3話
ざっくり説明すると変身ヒーローものです。
デビルマンに割と影響受けてるけど、あんな壮大な世界や重厚なテーマではないです。
シリアス風味だけど軽い読み物なんで、もし目に留まったら読んでいただけると嬉しいです。
3
【八月三日 午前八時 雅人のアパート】
目覚めた雅人が最初に見たのは、自宅の天井だった。いまいるのはベッドの上。じわりと蒸し暑い室内。カーテン越しに差し込む太陽の光。普段と変わらない夏の朝だ。
「僕は確か……拉致されて、それから……?」
顔面が潰れるまで殴られ、罵声や蹴りを浴びせられ、最後は焼き殺されたはず。ところがいまは目が見えているし、身体のどこにも傷がない。髪の毛だって生えている。
「夢、だったのかな?」
だとしても、何という悪夢か。しかも生々しくリアルな夢だった。琢磨とかいう半グレの声と言葉が、いまもしっかりと耳に残っている。
「うぅ、最悪の気分だ。こんな夢は早く忘れてしまおう」
雅人はベッドから身体を起こし、頭を左右に振った。
「とりあえず、顔でも洗うか」
「おっはよ~若サマ、今日はイイ天気だよ~って、あら?」
雅人が立ち上がると同時に、夏華がベルも鳴らさず部屋のドアを開けた。二人は一瞬目が合うも、夏華の方が先に逸らす。いや正確には、夏華の目線は雅人の下半身に向けられていた。
「ヤダなぁ若サマ、ようやくその気になったんなら、待ってないで早く呼んでよ」
「へ?」
「でもアタシだって女の子で、それも初めてだからさ。まずはシャワーを浴びさせて欲しいな」
「だから何を言って?」
「全裸でスタンバイだなんて、若サマも滾る青少年だったってことでしょ?」
「ぜん、ら……?」
雅人が下を向くと、そこには一糸纏わぬ姿で自己主張するものが。
「なぁぁーっ、なんで!?」
雅人は顔を真っ赤にしてうろたえた。自分はなぜ服どころか、下着も履かずに寝ていたのか。そして、とにかく大事な場所だけは隠そうと、ベッドにあったタオルケットを慌てて掴んだ。
「まぁまぁ、いまさら隠さなくてもイイじゃない。お姉さんが優しくしてあげるから」
「誰がお姉さんだ、年下のクセに! いいから僕が呼ぶまで外に出てろ!」
「えぇ~、せっかくなんだしこのまま――」
言いかけたところで、雅人の枕が飛んできた。夏華は急いでドアを閉め、廊下に退避するのだった。
【五分後】
服を着た雅人は夏華を部屋に招き入れ、朝食の準備に取りかかった。朝は軽く、トーストにベーコンエッグ、サラダ、それにコーヒーとヨーグルト。こんな簡単な食事でも、二人は毎朝一緒に食べていた。
フライパン片手に、雅人は昨夜のことについて考えた。
(昨日着ていたはずの服が見当たらない。そもそも僕は、いつ家に帰ってきたんだ?)
「……サマ、わか……ば」
(バイトが終わって、雨の中を歩いていた。そこまでは覚えている。だけど、その後はいったい?)
「お~い、………すか~?」
(寝ている間に見たおかしな夢。万が一にもありえないけど、もしあれが本当のことだったとしたら……いや、それならもう死んで――)
「若サマッ、焦げてるよ!」
「ん? 焦げるって何が……うわぁっ!」
気付いた時には既に遅し。フライパンに敷いたベーコンが消し炭となって黒煙を上げていた。
「……作り直すよ」
それから更に数分後。二人はテーブル越しに向かい合い、朝食をとり始めた。
トーストにマーガリンを塗りながら、雅人は言いにくそうに口を開いた。
「な……なぁ、夏華。僕は昨日、何時ごろに帰ってきたかな?」
コーヒーの入ったマグカップにミルクを注ぎながら夏華が答えた。
「はぁ? 自分のことなのに覚えてないの?」
「あぁ……えっと、バイトの先輩に無理やり飲みに連れてかれてさ、何も覚えてないんだ」
「あ~ダメなんだ、未成年のクセに。パパに言いつけちゃうぞ」
「それだけは勘弁してくれ。磐田の場合は怒るどころか、特級酒持って駆けつけるはず」
「あはは、それもそうだね。う~ん、そうだなぁ。アタシも寝ちゃってたんで詳しくは覚えてないけど、夜遅くにドアを開け閉めする音は聞こえたよ。たしか……三時か四時、ぐらいだったかな?」
(三時か四時? バイトが終わったのは十時ごろだったはず。それからそんな時間まで、僕は何をやっていたんだ?)
「にしてもさ、そのまま裸で寝ちゃうなんて、そ~と~酔っ払ってたんだね」
「あ? あぁうん、そうなんだ。なにせ記憶がなくなるまで飲まされたからね」
(やっぱりおかしい。それに琢磨って男。まったく見覚えがない人物が、名前つきで夢に出てくるものなのか?)
色々と納得のいかない事柄が多すぎる。雅人は早々と朝食を済ませると、ダメ元でスマートフォンを取り出し、琢磨という名を検索してみた。しかし有名人でもない一個人、それも苗字しか知らない人物を探し当てることは難しく、早々に打つ手がなくなってしまう。
(いや、待てよ。半グレだか何だか知らないけど、奴らはそれなりに大きな集団だった。もし実在するなら、組の連中に知られていてもおかしくないのでは)
夏華も既に自室へ戻っている。雅人は意を決し、古巣の鬼頭組本部へ行ってみることにした。
【午前十時三十分 鬼頭組本部前】
ここへ戻ってきたのは何ヶ月ぶりだろう。敷地面積三百坪を超える和風豪邸は四方を高い塀に覆われ、これぞ極道ものの屋敷といわんばかりの威圧感を醸し出していた。
もっとも、雅人にとっては先日まで暮らした古巣でしかない。だから何食わぬ顔で、正門の隣にある小さな入り口から中へと入ろうとした。だが……。
「おいテメェ、ここがどこだか知ってんのか?」
脱色した髪に派手な柄のシャツを着た、いかにも下っ端といった風貌の男が、ドアに手をかけた雅人の手首を掴んだ。雅人を知らないということは、最近入ったばかりの新人だろうか。
「あぁすみません。僕は昔ここの関係者だった者で、挨拶がてらちょっと寄らせてもらおうと……」
しかし男は敵意むき出しで、
「テメェみてぇなガキが関係者なワケねぇだろ。ちょっとこっち来い」
「いや、だから……うわっ、手を引っ張らないで」
「うるせぇ! いまからオレが、社会の常識ってモンを教えてやるよ」
男が左の拳を振り上げる。
殴られる! 雅人は咄嗟に頭を両手で覆い隠した。
「ガフッ!」
男が呻き声をあげて膝をついた。その背後には、浅黒い肌に紫のスーツを着込んだ別の男が。どうやら彼が雅人を助けてくれたようだ。
「金本、さん?」
横浜周辺で幅を利かせる諫早組。元は源二の代で傘下に加わった、言わば外様のような位置づけだった。しかし汚れ仕事を率先して買って出ることによって一目を置かれ、いまや鬼頭組随一と呼ばれるほどになった武闘派集団である。
そこの組長にして、実力で鬼頭組次期組長候補の一人にまで名を連ねた男、それがこの金本だ。
金本は膝をついた男の前髪を掴んで強引に立たせた。それから相手の額と自分の額を合わせ、グリグリとこすりつけた。
「カタギに因縁付けんなって言ったろ。だいたいこのお方はなぁ、先代のご子息だぞ? ウジ虫が軽々しく声かけてんじゃねぇ」
「す、すいません。知らなかったもので……」
どうやら彼らは親と子の関係らしい。見ると子分の足は震えていた。雅人を前にした時の高圧的な態度はどこへやら。
「あん? 知らなかったら何でも許されると思ってんのか。誰かれ構わず噛み付きやがるから、テメェはいつまで経ってもドサンピンなんだよ」
金本は掴んだ子分の頭を地面に叩きつけた。それからうつ伏せに倒れる子分を見下ろし、憎々しげに腹部を蹴り上げた。
「テメェみてぇな馬鹿がいるとよ、親である俺の評判も下がるんだ。いくら躾けても学習しねぇな、おい」
「ヒ、ヒィィィ! すいません! すいません!」
子分は亀のように丸まって、金本に必死に謝り続けた。しかし金本の怒りはおさまらない。いや、怒りというよりは、相手を痛みつける行為そのものを楽しんでいるようだ。
見かねた雅人は金本を止めに入った。
「もうこの辺で。僕は別に気にしてませんし、外でこんなことやったら近所の評判が……」
雅人の説得を聞いて、金本はようやく落ち着きを取り戻した。
「若がそう仰るなら、まぁ良しとしましょうか。おい、いつまでも縮こまってねぇで、サッサと車を持ってこい」
子分は恐怖で半泣きになりながら雅人と金本に一礼し、駐車場へと駆け去っていった。
その姿を見送りながら、金本は胸元から出した煙草に火をつけた。それからフゥ~と紫煙を吹き出すと、雅人の方に顔を向けた。
「改めて、ご無沙汰しております、若。お元気そうで何よりですな」
「あぁ、はい。お久しぶりです」
正直言って雅人は彼のことが苦手だった。いまの暴力的な行動もそうだが、どこか雅人を小馬鹿にしたような態度が以前から度々見られたからだ。そもそも源二の下についていた頃も、その人望に惹かれたというよりは、力で敵わない相手に渋々従っているような感があった。家族同然の磐田や西原とは、まったくの正反対だ。だからというわけでもないが、雅人は彼に対しては、年上相手の丁寧な言葉遣いをしていた。
「でももう若は止めてくださいよ。組とはもう無関係になったんですから」
「そうですか。では雅人さん、お言葉を返すようで何ですが、カタギの世界に行かれたのでしたら、軽々しく組に足を運ぶのはお控えになられた方がよろしいかと」
何故かはわからないが、普通に諭しているようなその言葉の節々に、どこか侮蔑に近い感情が込められている気がした。
「そ、そうですよね。すみません。ちょっと組の人に話したいことがあったもので」
「ほう、それはどんな?」
「いえ、ちょっとした昔話みたいなものです。ですから磐田か西原……あ、いまは組長でしたね、そのどちらかに会えればと思いまして」
金本に心を開くつもりがない雅人は、適当に話をはぐらかした。それに実を言うと、雅人は今回の件を磐田たちに尋ねるつもりはなかった。仮に琢磨が実在するとしても、そんな輩を彼らが知るはずはないだろうし、何より余計な心配をかけたくなかったのだ。
「そうでしたか。しかし残念ですが、お二人ともいまは外出中ですよ」
「ありゃ、無駄足になっちゃったかな。でもまぁせっかくなんで、手土産だけでも渡して帰ります」
こんな話をしているうちに、先ほどの子分が車に乗って戻ってきた。
「お、来ましたね。それでは雅人さん、もうお会いすることはないでしょうが、どうかお元気で」
「はい、ありがとうございます」
金本の車が去っていくのを見送り、雅人はほっとため息をついた。強面の男たちは見慣れている雅人だが、金本だけは何度会っても慣れないし、緊張してしまう。
「さて、誰かいるかな」
雅人は今度こそ入り口のドアを開けた。
【午後一時 新大久保 駅周辺】
組の本部で顔見知りに声をかけてみたところ、なんと琢磨という人物は実在した。それも十代から二十代の若者を率い、夜な夜な歌舞伎町周辺に現れては、暴行や強盗などといった犯行を繰り返しているのだという。これには警察だけでなく、店からみかじめ料を徴収するヤクザたちも頭を抱えているとのこと。だが相手はいまや外国人街と化している新大久保を根城としているため、なかなか思うように手が出せないらしい。
ちなみに質問の意図については、『その琢磨という男の噂を友達から聞いたから』と適当な嘘で誤魔化しておいた。まさか夢の中で出会ったとは言えない。
「真珠貝、ここか」
地域さえ分かれば、店の特定は存外楽だった。寂れた三階建ての建物。明かりの消えたネオン看板。入り口脇の割れたショウケースには、営業当時の踊り子のポスターが、半分以上破れた状態でまだ残っている。壁にはサラ金やいかがわしい仕事を斡旋するチラシがビッシリ。入り口のドアガラスは割られ、誰でも入れるようになっているが、外から見た限りでは人の気配は感じられない。琢磨が言っていた『潰れたストリップ小屋』はここで間違いなさそうだ。
(本当にあるなんて。でもそれならそれで、どうして僕は生きているのだろう。間違いなく殺されたはずなのに)
そんなことを考えながら、辺りをキョロキョロと見回してみる。幸か不幸か、誰もいない。それから深呼吸をひとつ。
(僕はこんなところで何をする気だ。もしこの先に琢磨がいたら、本当に夢の通りになってしまうじゃないか)
いつになく緊張した面持ちで、割れたドアを慎重に潜り抜ける。やはり人の気配はまったくしない。
(確認だけしてサッサと帰ろう。そして夢で見たことも全部忘れよう)
入ってすぐに、地下へと続く階段を発見。その先には重そうな観音開きの防音ドアが。どうやらここがステージへの入り口らしい。
(もしこのドアが開かなかったら帰ろう。仮に開いたとしても、中に誰かいたら、全速力で逃げよう)
すぐに帰る。そう何度も心の中で繰り返すが、まるで怖いもの見たさのように緊張と興奮が高まり、身体が勝手に動いてしまう。
防音ドア特有の、重い鉄製のノブに手をかけ、力いっぱい下へ倒す。鍵はかかっておらず、ガチャリとフックが外れる音。いとも容易く開いたことに驚く雅人だったが、しかしその感情は、ドアの隙間から漏れ出た悪臭によってかき消された。
「うっ!」
生ごみに血と酢を混ぜたような強烈な臭い。趣味で料理をたしなむ雅人には、これが腐った臓物が放つものだとすぐにわかった。しかもどうやら糞尿も混ざっているらしい。鼻だけでなく目にもくる悪臭だ。雅人は少し嗅いだだけで気分が悪くなり、ズボンのポケットに入れておいたハンカチで、慌てて鼻と口を覆った。
(なんでこんな臭いが?)
理由を調べようにも、ドアの向こうは灯りの消えた地下室。真っ暗で何も見えない。雅人はスマートフォンを取り出し、そのバックライトを懐中電灯代わりに中の様子を伺ってみた。すると……。
「なっ!?」
劇場の床は、赤黒い血液と薄桃色の肉片で埋め尽くされていた。具体的には人体のパーツ。それも一人や二人のものではなく、軽く見ただけでも十人は超えている。そのどれもが、割れた頭蓋骨から脳が漏れ出ていたり、手足をもがれて頭と胴体だけになっていたり、逆に胴体部分だけがミンチ状に潰されていたりと凄惨な有様。作業を終えたばかりの堵殺場よりも酷い惨状だ。
「うぐっ」
雅人は不快感に耐えきれず、いきなりその場で嘔吐した。またそれと同時に、脳の奥底に眠っていた記憶がフラッシュバックした。
「……これをやったのは……僕だ」
それはいまから、ほんの十二時間ほど前の記憶。雅人は確かにこの劇場、このステージの上で晒し者にされていた。殴られ、踏みつけられ、罵倒され、最後には燃やされた。だがその結果、雅人一人では辿り着けなかった境地、感情の極限に達することができた。源二が危惧した通り、雅人には鬼の血が受け継がれていたのだ。
鬼の生命力は凄まじく、無残に焼け爛れた肉体を瞬時に回復させた。さらに両手を拘束していた手錠を、まるで紙でできた輪のようにたやすく引きちぎった。それからゆっくりと立ち上がり、突然の事態に驚く琢磨たちを一望すると、野獣の如き素早さで、入り口のドアの前へと飛んだ。逃げるためではない。この場にいる全員を逃がさないためだ。
その後の惨劇は、殺人などというレベルを超えていた。鋭く尖った爪と牙で肉を削ぎ、強靭な拳で骨を砕く。逃げ惑う者は頭を握り潰し、武器を手に向かってくる者は胴体に風穴を開け、腰を抜かして泣き叫ぶ者は踏みつける。相手が動かない物体と化すまで、強引に、執拗に。
鬼の身体が殺戮を続ける間、雅人の意識ははっきり目覚めていた。しかしいくら頭で殺戮を止めろと命じても、身体はその命令を拒み、勝手に動き続けた。殴る拳に痛みはなく、まるで撮影者視点のドキュメンタリー映像を見ているような気分だった。
数十分後、劇場から一切の音が消えた。鬼は視界から動くものがなくなったことを確認すると、入り口のドアを開け、劇場を後にした。そこから先の記憶はない。おそらく泥酔者さながら、無意識のうちに自宅へと帰ったのだろう。
「これが、鬼……」
雅人は再び嘔吐した。思い出した記憶のせいで頭の中がゴチャゴチャになり、額からはドロリとした脂汗が止まらない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
死に直面した恐怖、自分の正体に対する驚き、グロテスクな死体への嫌悪感、正当防衛ながら人を殺してしまった罪悪感、それらが混ぜこぜになった最悪の気分だった。
(もういい。ここで起きたことは一通り思い出したんだ。人目につかないうちに早く帰ろう)
まずは外に出て口をすすぎたかった。そうすれば、この最悪な気分も少しは晴れるかもしれない。
落ち着きを取り戻した雅人。それと同時に、劇場の奥から響く異音にも気が付いた。
ピチャピチャ、ズズズと、何かを舐め啜るような音。十中八九良くないことの前触れ。何も考えず、一目散に逃げるべきである。
しかし雅人は状況を確認せずにはいられなかった。見えない何かに怯えるより、少しでも現実を見て安心感を得たかったのだ。そこで思わずスマートフォンの光を音のする方へと向けてしまう。
「な……なんだ?」
それは、人らしき形をした肉の塊だった。大きさは雅人を一回り大きくした程度。顔の器官らしきものは一通り揃っているが、赤ん坊の頭ぐらいのブヨブヨした水ぶくれが、身体のいたるところにできている。しかもそれらは時折破裂し、黄ばんだ体液を垂れ流しては、再び新たな水ぶくれを生みだしていた。
雅人が聞いたのは、この化け物が、床一面に広がる血を啜る音だった。犬が水を飲む時のような姿勢で、一心不乱に顔を床に擦りつけていたのだが、下手に雅人が光を当ててしまったため、自分以外の存在がいることに気がついたらしい。顔を上げ、じっと雅人の方を凝視した。
「テメェは、鬼頭」
化け物は人の言葉を発した。
「鬼頭、鬼頭……あぁ、鬼頭の野郎だ」
「誰だ?」
「オレだよ、琢磨だよ。忘れたとは言わせねぇぞ」
既に雅人は昨夜の夢のことを現実の出来事として認め、しっかりと記憶している。その中で琢磨は、確かに首を引きちぎって殺したはずだった。
「アンタは死んだはずじゃ?」
「目が覚めたらこのザマだった。テメェ、オレに何しや――」
話の途中で、琢磨の口元にある水ぶくれが大きく膨らんだ。琢磨は煩わしそうに水ぶくれを掴み、強引に握り潰した。
「……クソが。無性にのどが渇く。どんだけ飲んでも落ち着かねぇ」
そう言って琢磨は再び、床の血に舌を伸ばし始めた。ビチャビチャと耳障りな音が暗闇に響く。
「身体中痛い、身体中かゆい。なんでオレがこんな目に。全部テメェのせいだ」
「僕は抵抗しただけだ。その姿のことは知らない」
「許せねぇ、許せねぇ、ゆるせねぇゆるせねぇゆるせねぇゆるせゆるゆるゆるユユユるユユルユゆユユ……」
琢磨は壊れた機械のように、言葉にならない声を繰り返した。明らかに様子がおかしい。襲われる前に逃げなければ。雅人は一歩、二歩と慎重に後ずさった。
「ニゲンナ!」
気付かれた。琢磨はその見た目からは想像もつかない速さで雅人に飛び掛かった。
「なっ!?」
雅人は避けられず、あっけなく琢磨に押し倒された。両手で両肩を押さえつけられ、まともにもがくことすらできなかった。
「お、オマ……ころコロこここ殺すころろコロス殺殺殺殺ろろろ」
琢磨の口内から、赤いひも状の物体が飛び出した。長さにして一メートル超。常人とは比較にならないサイズだが、それは間違いなく舌だった。おそらく化け物になった影響なのだろう。左右に揺れ動き、雅人の頸動脈を探る姿は、まるで頭をもたげる蛇のようだ。
「ぐあっ!」
狙いを定めた舌が、雅人の首筋に突き刺さった。刺された痛みはそれほどでもなかったが、舌が頸動脈に吸いついて離れない。しかもそこから血を吸っているらしい。雅人は急激な体温の低下と脱力感を感じた。
(このままでは殺される。変解……鬼にならないと。だけど、できるのか?)
昨日は気を失い、一種の防衛本能が働いたおかげで変解できた。今回も状況的にはさほど変わりないはず。強い感情。いまであれば、死にたくないという思い。意識を集中させ、ただひたすらにそれを願えば……。
「変解!」
ほんの一瞬、視界が強い光に包まれた。その光の中で雅人は、全身に力が漲っていくのを感じた。そして開放感。窮屈な檻の中から、繋がれた鎖から解き放たれたような心地良さ。『荒神から人の姿に化けた』と源二のノートには書かれていたが、雅人もいまならそれが信じられた。身長こそ人の姿と変わらず百七十センチ程度。なれど全身を覆う鋼鉄のごとき筋肉。硬く鋭く尖った爪と二本の角。この姿こそが本当の自分だったのだ。
鬼に変解した雅人はまず、肩を押さえ込んでいた琢磨の腕を振りほどいた。続いて自由になった右手で頚動脈に突き刺さっていた舌を掴み、そのまま強引に引きちぎった。
「グギャァァァァァー!」
琢磨は仰け反り、苦痛にもだえて叫んだ。
「このばケモんがぁぁぁー!」
再び生えてきた舌で、どうにか聞き取れる言葉を吐き捨てる。どちらが真の化け物なのやら。
雅人は上体を起こす勢いで琢磨を跳ね飛ばし、今度は自分が馬乗りに。それから間髪入れず、垂直に、鉄杭のごとき拳を琢磨の顔面に打ち込んだ。
グシャリ
骨の砕ける乾いた音と、血管が弾ける音の二重奏。琢磨の顔に、雅人の拳と同じサイズの穴が開く。勝敗はこの一撃で完全についた。舌が再生した時は不死身かと若干危惧したが、頭までは治しようがないらしい。
「……ッ!」
危機が去って緊張が解けたのだろう、雅人は急な脱力感に襲われ、うつぶせに倒れた。変解も自然に解け、人の姿に戻った。血塗れの床に衣服が汚れてしまうが、そんなことを気にかける余裕もなかった。
「はぁ……はぁ……」
昨夜からここまで、衝撃的な事態が山積みだった。並みの高校生には刺激が強すぎた。前もって知らされていた鬼の存在はともかく、自分が襲われた理由と化け物になった琢磨、これらはいったい何だったのだろうか。しかし当然のことながら、こんな悪臭漂う場所では頭は回らなかった。
(考えるのは後だ。とにかく帰ろう)
雅人は疲れた身体に鞭を打ち、立ち上がって劇場のドアを開けた。
「ひぃぃーっ!」
ドアの向こうから甲高い男の悲鳴が。見るとそこには、趣味の悪い柄シャツを着た若い男が腰を抜かしていた。いまの戦いを覗いていたらしい。
男は雅人と一瞬だけ目を合わせると、腰を抜かしたまま数歩後退。それから慌てて立ち上がり、一目散に逃げ去った。
「まずい、追いかけないと」
しかし追いついたところで何もできない。まさか口封じに殺すわけにもいかないだろう。それより急いでこの場から立ち去るべきではないか。
迷っている暇はない。雅人は逃げた男に負けない速さで劇場から離れた。その時になって初めて服が血だらけであることに気づいたが、運よく公園のトイレを発見。そこの洗面所で最低限の血を洗い流し、電話でタクシーを呼んだ。
運転手は雅人の様子を訝しんだが、特に何かを聞くわけでもなく、無事に自宅アパートまで運んでくれた。
【午後十一時十五分 雅人のアパート】
雅人が自宅に到着したのは午後の四時前だった。幸い夏華は出かけていた。この隙に服を洗い直し、シャワーを浴び、夕飯の仕度。本当は食欲がなく、いますぐにでも眠りたかったが、夏華に不審に思われたくなかった。
やがて夏華が帰宅。友人と遊びに行っていたそうで、特に雅人の様子を気にかける素振りはなかった。
そんな彼女が自分の部屋に戻ったのは八時十分。それから雅人はベッドに倒れ、三時間ほど死んだように眠った。
(とりあえずの疲れは取れたか)
日をまたぐ前に目覚め、暗がりの中で体調を確認する。どうやら身体の方は問題なさそうだ。琢磨にやられた傷も、最初からなかったかのように綺麗になっていた。
ただし心のダメージは、いまだに癒えていなかった。化け物になった琢磨、同じく化け物になった自分。思い出すだけでも頭がおかしくなりそうだ。
何より、昼間は感じた殺人の罪悪感を、いまは微塵も感じていないことが恐ろしかった。殺した者たちこそ狂人ばかりで、無残な最期も自業自得。雅人が責められる謂れはない。が、そんな理屈を抜きにしても、蚊を叩き潰した程度の感情しか湧かないのだ。これが鬼になった証、人間に同族意識を持たなくなったことの表れだとしたら、ただひたすらに不気味で、恐ろしい。自分はこの先どうなってしまうのだろうか。
(そうだ、親父のノート。あれを読み返してみよう)
半信半疑だった以前と違い、いまは自分の身で思い知らされている。だからノートを読み返せば、必ず役に立つ発見があるはずだ。
しかし、すがれる藁があることに安心したのか、身体を動かすよりも先に意識が遠のき、今日のところは再び眠りについてしまうのだった。
4話に続きます。