シャンソン歌手エディット・ピアフ
先にパリオリンピックが開かれたが、開会式はセリーヌ・ディオンによるエディット・ピアフの「愛の讃歌」が歌われた。彼女の伸びる美しい歌声に我を忘れて聴き惚れ込んでしまったほどだ。
さて、エディット・ピアフはペール・ラシェーズ墓地で永遠の眠りに就いているが、墓石はそんなに大きなものではない。又、豪壮でもなく、これがあの有名なピアフかと思わせるものがある。そして、傍らに並ぶ墓も質素なものだ。
ピアフは1950年代に活躍した歌手で、今の若い世代の人が彼女を知ってるいるかと言うとそうでもないと思われるので、少々、説明を加えたいと思う。
エディット・ピアフ(本名エディット・ジョヴァンナ・ガスィオン)、1915年12月19日~1963年10月10日。
パリ市内の庶民的な界隈、20区のベルヴィル通り72番地のアパート前の石段で生まれたとピアフ自身が語っているが、同区のトゥノン病院で生まれたという出生証明書が残っている。
正面玄関上のプレートに書かれてあるのは、
Sur les marches de cette maison
naquit le 19 décembre 1915
dans le plus grand dénuement
Édith Piaf
dont la voix, plus tard,
devait bouleverser le monde.
この家屋の石段の上で
1915年12月19日に
酷い貧困の中で
エディット・ピアフは生まれた
その声は、後に、
世界を感動させることになった
「愛の讃歌」「バラ色の人生」など、数多くのヒット曲で知られ、一世を風靡し、今なお世界中で高い人気を誇る歌手だ。1963年、47才の若さで他界した。死因は癌とされる。 彼女の葬儀が行なわれた際、国中が喪に服し、パリ市内の交通は完全にストップした。まさにフランス全国民に愛された存在だった。ピアフの身長は142センチで、たいへん小柄な女性だ。
「愛の讃歌」は、1950年に発売された。
「蒼空が落ちてくるかもしれない
地球が壊れるかもしれない
そんなのはどうでもいい あなたが私を愛してくれるなら」
と、始まるピアフ自身の手によるこの作詞は、何と気宇壮大な、また、底知れぬ愛を感じさせることか!
「La Vie en Rose~バラ色の人生」は、 戦後のフランスで大ヒットした。オードリーヘップバーンの「麗しのサブリナ」で歌われ、世界中で知られるようになった。
ピアフは16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ち、まもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎でこの世を去った。また、俳優のモーリス・シュヴァリエのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。
ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーのマルセル・セルダンとの恋愛だったが、セルダンは1949年10月28日に飛行機事故死している。上記の「愛の讃歌」の作詞はセルダンの事故死以後と言われていたが、そうではなく、それ以前に書かれたものだというのが分かった。ピアフの親友であったドイツ出身の俳優兼歌手、マレーネ・ディートリヒは過激な歌詞と思われるので歌わないようにと忠言したが、ほどなくして、1950年に「愛の讃歌」が発売された。しかし、次の年の1951年にピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しむ。
ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・ピルスであった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス(「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになった。夫となったサラポは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済したと一言付け加えておこう。
ピアフの死はその翌日に公表されたが、同日に友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は四万人以上のファンで混雑した。
ピアフの墓には父ルイ・アルフォンス・ガスィオン
&
ピアフの最後の夫テオ・サラポが一緒に眠っている
前述のマルセル・デュポン(27ヵ月)、ルイ・デュポンもともに埋葬されている