4話
ざっくり説明すると変身ヒーローものです。
デビルマンに割と影響受けてるけど、あんな壮大な世界や重厚なテーマではないです。
シリアス風味だけど軽い読み物なんで、もし目に留まったら読んでいただけると嬉しいです。
4
【八月十五日 午後十時四十分 高架下】
アスファルトを覆う鮮血、折れた骨が突き出た肉塊、高架の柱に貼り付いた腸とその内容物。まるで爆発四散したかのような有様である。今回の相手は再生能力が極めて高く、完全に息の根を止めるにはミンチにするしかなかったのだ。
「くっ……」
雅人は変解を解き、足早に現場から立ち去った。
先日の一件から数日、雅人はなおも謎の襲撃を受けていた。相手は初老の浮浪者、みすぼらしい東洋人、手足の震えを酒で抑える中年男性など。誰もが金に困っていそうな怪しい人物ばかり。雅人の姿を見た途端、化け物となって襲いかかってきた。幸い狙われるのは決まって人気のない場所で、いままで鬼の姿を他人に見られたことはなかった。しかし化け物たちはまともに言葉が通じず、持ち物は例の殺害依頼メールが入った携帯電話のみ。雅人はメールの差出人も襲われる理由もはっきりしないまま、場当たり的な戦いを余儀なくされていた。このままでは肉体はともかく、精神が悲鳴をあげそうだ。
【八月十九日 午前八時 雅人のアパート】
「若サマ、最近家から一歩も出てないけど、何かあったの?」
いよいよ雅人の精神は限界寸前まで追い詰められていた。いつ襲われるかわからない恐怖。もう三日は引きこもっているが、化け物が家まで押しかけてこないという保証はなく、少しも気が休まらない。
「何でもない」
「でもさ、あからさまに変だよ? 目も何だか濁ってるし」
こんな気遣いですらも、疲れ切ったいまの雅人には煩わしかった。一人にさせて欲しい。しかし一人になったところで眠れない。余計な不安感が増し、無駄に神経ばかりが過敏になる。興奮しているわけではないのに鼻息が荒くなる。
「あっ、ひょっとしてかなり特殊な一人遊びを――」
「うるさいな!」
「ひゃっ!」
苛立ちからついあげてしまった大声は、夏華だけでなく、雅人本人をも驚かせた。
「ごめん。その……ホントに何でもないんだ。ただちょっと疲れてるだけで……」
雅人は失言を謝罪し、ばつが悪そうに目を逸らした。
そんな雅人を夏華はまじまじと見つめた。特に怒っているようには見えないが、彼女にしては珍しく真剣な眼差しで、何を考えているのかわからない。
それからややあって、夏華は、
「ふむ……よし、わかった」
と一人で納得し、
「若サマ、アタシとデートしようぜい」
唐突に雅人を誘った。
「ヒトの話を聞いてた? 疲れてるって言ったろ?」
「そんな時は糖分補給がイチバン。だから目的は、有名スイーツ店巡りでどうよ?」
相手の気持ちを知ってか知らずか、夏華は一方的にこの後の予定を決め、雅人を強引に外へと連れ出した。
「よし、とりあえず近場から攻めてこう」
【午後一時 銀座のカフェ】
飲食店を中心に、昼休み客で慌ただしい銀座の町並み。二人は昼食を抜いて、早くも二軒目のカフェに到着。窓際の席で看板スイーツとアイスティーを注文した。
「んん~、これはイケる! ほら見て若サマ、中心はバニラアイスになってんだよ」
「あ、うん……」
夏華が嬉しそうに声をかけても、雅人の反応は薄い。窓の外を警戒しつつ、作業的にケーキを口に運んでいた。
「はぁ……心ここにあらず、だね」
アパートを出た時からずっとこの調子だった。夏華がいくら関心を引こうとしても、雅人は何も反応しないのだ。
「ねぇ若サマ、ひょっとして、なんだけどさ……」
上目遣いに夏華が尋ねる。
「うん?」
うわの空で答える雅人。
「ひょっとしてぇ~……鬼になった?」
まるで髪を切ったか尋ねる程度の軽い一言。これまで何を話しても無反応だった雅人が、『鬼』の一言で急に目を見開いた。同時に席を立ち、いまにも噛み付かんばかりの勢いで夏華を詰問した。
「何でお前がそれを知ってる!」
この急変にはマイペースな夏華も仰天した。
「ちょっ、若サマ、落ち着いて」
「どの口がそんなことを。こっちは殺されかけたんだぞ!」
「ここ外だから。知ってることは全部話すから。ね、落ち着いて」
ほかの客や店員、全員がこちらを見ている。雅人は落ち着きを取り戻し、そそくさと再び席に座った。
「わかった、話してくれ」
流石は都会の一角。静まり返ったのは一瞬だけで、雅人が席に着くと、二人に関心を持つ者はいなくなっていた。
「単刀直入に言うよ。アタシが若サマの隣に越してきたのは、パパから二つのことを頼まれたからなの」
「二つ?」
「ひとつめ。どんなエロい手を使ってでも若サマを落として、ウチの家族にする」
困ったことに、夏華の目は真剣だった。こんな冴えない自分になぜそこまで執着するのか。疑問に思いながらも、雅人はこの目的を聞き流した。
「……まぁそれはいいや。二つめは?」
「ふたつめは、若サマが鬼になったとしても、いままで通りに接してあげる」
「ちょっと待った。そもそもお前が鬼のことを知ってるのはどうしてだ?」
「ウチはずっと前から鬼頭の家と付き合いがあるんだよ? 中には嫁入りだか婿入りだかしたご先祖様もいるそうだし。だから知らないワケないじゃん」
言われてみれば当然のことだった。磐田家は先祖の代から鬼頭組に、鬼頭家に尽くしてきたのだ。その中で鬼の存在を知り、子孫に伝えた者がいても不思議ではない。
「まぁアタシは直接見たことないけどね、その鬼ってヤツを。やっぱアレなの? 虎柄のパンツ履いてウクレレ弾いたり?」
「それは雷様だろ。質問はもうひとつある。僕を襲った理由は?」
「そう、それ! さっき殺されかけたとか言ってたけど、何があったの?」
夏華は本気で心配している。とても嘘を吐いているようには見えない。
「お前じゃないのか?」
「夜這いならともかく、アタシが若サマ殺して何の得があんのさ」
「いや、夜這いも勘弁してくれ」
夏華は身内だから鬼を知っていた。雅人を襲った黒幕も、意外と近しい人物なのではなかろうか。可能性としてはかなりあり得るが、正直その線で探りを入れたくはなかった。もし身内に裏切られていたのだとしたら精神的に辛い。疑うだけでも胃が気持ち悪くなる。
「ねぇ、パパにも相談してみない?」
「磐田に?」
「パパならそれなりに顔が広いし、おじさまとの付き合いも長かったからさ。力になってくれるハズだよ」
そもそも夏華は、父親である磐田から鬼の話を聞いたという。意外と鬼になりたての雅人より事情に詳しいかもしれない。少なくとも一人で抱え込んでいるよりずっと前向きだ。
さっそく磐田に連絡すると、すぐアパートに向かうとの返事をもらえた。
【午後二時三十分 雅人のアパート】
「若、一日だけ我慢してくだせぇ!」
雅人たちの帰宅とほぼ同じタイミングで、磐田はアパートに駆け付けた。なぜかやたらと鼻息荒く、いまにもゴリラのように胸を叩きそうな勢いだ。その傍らには、いまや鬼頭組三十二代組長の西原がいた。興奮する磐田を放っておけず同行したとのこと。
「ひとまず明日の朝までに兵隊二千を揃えやす。それで足りなけりゃさらに――」
「ちょっと待った! いきなり兵隊とか勘弁してよ」
「若を殺ろうなんてナメた野郎にゃ、これでも足りねぇぐらいですぜ」
黒幕を探す相談で呼んだのに、どうやら早合点して戦争を始めるつもりらしい。
「そもそも相手が誰だかわからないんだっての」
「それこそ兵隊使って虱潰しに探せば、どうとでもなりまさぁ」
「落ち着いてください。そんなことをすれば警察沙汰ですよ」
雅人と西原がどれだけ宥めようとしても、磐田の耳には入らなかった。これでは相談どころではない。
「若をお守りするためなら、あっしは軍隊とも――」
スパーン!
磐田の言葉を遮る軽快な打撃音。夏華は父親の頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「いい加減にして! 何のために呼んだと思ってんの?」
この一撃で磐田はケロっと大人しくなった。まるで猛獣使いの鞭である。
「あ、すまん」
この親子と長年付き合いのある雅人ですら初めて目にした光景だった。西原にしてもそれは同じで、思わず二人揃って目を丸くしてしまった。
「いつものことだから気にしないで。それよか早く本題に入ろ」
磐田と夏華は仲が良い。こういう親子の形もあるのだと雅人は妙に納得した。
「じゃあ本題に入らせてもらうけど、その……」
磐田の問題が片付くと、次は西原のことが気になった。西原がすぐにそれを察する。
「ご安心ください、鬼の件は私も知っています」
西原の意外な発言に、雅人は再び驚いた。今度は磐田が察し、いまの発言に補足を入れた。
「組長はガキの頃に先代に助けられたって話をしたでやしょ。そん時に鬼の姿を見てるんでさぁ」
二回り近く歳の差があるためか、磐田は西原を組長と呼び、西原も磐田のことを『さん』付けで呼んでいる。
「なるほどね。二人が力になってくれるなら心強いよ」
雅人はテーブルの上座に年上の二人を座らせ、自分は下座に。夏華も四人分の冷茶を用意すると、雅人の隣に腰を下ろした。
「まず、ここ数日の出来事を一通り報告するよ」
半グレ集団に拉致されたこと。鬼の力に目覚めて返り討ちにしたこと。ストリップ小屋で琢磨が化け物になって蘇ったこと。その後も出かける度に化け物に襲われていること。雅人は全てを包み隠さず三人に語った。
三人は黙って話を聞いていたが、夏華はただただ驚き、磐田は腕を組んで小声で唸り、西原は事細かくメモを取りと、三者三様の反応を示した。
「若サマ……アタシが見てないトコで、そんなハードな生活してたんだ」
「もっと早く気付いてりゃ良かったんでやすが。すいやせん」
「いや、隠していたのは僕の方だし」
誰にも相談できない、自分の素性を知られるわけにはいかない。雅人はそう考えていたので、現状を打ち明けられただけでも気持ちがだいぶ軽くなった。
西原がメモを取る手をいったん止め、雅人に顔を向けた。
「ひとつ気になることがあります。若はこれまでに何度も襲われたんですよね?」
「うん」
「その場所は?」
「最初はいま話したストリップ小屋。それ以外だと、グラウンド脇の路地とか空家の前とか、人通りの少ない場所ばかりだね」
「なぜ、ニュースになっていないのでしょうか?」
「…………あっ!」
いくら人通りが少ないとはいえ、都内の街中である。ましてや夏場の血肉は強烈な悪臭を放つもの。誰かが通りかかり、通報してもおかしくないはずだ。にもかかわらず、ニュースどころか地域住民の噂ひとつ聞いたためしがない。むろん、雅人の体験は現実のものである。が、それを裏付ける証拠が一切発見されていないのはどういうことか。
「敵を倒すことばかり考えて、そこまで注意がいってなかった」
「試しに確認してみませんか。ここから近い現場だけでも」
【午後三時五十分 高架下】
自宅アパートから徒歩でおよそ十分。先日襲われたばかりの高架下。ここで雅人は確かに敵を惨殺し、地面や柱を血で塗りたくったはずだった。ところが数日経ったいま改めて来てみると、血痕どころか一滴の染みすら見当たらなかった。
「こんなはずない。僕は間違いなくここで返り討ちにしたんだ」
戸惑う雅人に夏華が尋ねる。
「夢だった可能性は? 最近暑くて寝苦しかったし、寝不足で夢と現実がごっちゃになったとか」
「中二病の妄想じゃあるまいし。何だったらこの場で変解してみせようか?」
「その必要はありやせん。若は間違ってませんぜ」
場慣れしている大人二人は何かに気付いたようだ。コンクリート製の柱を注意深く観察し、それからお互いの顔を見て頷いた。
「柱が綺麗すぎます。最近掃除を、それも業務用の洗剤まで使って洗浄していますね」
そう言って西原は、洗浄された箇所所とされていない箇所の境目を指さした。指摘されなければ気付かないほどの違いではあるが、確かに柱の色にはムラがあった。
「でもこんなの、素人目にわかる違いじゃないよね? 証拠にしては曖昧すぎない?」
なぜ洗剤を使ったなどとわかるのか。話を信じてもらいたい雅人の方が、西原の推理に否定的になってしまった。
磐田が若干気まずそうに答える。
「まぁ職業柄と言うかですね……専門の掃除屋に伝手があるんでさあ」
「職業柄? ……あー」
源二の代で東日本を手中に収め、余計な抗争や不法なシノギを減らす努力はしてきたが、鬼頭組は反社会的勢力である。表立って公表できない問題は必ず起こり、その際に出た『厄介なもの』を片付ける掃除屋の世話になることも少なくなかった。
「蛇の道は蛇とは言いますが、掃除屋を使ったということは、若を襲った首謀者は裏社会の者に間違いないでしょう」
普通の生活ではまず聞くことがない単語がチラホラと。それだけ一般社会から外れた事件であるわけだが、夏華は異常事態である点を考慮に入れても、西原の推理にいささかの疑問を感じた。
「う~ん、それもどうなんだろう」
「と、仰いますと?」
「相手は本気で殺しに来てるんだよね? 律儀にお掃除していくもんかな」
「相手も話を大きくしたくないのでしょう。なりふり構わないのであれば、若の正体をマスコミにでも流せば一発ですから」
それがたとえ三流ゴシップ誌だったとしても、記事にさえなってしまえば、興味を持つ人間が必ず現れる。恐らく他人の人権など平気で無視して、プライベートの暴露に躍起になるだろう。そうなれば雅人は終わりだ。噂が消えるまで雲隠れを強いられる程度ならまだ良い。変解を見られでもしたら、化け物として処分されるか、はたまた珍獣として監禁されるか。しかし相手はなぜかそれをしてこない。ならば雅人にも、まだ企みを阻止するチャンスがあるということだ。
「襲撃や掃除のタイミングを計る見張りが、必ずどこかにいるはずです。組の者を使って洗い出しましょう」
「それはできれば遠慮したいかな。騒ぎを大きくしたくないし、組員たちが襲われる危険だってある」
さらに言えば、仮に鬼の存在が組員たちから世間に広まりでもすれば本末転倒である。
「では私と磐田さんで」
西原は雅人のこととなると冷静さを失うようだ。
「気持ちは嬉しいけど、組長と若頭が高校生一人について回るとかおかしいでしょ」
「父親が息子を守るのは当然でさぁ」
磐田は平常運転だ。
「色々と間違ってるから。いいこと言った風にドヤ顔しない」
空気が緩んだところで四人は頭を切り替え、現場の一帯を事細かに調べた。見張り役ないし掃除屋を特定できる証拠の発見に期待したのだ。しかし残念ながら、洗剤のキャップひとつ見つからなかった。
「まぁ掃除のプロがゴミを残していくはずないか」
「ゲームならこういう時、鍵とか拾うんだけどね」
夏華がわざとらしく両手を挙げて首を振った。
「だけど相手を見つけるヒントがわかった。それだけでも大きな収穫だよ」
時計は午後五時を過ぎていた。真夏とはいえ暗くなり始めている。これ以上ここにいても時間の無駄だろう。雅人は探索の打ち切りを指示した。
「長々とつき合わせて悪いね。トップ二人が不在で、組の方は混乱してるんじゃない?」
雅人は相談に乗ってもらえただけで十分に満足していた。焦りや警戒心はまだあるが、一人で悩み続けていた時より気持ちが楽になっていた。
「がはは、そこまでヤワじゃありやせんて」
磐田が豪快に笑い飛ばした。
「それよりもうすぐ夜ですね。たまには外食なんていかがです?」
西原は話し足りない様子だった。内容こそ緊急の相談事だったが、久々に雅人との再会である。新組長として激務に追われる中で、よい息抜きになったのだろう。
それは雅人も同じだった。数ヶ月ぶりに会った身内ともっと話したかった。
「そうだね。いまからご飯を作るのもダルいし、おいしいものでも食べて気分転換したいよ」
「はいはーい! アタシはお寿司を所望したい」
夏華が我先にと希望を述べた。残りの三人も同意し、磐田の行きつけの店へ行くことに決まった。
「では車を呼びます」
車はアパートの裏に止めてあった。西原は運転手に連絡しようと、懐からスマートフォンを取り出した。
「待った。何かいる」
雅人は身構えた。何度も襲われるうちに身に付いた感覚。前後左右から複数人の気配。自分たちを取り囲んでいる。
「いままでは一人の時しか襲ってこなかったのに」
夢遊病者のようにゆっくりと、足を引きずりながら現れたのは六人。伸ばし放題の髭と、黒ずんだボロ布を纏った姿から、一目で浮浪者の集団だとわかる。しかも口の周りや身体の一部を血で汚し、クチャクチャと生肉らしきものを咀嚼していた。
「な、なに、コイツら……」
あまりのおぞましさに夏華がおののいた。無理もない。まだ会話が可能だった琢磨とは違い、目の前にいる六人は、白痴のような奇声を上げるだけ。まさにB級映画のゾンビそのものだったのだ。
「ゴェッ!」
浮浪者の一人がいきなり嘔吐した。反射的に吐瀉物を目で追うと、それは濁った色の生肉と、茶色がかった毛髪の塊だった。どうやら飲み込めず、喉に引っかかっていたらしい。さらに毛髪には安物のネックレスが絡まっていた。西原はそのネックレスに見覚えがあった。
「残念ですが、運転手は食われたようです」
雅人たち四人の顔が引きつった。ただひたすらに気持ちの悪い光景。全身水ぶくれの琢磨も大概だったが、今回はそれに輪をかけて不快だった。
加えて、雅人には懸念があった。これまでの襲撃と違い、今回はそばに夏華たちがいる。浮浪者たちを倒すのは困難ではなさそうだが、勢い余って彼女たちも巻き込んでしまうかもしれない。
「僕が何とかする。みんなは下がって」
狙われているのは自分だけのはず。ほかの者は見逃してもらえるのではないか。雅人はその可能性に賭けたかった。少なくとも自分といるよりは安全だと思った。
しかし三人とも、特に磐田は、頑としてその提案を聞き入れなかった。
「冗談じゃないですぜ。若を見殺しにできやすかい」
「力の加減ができそうにないから言ってるんだ」
「ですが……」
雅人は浮浪者たちを警戒していたが、一瞬だけ、磐田の方へ注意を集中させてしまった。その一瞬をついたか、単なる偶然か、浮浪者の一人が雅人の首筋に飛びかかった。お互いの距離は五メートル以上。しかし化け物の脚力は尋常ではなかった。大砲の弾のごとき突進。瞬きする間もなく距離を詰められる。避けられない。
「若!」
西原が叫び、雅人の後方から体当たりをかました。おかげで雅人は敵の攻撃から逃れられたが……。
「くはっ!」
身代わりとなった西原の左肩に、浮浪者が強く噛みついた。頑丈なはずの肩肉に歯が深々と食い込み、シャツが鮮血に染まる。このまま骨ごと噛み砕くつもりらしい。ほかの浮浪者たちもいまが好機と捉えたか、大きく口を開いて西原に殺到する。
「西原!」
身内を傷つけられた怒りと殺意。単なる自衛ではなく、心から敵を引き裂きたいという衝動。それらは雅人にとって、まったく未体験の感情だった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」
わざわざ意識する必要はない。激しい怒りが、既に鬼の肉体を呼び寄せている。全身がみるみる膨張し、反対に筋繊維の一本一本が引き締まっていくのを感じた。
雅人はまず、西原に噛みつく浮浪者の頭部を鷲掴みにした。人の姿ならいざ知らず、いまは筋骨たくましい鬼である。指先からはみ出る大きさであろうと、力強く掴んで離さない。そして、握りしめる。固いはずの頭蓋骨が、いまの雅人には生卵のよう。パキッという乾いた音とともに砕け、柔らかくも粘つく脳と、硬さの中に弾力を含んだ目玉の触感が掌に伝わった。それから、倒した浮浪者を早々に投げ捨て、次の獲物の接近に備えた。
浮浪者の二人目と三人目が、同時に雅人に噛みついた。二人目は右足の脛に、三人目は左腕の手首に。さらに四人目が首筋の頸動脈に迫る。
雅人は嬉しそうに口元を吊り上げると、まず三人目ごと左腕を持ち上げた。それを首筋に迫る四人目に振り下ろし、そのまま足にまとわりつく二人目の上へ。重ねられた身体は衝撃に耐えられず、破裂して臓物をまき散らした。
これで四人が終わった。残るは二人だが、僅かながら考える頭が残っていたか、それとも本能で危険を察知したか。圧倒的暴力を披露した雅人を前に、一歩、また一歩と、恐る恐る後退を始めた。
雅人は一足飛びで二人の背後へと回った。それから両手を、それぞれの背中へ一刺し。胸まで突き抜けた手刀を持ち上げ、上半身を縦に両断した。
ここまででおよそ三分。戦いとはとても呼べない、一方的な虐殺劇だった。しかも殺意に酔った雅人は完全に正気を失っていた。先ほど頭部を握り潰した遺体を拾い上げ、赤ん坊が手にしたものを振り回すかの如く、何度も地面に叩きつけた。まだまだ遊び足りないらしい。
「わ、若サマ……」
残された三人は雅人の凶行に驚愕し、ただ呆然と成り行きを見守っていた。戦いは終わった、敵はもういない。雅人にそう伝え、守ってくれた礼を言いたいのだが、暴走を続ける彼は危険すぎて、声をかける隙がなかった。
破壊衝動のはけ口となっていた遺体が完全に壊れた。雅人は手元の感覚がなくなったことを確認すると、周囲をゆっくりと見回した。次のおもちゃを探しているのだ。そして、夏華を目に留めた。
「……マジ?」
夏華は動けなかった。雅人に見られた時点で足がすくんでいた。
一歩一歩、ゆっくりと近づく雅人。もし夏華が逃げ出す素振りを見せていたら、反射的に彼女を追って仕留めていただろう。
結果論ながら最悪の流れだけは回避できた。しかし雅人を正気に戻せなければ行きつく先は同じだ。夏華はこの場を切り抜けるべく頭を捻ったが、返り血で顔を赤く染めた雅人の迫力に圧倒され、少しも考えがまとまらなかった。
「若!」
「夏華!」
西原と磐田が雅人に飛びついた。力尽くでも止めなければならない。大柄な磐田はもちろんのこと、西原もそれなりに体を鍛えている。普段の雅人であればどちらか一人でも楽に押さえつけられるのだが、しかし鬼相手には全くの無力だった。
雅人は煩わし気に腕を振り回した。これだけで磐田と西原は引き離され、五メートルほど宙を舞った。浮浪者たちのように殺されはしなかったが、単に後回しにされただけの模様。どうやら雅人は三人の中で最も『食いで』がなさそうな夏華から片付けるつもりのようだ。
雅人が夏華の前に到着。彼女の喉元に右手を伸ばす。
「こ、こうなったら!」
夏華は迫る右手を避け、逆に自分から手を伸ばして、雅人の頭部を抱きしめた。
「若サマ、もう終わったよ」
優しい抱擁。抵抗するのではなく、受け入れる。腕の中の赤子を寝かしつけるように、丁寧に何度も頭をなでる。
「若サマのおかげでみんな無事。だからもう、落ち着いて……」
余裕と慈愛に満ちた姿を装っているが、しかし声は若干震えていた。いまの雅人は飢えた大型肉食獣さながらの危険な状態。それを胸に抱き、大人しくさせようとしているのだから当然である。一か八かの賭けだった。
夏華の突拍子もない行動に雅人は虚を突かれ、誘われるまま彼女の胸元に頭を預けた。振りほどくことは容易。むしろ相手から急所をさらけ出してきている。だからこのまま心臓を一突きにでもすればいいのに、なぜかそれができない。暖かくも柔らかい感触に包まれ、興奮で強張っていた全身から力が抜けていく。
「落ち着いて。落ち着いて……」
夏華の囁きが子持り歌のように頭に流れ込む。それに洗い流されるように闘争心が遠のき、入れ替わりで雅人本来の意識が戻ってきた。
「僕………は……?」
姿はいまも鬼のままだが、口調は頼りないお坊ちゃん然としたいつもの雅人だ。
「若サマ? 正気に戻ったんだね」
言われたところで雅人は自分が夏華の胸の中にいることに気付き、慌ててそこから脱出した。
「ごご、ごめん! もう大丈夫!」
「ありゃ残念、このまま堕としたかったのに」
軽口の割に夏華の膝は笑っていた。
「つつっ……」
雅人に飛ばされた大人たちも起き上がってくる。
「夏華、守ってやれずにすまん。若も申し訳ございやせんでした」
磐田は親としての不甲斐なさから頭を下げた。
「謝るのは僕の方だよ。夏華が機転を利かせなかったら本当にマズかった」
鬼になるということは甘いものではない。雅人はいま初めて源二の言葉を実感した。浮浪者に傷つけられた西原を見て逆上。ここまでは至極人間的な感情による行動だった。だが変解した後は嬉々として弱い者いじめを楽しんでいた。倒すべき浮浪者たちは元より、守るべき夏華たちでさえも、鬼となった雅人には動く粘土細工のように見えた。握り潰して遊びたいという衝動を抑えきれなかった。夏華の博打が成功しなかった場合を想像すると、浮浪者などより自分の方が何倍も恐ろしい。心をしっかり持たねば、鬼の残虐性に流されては駄目だと、今更ながら肝に銘じた。
「今回は本気で感謝してる。よくあんな方法を思いついたもんだ」
「ドーテーくんは女の子の匂いに弱いからね。まぁキョドって暴れられたらヤバかったけど」
「ド……それは関係ないだろ!」
「声が裏返ってる。そんな見た目でカッコ悪いよ?」
「うるさい!」
二人のやり取りを磐田が満面の笑みで見守っている。恐らく娘夫婦の痴話喧嘩にでも見えるのだろう。夏華の生意気な物言いは安堵の裏返しということで我慢できるが、磐田の態度には若干腹が立つ雅人だった。
「お話し中のところすみません、若」
西原が話に割って入った。
「西原、怪我は?」
肩の傷はかなり深いようで、シャツの袖から血が滴り落ちていた。
「はは、若を止めるのに必死で、痛みなど忘れていましたよ」
命の危険はなさそうだが、早くきちんとした治療を受けさせるべきだ。
「私のことよりも若、まだ見張りがどこかにいるはずです。野次馬が来る前に、早く」
急なトラブルのせいで忘れていた。ここまでの大騒ぎをしながら誰も様子を見に来ないということは、どこかに見張りがいて、人払いをしつつ雅人たちを監視している可能性が高い。
雅人は鬼の姿のまま跳躍。軽々と高架の防音壁に飛びついた。そして多少なりとも高い場所から周辺を見回すと、ここから二十メートルと離れていない脇道に、趣味の悪い柄シャツを着た若い男を発見した。
男はビデオカメラを構えていたが、雅人に見つかったことを自覚したのだろう。慌てふためき、後ろに停めたワゴン車に乗り込もうとしていた。
これ以上ないほどあからさまな見張り役だ。むしろこんな、いかにも見つけてくださいと言わんばかりの存在に、なぜいままで気付かなかったのか。敵の対処で手一杯だったとはいえ、雅人は己の不甲斐なさに落胆した。
「後悔は後回しだ」
防音壁から飛び降りて男の目の前へ。有無を言わさず襟首を掴み、来た時と同じく跳躍して西原たちの前へ。皆で囲んで男の退路を断ったところで変解を解いた。
「如何にもって感じの人がいたよ。でもこの人、どっかで見たような?」
男は『ひぃぃーっ!』と悲鳴をあげつつその場にへたり込んだ。どこかで聞いた悲鳴だ。
「そうだこの人、ストリップ劇場でも僕を見張ってた」
「なんだお前、木田じゃねぇか」
磐田はこの男を知っているらしい。
「知り合い?」
「知り合いも何も、金本んトコの使いっぱしりでやすよ」
「金本って、諫早組の?」
ここまで言われて、ようやく雅人は思い出した。鬼頭組本部前で雅人に食ってかかり、金本からきつい躾を受けた男だ。
「ということは、今回の件は金本さんが黒幕ってこと? でもどうして?」
木田は声を裏返らせながら命乞いをした。
「オ、オレは何も知らねぇッス。おや、おや……親父の命令で……」
嘘ではなさそうだ。というより、仮に金本以外が主人だとしても、見るからに下っ端であるこの男に、命令の意図を説明する者はいないだろう。
「落ち着け。とにかく、お前は何をやってたんだ?」
怯える木田を宥めながら、磐田がゆっくりと尋ねた。
「ああああ、あいつら……あのバケモンをはこ、運んで……雅人……さんを襲うところを撮って………終わったら……おや、親父と、そ、掃除屋に……連絡、を……」
見張り役と掃除役、全て西原の仮定通りだ。
「見張りはお前一人か?」
「オ、オレだけです」
「ではとりあえず、掃除屋を呼んでもらった方がいいでしょう」
西原が次にとるべき行動を提案した。痛む肩口は、夏華にハンカチで血止めをしてもらっている。
いまのところ部外者に目撃されていないようだが、ここが夕暮れ時の住宅街である以上は時間の問題だ。金本の考えはともかく、一刻も早く片付けてしまった方が双方にとって都合がいい。
雅人たちは震える木田をどうにか落ち着かせ、掃除役に連絡させた。既に近くで待機していたらしく、五分以内に到着するとのこと。
これで目の前の問題は何とかなりそうだ。雅人は次いで、本題ともいえる質問を木田に投げた。
「金本さんはいまどこに?」
「まだ事務所にいると思います。でも夜は大抵、馴染みのキャバに行っちまうんで……」
できるだけ人目を避け、確実に金本を問い詰めるには、諫早組の事務所まで乗り込んで話をつけるべきだ。モタモタしていれば金本が現状を察知し、シラを切るための準備を済ませてしまうかもしれない。
「いまから木田さんと一緒に諫早組に行ってくる」
「では車はアッシが。夏華は組長を病院に連れて行ってくれ」
「いや、ついてこなくていいよ」
鬼の力は一応使いこなせるようになったが、まだ何が起こるかわからない。それでなくとも相手の居場所はヤクザの事務所。武器には事欠かず、追い詰められれば若頭の磐田にさえ牙をむく可能性があるだろう。
「でも若は車の運転なんてできやせんよね? 木田はまだビクついてやすし、電車ってわけにもいかんでしょう」
「なら――」
磐田は滅多に見せない深刻な顔で、雅人の言葉をさえぎった。
「子供のピンチを放っといて、親代わりもねぇですよ。何と言われようが、アッシはついて行きやすぜ」
こう言われては雅人も邪険にはできなかった。そこで渋々、荒事になりそうな時は下がること、とだけ約束させた。
「私こそご一緒したいところですが、残念です。どうかお気をつけて」
傷ついた西原のことは夏華に任せ、雅人、磐田、木田の三人は一路、横浜の諫早組へ。
5話に続きます。