5話
ざっくり説明すると変身ヒーローものです。
デビルマンに割と影響受けてるけど、あんな壮大な世界や重厚なテーマではないです。
シリアス風味だけど軽い読み物なんで、もし目に留まったら読んでいただけると嬉しいです。
5
【午後九時 横浜市末広町】
繁華街から僅かに離れ、地味なマンションと、二昔前のこぢんまりした事務所ビルが立ち並ぶ。新宿歌舞伎町のようなどぎつい喧騒もなく、ファッションホテルが申し訳程度に目に入る。神奈川県横浜市末広町。その一角、川沿いの、カビか何かで白い壁が若干黒ずんだ、四階建てのビル。それが諫早組の事務所だった。
「着きやした。まだいるんでしょうかね」
一階こそ真っ暗だが、最上階は残業続きの一般企業よろしく、まだまだ明るい。
「行けばわかるさ」
雅人は磐田というより、若干緊張する自分にそう言い聞かせた。それから木田にパスワード式のオートロックを開けさせ、エレベーターで最上階に向かった。
最上階に到着し、エレベーターのドアが開いた。見た目には中小企業の事務所と変わらず、いくつかの事務机とOA機器が並んでいた。
「これはこれは。磐田のカシラに雅人さんじゃありませんか。こんな時間になぜウチに? しかも木田まで一緒だなんて」
金本は急の来客に動じた素振りもなく、自ら入り口まで駆け寄って三人を出迎えた。
「白々しいぞ、金本! テメェが若を――」
雅人は喧嘩腰の磐田を制し、努めて冷静に金本と対峙した。
「いまさら惚ける必要もないでしょう。大まかな話は木田さんから聞きました」
「はぁ。何を聞いたか知りませんが、どうやら長い話になりそうですね。生憎といまは俺一人しかおりませんが、それでもよろしければ、どうぞおくつろぎください」
金本は二人の感情を無視してそ知らぬ顔。経営者然とした態度で、応接ブースのソファーを勧めた。
「実は先日、焼酎のいい物が手に入りましてね。ぜひカシラにも一杯飲んでいただきたい。あぁ、未成年の雅人さんはお茶で勘弁してくださいね」
妙に愛想の良い態度が逆に鼻につく。三下の木田が本気で怯えながら、親である金本の差し金だと白状したのだ。彼が今回の件に絡んでいることは、もはや疑いようがないはずなのに。
「それより本題に入りましょう。どうして僕を襲ったんですか?」
「襲った? 誰が?」
金本には演技の才能がないらしい。愛想笑いから真剣な眼差しへ。本人は自然を装っているつもりだろうが、最初から目が笑っていなかった。
「あなたの命令だと、木田さんがはっきり言いました」
「ふむ、つまり俺が木田を使って、雅人さんを襲ったと?」
「そうです」
「何のために?」
「それを聞いてるんですよ」
「おっと、そうでしたね。ははは、これは失礼」
くどくどと確認するのは雅人たちを苛立たせるためか。事実、磐田は回りくどい受け答えに早くも痺れを切らし、小刻みに貧乏ゆすりを始めていた。金本はそれに気付いてなお、悠長な態度を崩さなかった。
「すみません、煙草いいですかね?」
「いい加減にしやがれ! 時間稼ぎのつもりか!」
磐田が吠えた。ソファーから立ち上がり、金本の首根っこに手を伸ばす。しかし寸前のところで雅人に止められ、渋々再び腰を下ろした。金本の煮え切らない態度には雅人も爆発寸前だったが、磐田が先走ってくれたおかげで自分を失わずにいられた。
「金本さん、あなたが何をしようと、僕は聞きたいことを全部聞くまで帰りません」
雅人は金本を見つめた。睨み付けるような真似はしない。路傍の石を視界に納めるように、一切の感情を込めなかった。
しかし少年が精いっぱい捻り出した凄みなど、海千山千の中年男には全く効果がなかった。
「はは、そんな冷たい顔しないでくださいよ、一応は顔見知りなんですから。わかってます、ちゃんと小細工抜きで答えますって」
そう言って金本は木田を呼んだ。木田はビクビクしながら、金本が座るソファーの横に立った。
「おい木田。お前、雅人さんを襲ったんだって?」
金本は作り笑顔のまま木田に尋ねた。
「えっ? いや、それは親父の――」
「襲ったんだって?」
語気を強め、木田の発言を上から押し潰す。
「は、はい!」
笑顔の下の凄みに圧倒され、木田は『はい』としか答えようがなかった。
「そうかそうか」
金本は意味深に相づちを打った。それから、パンッと乾いた破裂音。胸元に忍ばせていた銃で、木田の眉間を打ち抜いた。
「なっ?」
これには雅人も磐田も驚いた。悲鳴こそ上げなかったものの、身体が瞬時に強ばった。撃った理由を尋ねようにも言葉が出なかった。雅人は金本に目を奪われ、磐田は倒れた木田を凝視する。ただ一人金本だけが、この場で平然としていた。
「こいつは前々から、雅人さんのことが気に食わなかったようですわ。だから金で人を雇って、コッソリ殺そうとしたんでしょうな」
小細工はやめると言ったそばから手の込んだ小細工。雅人と磐田が言葉を失っているのをいいことに、金本は至極自分勝手なシナリオを語り始めた。
「子の不始末は親の責任ということで、カタをつけさせてもらいました。もちろんこの程度で許されるとは思っていません。雅人さんにも本部にも、改めて詫び金持参でお伺いいたします」
深々と頭を下げる金本。だが見えなくなったその顔は、得意気に舌を出しているに違いない。
「これで手打ちにしろってか。舐めるのも大概にしやがれ」
「いえいえ、そんなつもりはありませんよ。ご納得いただけないのでしたら、エンコでも詰めましょうか?」
演技の出来不出来はともかく、役者としての経験は金本の方が上だった。異常な修羅場を経験したとはいえ、雅人は所詮ぬるま湯で育った高校生。単純な腕っ節とはまた違う、社会のいやらしい駆け引きができるわけではないのだ。またそれは、ヤクザの割に愚直すぎる磐田も同様だった。このままでは金本のペースで、全てがうやむやにされてしまう。
「さて、早いとこ仏を片付けねぇとな。てなわけで、今日のところはお引き取りください」
「……い、いや…………」
雅人はまだ言葉を失っていた。引き下がるわけにはいかないのに、咄嗟に見せられた処刑行為に動揺していた。決して死体や銃に怯えたわけではないのに、声が上手く出せなかった。
察した磐田が代弁する。
「詫び金だのエンコだの、いつまで茶番を続けるつもりだ」
「おいおい待ってくださいよ。茶番で子を殺す親がいますかい」
「まさしくテメェがそうだろうが。正直に全部ぶちまけるまで帰らねぇぞ」
「だからぶちまけるも何も俺は……困ったなぁ」
このような問答を繰り返すこと数分。直情型の磐田では金本の口を割れそうにない。しかし雅人が自分を取り戻すための時間は稼いでくれた。
「答える気がないならもういいです。金本さん、いますぐ警察を呼んで、木田さん殺しの件で逮捕してもらいます。この件は僕らが目撃者ですから、言い逃れはできませんよ?」
「おや、それはちょっと薄情すぎやしませんかねぇ。俺はあなたのために泣く泣くやったってのに」
「そういう訳のわからない理屈も結構です。捕まって懲役刑にでもなってくれれば、僕も襲われたことを忘れます」
こんな脅しが金本に通じるとは雅人も思っていなかった。だがこうして釘を刺しておけば、今後はむやみやたらと襲ってこなくなるだろう。それだけでも幾分かマシと妥協するしかないようだ。
最大限の譲歩を示す雅人に、金本は『はぁぁ~』と長くわざとらしい溜息で応えた。
「思った以上に強気なお方だ……まぁいい。わざわざ東京からお越しくださった礼ってことで、話せることは話しましょう」
金本の目つきが尚も芝居がかっているのが気になるが、雅人たちはひとまず話を聞くことにした。
金本は居住まいを正し、コホンと軽く咳払い。それから組んだ両手を腹の上に乗せ、淡々と語り始めた。
「磐田さん、それに雅人さん。俺はねぇ、初めてお会いした時から、あなた方が嫌いだったんですよ。いや、お二人だけじゃないな。先代の源二組長からして大嫌いでした」
聞き手の二人は若干眉をひそめたが、そのまま黙って独白の続きを待った。
「俺ら諫早組は元々鬼頭組の傘下じゃねぇ。横浜界隈で幅を利かせた独立組織だ。まぁ世間からは半グレとか呼ばれてましたがね。それが二十年ほど前、鬼頭組に目を付けられ、無理やり下に入れられちまったんですわ」
源二が一代で成し遂げた東日本制覇。その話は大まかながら雅人も聞かされていたし、磐田に至っては直接の関係者だった。
「とはいえ最初はムカつく反面、期待もしてたんですよ。外様ながらデカイ組織の幹部になれるんだ、いいシノギができるに違いないってね」
ここまで話して金本は、胸元から煙草を取り出した。火を点け、口に含み、ゆっくりと紫煙を吐き終えると、口調に苦々しさを含めつつ話を続けた。
「ところが実際はどうですか。カタギには手を出すな、クスリは売るな、まっとうに生きろと組長様は仰る。これには正直困りましたよ。こちとら楽に儲けたいからヤクザやってんだ、テメェは力任せに従わせといて寝言言ってんじゃねぇと思いましたね」
源二は仁侠映画さながらの極道組織を理想に掲げ、本人もその映画の主役のような人格者だった。それゆえ部下や世間から大いに慕われたが、彼が仕切っていたのはあくまで反社会的勢力であり、善良な市民の集まりではない。だから金本のように、裏で憎々しく思う者も少なくなかった。
「他人の涙でメシ食うのがヤクザでしょう。正義面したいなら一人でボランティアでもすりゃあいいのに、なんで俺らまで巻き込みますかねぇ」
この言葉は金本の本心で、よほど腹に据えかねていたらしい。話しながら、火を点けたばかりの煙草を卓上の灰皿にこすり付け、苛立ちを紛らわした。
磐田は似たような内容を、金本と同じく外様の幹部から聞いた覚えがあった。とはいえそれは酒の席での愚痴であり、磐田も次の言葉で聞き流していた。
「組織のアタマってのは、誰よりも世間体を気にしなきゃならねぇ。てめぇも組を仕切ってんだからわかんだろ」
「だから仲良しごっこをしろと? はは、ヤクザが聞いて呆れまさぁ」
金本は二本目の煙草に火を点けた。
「俺はねぇ磐田さん、あなたと先代のそういうところが嫌いなんですよ。いまも言いましたが、先に戦争吹っ掛けてきたのは鬼頭組だったでしょうが。終わった途端に手のひら返すんじゃねぇよ」
「そうじゃねぇ、組同士の小競り合いを終わらせるためにデカイの一発吹っ掛けたんだ。無理やりにでも押さえつけねぇと、てめぇらヒトの話聞かねぇだろが」
二人の言葉に熱がこもる。が、根本的に主義主張が違う口論である。何を言っても平行線でしかなかった。
完全に蚊帳の外になる雅人。ひとまず様子を見守るつもりであったが、その姿に気付いた金本から声をかけられた。
「おっと雅人さん、この話はあなたにも他人事じゃありませんぜ」
「……わかってます。続きを」
金本は煙草を大きく吸い、それから下を向いて、肺まで流し込んだ煙を吐き出した。
磐田は右の親指を額に当て、にじみ出た汗を拭った。
「雅人さんあなた、ご自分がこれまでどうやって生きてきたかご存知で? 生活費や学費はどこから出たんでしょうね」
「えっ? それは親父が……」
「ええ、先代のポケットマネーです。ならその金はどうやって作ったか。むろん、俺らのアガリからですよ」
下位組織が上に利益を差し出し、代わりに円滑な事業展開を保証してもらう。それは反社会的勢力のみならず、一般企業でも当たり前の仕組みだ。
「なのにあなたは組から抜けてしまった。親の遺産という名目で俺らの稼ぎをごっそり持って。ご自分の手は一切汚さずに」
「それで恨まれるぐらいなら、お金は組に返します。元から分不相応な額だと思ってましたし」
「いや、誤解しないでください。一度払っちまったモンを上が何に使おうが知ったことじゃありません。ただ、俺らが他人から恨まれて稼いだ金で、あなたが平々凡々と暮らしてるのがムカつくってだけでさぁ」
恨みや妬みではなく、単に虫が好かないから襲わせたというのか。幸い雅人は鬼の力で難を逃れたが、金本の話が全て本音であれば常軌を逸している。
「ムカつくっててめぇ、仮にも先代のご子息に対して失礼だぞ」
磐田は再び激昂するが、雅人本人は元から金本のことが苦手だったせいもあり、特に何とも思わなかった。むしろこれまでの自分を小馬鹿にしたような態度の理由がわかり、胸のつかえが少し取れた気すらした。
「殺意を抱かれるほど近しい間柄じゃないとか、色々と不可解な点はありますが、とりあえず動機はわかりました。でもこの話よりもっと聞きたいことがあります」
「俺に答えられることでしたら何なりと」
金本は余裕の笑みで返した。雅人だけでなく、組織では上の立場にある磐田ですら小馬鹿にした態度だ。
「襲わせた化け物たちのことです。特に琢磨とかいう半グレは、元はただの人間でした。あれはいったい何なんですか?」
「はっはっは、そう仰るあなただって人間じゃないでしょ」
「だからこそです。僕みたいなのがどこにでもいるとは思えない」
金本の視線がわずかに横に動いた。雅人も同じように目だけ動かし、その先を追ったが、仰向けに倒れた木田の遺体があるだけだった。
「まぁわかりやすく言えば、クスリの影響ですよ。身体能力向上と精神高揚といったところですか。今後のシノギになるかと思いまして」
「金本てめぇ、ヤクは先代から禁止されてただろうが」
雅人は磐田を制して、
「化け物になるような薬が売れますか?」
「もちろんそこらのジャンキーには売りません。クソどものケツの毛を毟ったところで大した儲けにはなりませんから。でも世の中には特殊な需要がありましてね」
販路や儲けのことなどどうでもいい。ここまでの金本の話をまとめると、以前から気に入らなかった雅人を殺そうとするついでに、新薬の実用試験をしていたということになる。
「話は理解しました。商売の良し悪しは組が決めることで、僕に口を出す権利はありません。でも襲撃はもうやめてください」
「断ったら?」
「殺します」
警察に突き出すなどといった回りくどい交渉は諦め、率直に事実だけを述べた。
「おーこわ。軽々しく殺すだなんて言っちゃあいけませんぜ、お坊ちゃま」
金本は再び視線を木田に移した。自分で殺しておいて、いったい何を気にしているのか。
「さて、お話はここまでにしましょう。時間は十分に稼げました」
まるで商談でもしていたかのような態度だが、その口角が僅かに上向きになったのを雅人は見逃さなかった。やはりただのネタ晴らしではなく、何か企みがあって対話に持ち込んだようだ。
「ふざけんな。こっちはまだ聞きてぇことだらけだ」
吠える磐田を金本は相手にしなかった。
「一から十まで全部話す気はありませんよ。俺も暇じゃないんでね、後はこいつに任せますわ」
そう言って金本が指さしたのは木田の遺体だった。それとほぼ同時に、異常な現象が始まった。遺体の手足が激しく痙攣し、腹部が風船のように膨れ上がったのだ。
「な、なんだこりゃ……」
遺体の腹部は限界まで膨らむと、今度は急激に萎み始めた。そして再び膨張と収縮を繰り返す。
「金本さん、木田さんに何を?」
「すぐにわかりますから少々お待ちを」
雅人たちは腹部の異変にばかり気を取られていたが、それ以外の部分にも異常が見られた。四肢や指が倍近くまで長く伸び、口が耳のそばまで裂けた。金本に撃たれた眉間は肉が波打ち、やがて奥に詰まっていた弾丸を吐き出した。
「お待たせしました。ようやくクスリの効果が出ましたわ」
裂けた隙間から唾液を滴らせる口。餓鬼さながらに突き出た腹。異様な長さを持て余し、四つん這いで床につけた手足。数分前まで人の遺体だったそれは、完全な化け物となって目を覚ました。
「こいつには特注品を与えましたからね。いままでの雑魚とは勝手が違いますぜ。悪いがお二人にはここで――」
死んでもらいます、そう言いかけた金本の首筋に木田が噛みついた。
「グェッ!」
金本は言葉にならない叫びをあげた。
「き……木田、てめぇ………」
木田は何も答えない。それどころかますます金本に歯を突き立て、その血肉を貪り始めた。高架下で戦った食人鬼たちと同じように、他者を食うことしか頭にないようだ。しかもかなり力が強いようで、抵抗しようと暴れる金本を長い手足で拘束し、体重を乗せて押し倒してしまった。
呆気にとられた雅人と磐田は動けなかった。
「クソッ……はな…………ちが……」
木田の歯が金本の頸動脈を噛みちぎった。事務所の天井スレスレまで、噴水の如く噴き出る鮮血。金本はもう助からない。
「西原ぁぁぁーっ!」
恨みがましく叫んだ断末魔、それはなぜか現組長の名前だった。
「西原?」
問い質そうにも金本は既に息絶え、なおも木田に食われ続けている。
「若、ひとまずは」
「うん、木田さんをどうにかする。危ないから磐田は下がって」
磐田が事務所の隅まで避難する。それを見届けてから雅人は木田に声をかけた。
「木田さん、僕の言葉がわかりますか? わかるならこっちを向いてください」
木田は答えなかった。金本が特注品を与えたと言っていたが、その効果で人語を解さないのだろうか。もしくは金本を食らうのに夢中で、雅人の呼びかけに気付かないのか。どちらにせよ、食人鬼となった彼をこのまま放っておくわけにはいかない。
「変解!」
流れるように自然な動作で、雅人は鬼に変解した。この短期間に何度も繰り返したおかげで、いまや凝った衣装に着替えるよりも容易く変われるようになってしまった。争いを嫌う本人としては望まざる成長であったが。
「さて……」
夏華に襲いかかった時の高揚感はない。敵に襲われた時の危機感もない。冷静に、事務的に、自分の役目として木田を止める。恐らく殺すことになるだろうが、大事の前の小事。早く終わらせて、金本と西原の関係を調べなければならない。
雅人は殺気を放ってはいなかったが、鬼という存在そのものに強烈な威圧感があるのだろう。木田はビクンと肩を震え上がらせ、警戒心むき出しの眼光を雅人に向けた。それから頭を低く、長い四肢を床に付け、肉食獣のような威嚇体勢を取った。
「…………」
互いに微動だにせず、にらみ合いが一分ほど続いた。先に動いたのは木田だった。高速で床を這い、雅人に急接近。目で追う雅人が右の拳を打ち下ろして迎撃しようとするも、木田は斜め上方向に跳躍し、紙一重で回避した。跳んだ先は天井。なんと床にいた時と同じ、しかしながら上下逆さまの姿で天井に貼り付いた。
床から天井までの高さが四メートル強。雅人は源二と違い、鬼になっても身長は百七十センチ程度。跳躍すれば木田に届くが、正面から向き合うよりもずっと戦いにくい。対する木田は、床にいた時と同じように動ける様子。攻撃が届きにくい位置からけん制し、隙あらば上から全体重をかけて降下するつもりらしい。ゾンビと大差なかった高架下の連中と比べ、かなり頭が働く。
天井から剥がそうと、雅人が木田に手を伸ばした。木田はそれを横にずれて回避。さらにカウンターで、口から黄ばんだ液体を吐き出した。今度は雅人が回避するが、床に落ちた液体はジュワジュワとカーペットを溶かして白い煙を上げた。かすかに残るすえた臭いから察するに、恐らくは濃縮した胃液だろう。いまの木田は雅人以上に人間離れした化け物だ。
「若、お気を付けくだせぇ」
木田の動体視力と瞬発力は雅人を上回った。高低差のせいで単調な攻撃しか出せない雅人にも問題はあったが、それを見てから避け、さらにカウンターまで当てる余裕を木田は持っていた。軽くひっかく程度、薄皮一枚すらも引き裂けない小技ながら、相手を苛立たせるには十分。手を出すほどに隙が増えていく雅人を軽くあしらい、大技の機会を伺いだした。
雅人からすれば全く想定外の展開だ。向かってくるところを返り討ちにして終わりと考えていただけに、化け物らしくない消極的な動きに翻弄され、相手の術中にまんまとはまってしまった。
知的に考えて張った罠なのか、本能的な行動なのか、言葉を発しない木田からは伺い知れない。わかっているのは完全に彼のペースで戦いが展開しているということ。どこかで反撃のチャンスを掴まない限り、雅人は負ける。
業を煮やした雅人が跳躍した。掴んでしまえば速さなど関係ない。しかし木田の反応は雅人の一歩先を行っていた。横に回避。上に伸ばした雅人の手が空を切る。跳躍から一瞬生まれる降下の隙。木田の長い右手が雅人の左脇に突き刺さった。ダメージは小さい。が、今度は木田が天井を蹴って跳躍。刺さった右手を軸にして雅人に急接近。勢いを付けて首筋に食いつく算段だ。
「若!」
磐田が叫ぶ。やはり雅人の負けか。否、これこそが反撃のチャンスだった。
雅人は筋肉を引き締め、木田の右腕が抜けないように固定した。木田は回避行動が取れない。それどころか自分から無防備な顔面を雅人に差し出している。一足先に床に着地した雅人は、右の拳を突き上げた。
ネチャ……ドスッ
粘り気のある不快な音が室内に響いた。上から下へとかかる木田の力と、下から上へとかかる雅人の力が衝突。その結果、木田の身体は壁や天井に飛ぶことなく、顔面から股間まで左右真っ二つに両断された。
勝負はついた。木田の半身はどちらもピクリとも動かない。雅人は変解を解いた。
「若、お疲れさまでした!」
すぐに磐田が駆け寄る。だが事はこれで終わりではない。
「ねぇ……磐田、まさかとは思うけどさ、今回の件は西原が関わってるのかな?」
たったいま荒々しい戦いを終えたばかりとは思えない弱々しい声で雅人は尋ねた。
「ひょっとして磐田も? だって磐田は若頭で、西原と一緒にいることが多いよね?」
磐田はきっぱりと断言した。
「組長のことはあっしにもわかりやせん。ですがあっしは無関係です。それだけは先代にも誓えまさぁ」
まっすぐ雅人を見つめる目に嘘はなかった。
「ごめん、疑うなんてどうかしてた」
仮に一人で事務所に来て、金本の独白と断末魔を聞いていたら、疑心暗鬼と孤独感で頭がおかしくなっていただろう。雅人は磐田に救われた気がした。
「お気持ちお察ししやす。金本の野郎、なんで最期に組長の名前を」
「金本さんの持ち物を調べてみよう。それと、諫早組の組員たちはいまどこにいるんだろう?」
事務所には金本しかいなかった。夜とはいえ、組長一人残して全員出払った状態だったのは不用心かつ不自然すぎる。
「少々お待ちを。本部にいるヤツに探させやす」
磐田が連絡を入れている間に、雅人は金本の遺体を漁り、ジャケットからスマートフォンを取り出した。指紋認証でロックがかかっていたが、登録者は目の前にいるので難なくこれを解除。次いで手早く通話やメールの履歴などを調べた。
「これは!」
送信済みメールのフォルダに見覚えのあるメールが一件。
『殺処分。鬼頭雅人。前金五十万。成功報酬二百万。』
忘れもしない、琢磨から自慢げに見せられた殺害依頼だ。金本はあの時から雅人を殺す気だったのか。しかしどうにも腑に落ちない。単に気に入らないだけの少年を、大金を使ってまで殺そうとするだろうか。
「若、こっちは何とかなりそうです」
諫早組組員は拍子抜けするほどすぐに捕まった。総勢二十名足らず、みな馴染みの店や自宅にいたようで、招集をかけてから一時間とかからず事務所に集合した。彼らは事務所の惨状に驚き、金本の死について雅人たちを問い詰めた。しかし雅人と磐田が事のあらましを説明すると(むろん鬼の部分は伏せた)、怒るでも悲しむでもなく、静かに事実を受け入れた。
「やけにしおらしいな、てめぇらの親父が死んだってのに」
組員たちはポツポツと呟くように答えた。
「親父が何かをやってたのは知ってました。でも『新しいシノギだ』って言うだけで、詳しいことは何も教えてくれませんでした」
「だからこんな姿になっても諦めるしかないというか、実感がわかないというか……」
金本は人を化け物に変える薬で商売をしようといていた。ものがものだけに、できるだけ秘密裏に進めたかったのだろうか。
「今日も夜になったら急に帰れと言われて、訳がわかりませんでした。もちろん若たちがいらっしゃるなんてことも聞いてません」
嘘を吐いている様子はない。これ以上探っても有益な情報は得られないだろう。
ならばと雅人は金本のパソコンについて尋ねた。組員たちの集合を待つ間、雅人はスマートフォンに加えて金本の机の周りも調べた。しかしめぼしい情報は何ひとつ得られず、最も気になるパソコンはパスワードのせいで開けなかったのだ。
幸い諫早組のパソコンは担当者が管理しており、この問題はすぐに事なきを得た。雅人は中を覗き、間もなく目当てのフォルダを発見した。
「見て、磐田。薬の資料だ」
資料には薬物の詳細や投与前後の被験者の観察状況などがびっしりと書き込まれていた。まるで研究機関のレポートのようで、これを作ったのが金本だとすれば、彼は間違いなく就く職業を間違えた。
「むぅぅ、専門用語のせいで肝心なところがサッパリでさぁ。結局このヤクは何なんでやすかね」
「麻薬の類とは違うと思う。金本さんもジャンキーには売らないと言ってたし」
いまは薬の成分より、この資料を誰に見せていたのかが重要だ。
「大した進展なし。金本さんが全ての元凶とはとても思えないけど、このままじゃ八方塞がりだ」
「となりゃあ、やっぱり組長に直接聞くしかありやせんぜ」
それが最善の策なのは雅人にもわかっていた。だが彼にとって西原は兄同然の存在。できることなら疑いたくなかった。
「そ、そうだ、掃除屋。木田さんが雇った掃除屋がいたよね? その人たちなら何か知ってるんじゃないかな」
磐田は雅人の気持ちを理解しつつも、その提案を否定した。
「詳しいことは何も伝えねぇ、調べさせねぇってのがヤツらとの付き合い方ですぜ。まぁ必ずしも組長が黒幕ってわけじゃねぇんだ。ひとまず話だけでも聞いてみましょうや」
このまま黙って不安を募らせるぐらいなら、西原を信じて確認するべきである。雅人は頭を切り替え、西原に連絡しようと自分のスマートフォンを取り出した。するとそのタイミングを狙っていたかのように着信音が。西原からだった。
「お疲れさまです、若。そちらは片付きましたか?」
「うん、一応は。西原の方はどう? 怪我は大丈夫?」
「かすり傷ですからお気遣いなく」
お互いの無事を確かめ合ったところで雅人は本題に入った。
「……西原、ちょっと聞きたいことがあるんだ。金本さんが亡くなったんだけど、死ぬ間際に西原の――」
西原は強引に割り込み、話の腰を折った。
「すみませんが、私からも若にお話がございます」
「えっ?」
「ですが今日はもうお疲れでしょう。よろしければ明日、いまから申し上げる場所までご足労願えませんか」
6話に続きます。