、渦へと変貌した。濃霧だった。黒波の怒涛に、落雷が共鳴した。雷鳴は霧を貫き、波へと到達する手前で消えた。遅れて、空が白んだ。眩いほどの閃光の先に、水平線がどこまでも広がっているのが見えた。直後、轟音とともに、一切が闇に帰った。
ただ、光を求めた。暗闇の中で動かす手足は、虚空でもがく己の姿と重なった。遠くで微かに、母の声がする。私を呼んでいる。優しい母の声、応えた。母が私を呼び続ける。何度も応えた。お母さん、私はここにいるよ。母の声が一定の間隔を保って、私を呼び続ける。お母さん、私の声、何も聞こえないの。何も見えていないの。母が私を呼ぶ。黒波が押し寄せて、暗闇はその黒さを増していく。
行き場を失った熱気がその場で上昇し、噴霧され続ける冷却ミストもろとも、生暖かい湿気に変えた。突如現れた有名歌手Xの登場で会場は異様な空気に包まれた。身体の内側から振動している。親の寵愛を存分に受けて育った紳士、淑女の狂騒、安心安全、健全に執り行われるゲリラ・ライブ。私は降り注ぐ音楽と振動のただなかで一人、仮設されたステージの後ろに見える山々から空へ抜ける一筋の飛行機雲を追っている。次第に音が割れ、分割されていく。粒と粒のぶつかり合い、線形と波がつくる運動の連鎖。
わざと、のっそりと身体をのけ反らして、狂乱する観衆のうねりに身を預けてみたくなる。それから目を閉じて身体の力を抜いてみようか。そうすれば、海原に浮かぶラッコのような気分になれるだろうか。
空へ放散する音響と熱気とともに、私の意識は束の間遠のく。偶然、チケットが余ったから、良かったら一緒に行こうと友人の美佳奈が誘ってくれた。断る理由もなく快諾した。大学の同学科で知り合って、そこまで長い付き合いというわけでもなかったが、一緒にいて、居心地の悪さを感じない数少ない友人のひとりだった。ステージ上でXが観衆にむかって問いかけるような物言いをして、マイクを向ける。そのたびに観衆は地鳴りのような声をはね返す。元々音楽に関心があるわけではなかった。ステージ上で歌う歌手Xはその名を知っている程度というもので、その場の雰囲気を楽しめればそれで満足だった。隣で美佳奈はハンドタオルを頭上で振りながら、周囲の掛声に合わせて大きく身体を上下させている。一緒にやってみなよ。時折こちらを見て笑顔を浮かべる美佳奈に、私も大きな笑顔で応える。私の知らなかった世界にこうして導いてくれる美佳奈を、私は心から大切にしたいと思う。
突如、歌手Xがステージ上から観衆の中に躍り出た。Xの周囲が割れ、地鳴りのような叫びが、後ろの音楽を飲み込んだ。上下する観衆の頭部が、ひとつの意思を持った生き物のようにうねる。波打つ。波状する黒々としたものが私を飲み込む。私は一粒の水の飛沫になって、息つく間もなく、黒いものになっていた。人間の抱く懐かしさのようなもの、古い記憶、私が生まれるずっと前から、等しく人間に備わっているようなもの。恐れと言い換えても良いような、不思議な感覚が私を捕まえて離そうとしない。私は美佳奈を探した。私が私でいられるように。美佳奈が呼びかけに応えない。隣で美佳奈が頭部を上下左右に振っている。全体が黒い生き物になって、上下左右に揺れ動く。空が明るい。目を細めてしまうくらいに、眩しい。三半規管がおかしくなって、黒と白が反転する。美佳奈も、Xも反転して、空へ投げ出される。遠くで音楽が鳴り続ける。