1話
ざっくり説明すると変身ヒーローものです。
デビルマンに割と影響受けてるけど、あんな壮大な世界や重厚なテーマではないです。
シリアス風味だけど軽い読み物なんで、もし目に留まったら読んでいただけると嬉しいです。
『桃太郎は鬼を倒して幸せになりました』
『一寸法師も鬼を倒して幸せになりました』
おとぎ話には夢がある。どんな奴だって、鬼さえ倒せば英雄になれるのだ。
だけど、鬼は本当に悪人だったのだろうか?
他人より力が少し強いだけ、見た目が少し違うだけで、本当は良い奴だったのかもしれない。ところが誰かの出世のために利用され、悪者にされ、倒されたのだとしたら。
力で弱者を駆逐する残酷物語。
おとぎ話が見せる夢など、鬼にとっては悪夢でしかなかっただろう。
なんて、ありもしない作り話にムキになっても無駄なこと。
時代は二十一世紀。世界中に情報が溢れ、神秘の謎はモニター越しに丸裸にされる。
およそ分からないことはないこの世の中。どれだけ探しても、鬼や化け物の類が発見された例は一度もない。所詮あんなものは空想の産物だ。まともに考えるのも馬鹿らしい。
だから世間がそうであるように、僕もまた、鬼の存在など信じていなかった……そう、あんな事件に遭遇するまでは。
1
【五月十日 午後四時 台東区 某総合病院】
鬼頭雅人。どこにでもいる、平凡な高校二年生。学校の成績は並程度。特に優れた才能があるわけでもなく、磨けば光りそうな容姿も、原石のままほったらかし。そんな、普通の物語で言えばその他大勢に位置する少年が、この物語の中心人物である。
ゴールデンウィークも明けた五月の夕方。雅人は学校帰りに、家から少し離れた総合病院に来ていた。目的は父親の見舞い。彼の父親は今年で八十歳を迎えるが、いままで風邪ひとつひいたことはなかった。それが昨日、旅先から帰った途端に倒れたため、大事をとって入院させることにしたのだ。
入院病棟の最上階。限られた富豪や権力者が利用する特別室。関係者以外は立ち入り禁止で、来訪の際には専用のエレベーターを利用することになっている。さらに専属の警備員と患者個人の護衛役が廊下を埋め尽くし、蟻の子一匹忍び込む隙を与えない。
婦長によってここへ案内された雅人だったが、特に驚く素振りもなく、平然と男たちの前を通り過ぎて行く。
対する男たちの方は、雅人の来訪に気付くと一斉に頭を下げ、異口同音に挨拶の言葉を発した。
「お待ちしておりました、若」
雅人は男たちから『若』と呼ばれている。彼の父親は、東日本全域に勢力を誇る反社会的勢力『鬼頭組』の組長なのだ。
「あぁうん、ごくろうさま。どうでも良いけどこの数、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「隙を吐いて、どこぞの馬の骨が紛れ込むか分かりませんからね。用心に越したことはありませんよ」
「これだけいたら、余計に人の見分けがつかなくなる気がするけど……。それより親父は?」
「奥にいらっしゃいます。こちらへどうぞ」
案内されたのは、まるで高級ホテルのスイートルームのように豪華な部屋だった。足の甲まで埋まりそうな絨毯に、黒光りする革張りのソファー、磨き上げられた大理石のテーブルはまだ良いとして、小さいながらもバーカウンターまであるのは何の冗談か。ここが病室であると証明できるものはせいぜい、機能優先の介護ベッドぐらいだ。
そのベッドを背上げし、上半身だけ起こした格好でいるのが、雅人の父親にして鬼頭組組長の鬼頭源二である。また脇には、筋肉質で暑苦しい中年大男と、知的で均整の取れた身体つきの好青年が控えていた。大男の方が若頭の磐田で、好青年の方が若頭補佐の西原だ。
二人は雅人の姿を見ると一礼し、何も言わず病室から出て行った。気を遣い、親子水入らずで話せる時間を作ってくれたのだろう。
「おう、来たな雅人」
年齢を感じさせない張りのある声で、源二は息子に軽く声をかけた。
「意外と元気そうじゃん。その様子じゃ、検査の結果も大したことなかったの?」
父親の様子にホッと胸を撫で下ろした雅人だったが、肝心の父の返答は、その安堵を台無しにするほど強烈だった。
「聞いて驚け、癌だってよ。それも肺やら腸やら、大事な部分が根こそぎ末期なんだと」
「……え?」
「もってあと一カ月もないそうだ。ははは、これから忙しくなるぞ」
声色と話の中身にギャップがありすぎた。雅人は暫し呆然とし、それから感情の赴くままに怒鳴り散らした。
「な、なに他人事みたいに言ってんだよ! いきなりそんな……無茶苦茶だ」
「そうは言ってもなぁ。事実である以上、ウダウダ喚いても仕方ねぇだろう。こうなりゃ腹ぁ括って、この先どうするか決めねぇとな」
「……………」
「だから明日には帰るつもりなんだが……って、おいおい、そんな暗い顔すんじゃねぇよ」
既に覚悟を決めている源二とは違い、雅人は怒れば良いのか、それとも悲しむべきなのか、感情の矛先を決めかねていた。
「人の気も知らないで。親父は勝手過ぎるよ」
震える声でそう漏らし、雅人は俯いた。
源二は目を瞑り、深いため息をひとつ。それから再び雅人の方に顔を向け、申し訳なさそうに答えた。
「そうかもしれんな。ジジィになってからお前をこしらえて、男手ひとつでロクに面倒もみねぇで、挙句にゃ一人前にする前に逝っちまうんだ。ホント、お前にゃあ苦労のかけまくりだよ」
ちなみに雅人は源二の還暦後に生まれた子供である。母親は当時二十代だったが、雅人が物心つく前に他界した。
(違う、僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。いつもならもっと強気で、『病気なんて気合で治す』ぐらい言うじゃないか)
しかし言葉を返せば返すほど、父親の弱い部分が見えてしまう気がして、雅人は言いかけた言葉をグッと堪えた。
「と、とにかく! 親父は組を背負ってるんだ。僕なんかより、もっと大事なことがあるだろ?」
「おいおい、最期ぐらいは俺も親父らしくだなぁ……まぁ良い。確かに組の今後も、色々と考えんといかんな。今日はこのまま泊まっていくが、明日の朝には家に帰るつもりだ」
「無理して大丈夫なの? 昨日の夜に倒れたばかりなのに」
「ハッ、手遅れだってんなら、どこにいようが同じだろ」
「だけど――」
「なぁに心配すんな、いますぐくたばる気はねぇからよ。だからお前も、今日はもう帰んな」
雅人は気持ちの整理がつかず、ここでの会話を諦めた。
「あぁ……うん」
気のない返事を返し、重い足取りで病室を後にする。
廊下に出た途端、組員たちが一斉に雅人の方を向いた。皆、表情が暗い。おそらく磐田と西原から、源二の病状を聞いたのだろう。
雅人は彼らにかける言葉が思いつかず、黙って会釈をしてエレベーターに向かった。
病院の外へ出ると、辺りはだいぶ暗くなっていた。ここから自宅までは電車の乗り換えが不便で、タクシーはアルバイトで小遣いを稼ぐ高校生には高額すぎる。仕方なく最寄りのバス停を探し始めると、一台の車が雅人の目の前に横付けした。乗っていたのは西原だった。
「お乗りください、若。家までお送りします」
「悪いけど、一人で帰りたいんだ」
西原の気遣いはありがたいものの、雅人はいま、誰とも顔を合わせたくなかった。
「ですがそんな顔で歩いていたら、車に轢かれますよ?」
疑うまでもなく、気持ちが顔に出ているようだ。雅人は意地を張る気にもならず、黙って後部座席に乗り込んだ。
出発してからはお互いに無言だった。ラジオをつけるでもなく、かすかなエンジン音だけが耳を刺激した。
(帰ったら、まずは夕飯の仕度をしよう。豚バラがあるはずだから、今夜は味噌炒めかな。あとはほうれん草の白和えと、揚げ出し豆腐。味噌汁の具は大根で……)
現実逃避。ただ車に揺れているだけだと、どうしても父親のことを考えてしまう。だから無理やりにでも趣味の料理に没頭し、暗鬱な気持ちを誤魔化したかった。
沈痛な面持ちで沈黙を続ける雅人を気遣い、西原が声をかけた。
「お気持ち、お察しします」
「………………」
「あまりに急な話で、私たちも正直途方に暮れているところです」
「………………」
「駄目ですね、普段は極道だ何だと――」
「ごめん西原、いまはあまり、そのことを考えたくないんだ」
「……失礼しました」
再び流れる沈黙。気まずい空気が車内を包み込む。
失言だった。辛いのは雅人だけではないのだ。
この手の組織にしては珍しく、鬼頭組は結束力が非常に強い。ひとえに組長である源二の人望によるものだ。中でも西原は孤児院から組に引き取られ、源二を実の親以上に慕っていた。しかも若頭補佐という高い地位にありながら、わざわざ雅人のために運転手を買って出てくれたのである。この好意を無碍にするわけにはいかない。
雅人は暗く沈んだ空気を変えるべく、今度は自分から話を切り出した。
「と、ところでさ、次に組を仕切るのは誰なんだろうね。経験なんかで言ったら、やっぱり筆頭舎弟の広瀬さんかな?」
「叔父貴にはその気がないみたいですよ。ご自身の組の方も、そろそろ次の世代に任せたいなんて仰っていましたし」
「そのまま引退するつもりなのかな。なら次は磐田? もしくは諫早組の金本さん?」
「磐田のカシラなら誰もが納得しますが、残念ながら辞退されるらしいです。金本の叔父貴は最近、大陸系との良くない噂があるので、下手をすれば組全体が荒れることになるかと」
「なんだ、誰もいない……って、西原がいるじゃないか。二十九歳って年齢はともかく、実力で言えばトップなんだしさ。十分にその資格はあるんじゃない?」
「いやいや、私なんて器じゃ……。そう仰る若こそ、いかがなんですか?」
「勘弁してよ。十八歳未満お断りの世界に、平凡な高校生を誘い込まないで」
「ですが言ってみれば、親の家業を継ぐだけのことじゃないですか。若なら誰もが納得するでしょうし」
「器でもガラでもないよ。喧嘩もロクにやったことない僕に、度胸試しのチャンピオンみたいな仕事は務まらないって」
「しかしですね……」
何か気にかかることでもあるのだろうか。冷静さが売りのインテリヤクザにしては珍しく、西原はやたらとこの話題に食いついてきた。
それでも雅人には、家を継ぐ気が微塵もなかった。組長の息子という立場上、式典への出席を余儀なくされることはある。しかしそれ以外は普通に学校へ行き、友達と遊び、コンビニのアルバイトに精を出す、ごく一般的な十代の少年なのだ。来客にも時折、住み込み家政婦の息子に間違えられる。
むろん喧嘩などもっての外。強面男への耐性こそ人並み以上にあるものの、殴り合いはまともに体験したことがなかった。
こんな彼に総勢三千人を超える組織の代表が務まるわけがない。仮に祭り上げられたとしても、誰かに乗っ取られるか、それとも力で潰されるか。どちらにしても、明るい未来はやって来ないだろう。
「では若は、これからどうなさるおつもりですか?」
「いまの家は組の本部でもあるし、そう遠くない日に引っ越すことになるだろうね。そこから先は、まだ分からないな。いつか小さなレストランを開きたいって夢はあるけど」
雅人は話の流れから、将来の夢について軽く漏らした。何をやっても人並な雅人にとって、料理は唯一の特技であり、趣味だった。きっかけは家政婦の勧め。幼くして母親と死別した雅人を慰めようと、当時の家政婦が親身になって教えてくれたのだ。そのレパートリーは煮物を中心とした家庭的な料理が多く、独身組員たちの夕食もほぼ毎日賄っている。高校を卒業したら調理師免許を取り、本格的に学ぶつもりでいた。
西原は雅人の話を聞くと急に車を止め、険しい目付きで後部座席に振り向いた。
「何故です? 親父は鬼頭組組長、構成員三千の頂点に立たれるお方なんですよ? その一人息子であるあなたが、どうしてそんな、誰にでも叶えられそうな夢で満足なさるのですか!」
「さ、西原?」
目付きだけでなく、語調も強い。西原は雅人にとって兄のような存在で、物心つく頃からの付き合いだった。しかしここまで熱くなった姿は初めてで、雅人はただただ面食らってしまった。
「度胸なんて、そのうち嫌でも身に付きます。喧嘩や金勘定は、それこそ得意な者に任せれば良いのです。ですが親父、鬼頭源二の血を受け継いでいる者は、若をおいて他にいないじゃないですか」
「いや、血だなんてそんな、大袈裟な」
皇族だの著名人だのならともかく、ヤクザが血筋を気にしてどうする。そう思う雅人だったが、西原の勢いに圧倒され、口に出すことができなかった。
「大袈裟ではありません。若だってあの方の本当の姿を知れば、叔父貴たちでは力不足だということが――」
「ストップ! いまの一言はマズイよ」
興奮からつい出てしまったのだろう身内批判を、雅人は慌てて遮った。
西原も失言に気付き、気まずそうに正面を向いた。再び車が動き始める。
「自分から話を振っといて何だけど、ここであれこれ言っても意味がなかったね」
「え……えぇ、そうですね」
そこから先は、二人とも無言だった。
やがて、自宅に到着。部屋に戻るなりどっと疲れを感じた雅人は、着替えも何も後回しにして、ベッドに身体を埋めた。
目覚めたのは夜中。一人きりで父親のことを考え、少し泣いた。
【五月十一日 午後四時 鬼頭組本部】
帰宅した雅人は玄関で出迎えた組員から、すぐに父親の部屋へ来るようにとの伝言を受けた。本人が昨日言っていた通り、昼前には帰宅したそうだ。
「ただいま」
「おう、おかえり」
源二は座椅子に腰かけ、何かしらの書類に目を通していた。
「起きてて大丈夫なの?」
「別に何ともねぇなぁ。流石に大立ち回りはできんだろうが、普通に生活する分には平気だ」
源二の様子は普段と同じ、並の八十歳とは比較にならないほど元気だった。誰が見ても、これで末期癌だとは思わないだろう。病院で着ていた医療用の浴衣と違い、資産家らしい一品ものの和服姿だからなおさらだ。
「わざわざ呼びつけたのはよ、お前に話しておくことがあってな。とりあえずそこ座れ」
改まって話というのも珍しい。よほど大事なことなのか。雅人は源二の前に置かれた座布団に正座した。
「話したいことはいくつかあるが、まずは組についてだな。おい雅人、お前、跡を継ぐ気あるか?」
雅人は些かの逡巡もなく即答した。
「親不孝かもしれないけど、正直に言うと、ないんだ」
「おう、そうか。ならそれで良い」
源二の意外な言葉に、雅人は少々肩透かしを食らったような気分になった。
察した源二が言葉を続ける。
「極道なんざ、胸張って人様に言える仕事じゃねぇからな。無理やり継がせちゃあ親失格だろう。まっ、お前はお前で、好きな道を探せ」
言いながら、袖口から小さな冊子を取りだし、ポンッと雅人の方へ放った。手に取って見ると、それは銀行の預金通帳だった。
「お前名義でいくらか入れてある。生活費の足しにでもしとくれ」
まるで小遣いをやるかのように源二は軽く言ったが、指をさして確認しないと数えきれないゼロの羅列。一生遊んでも使い切れない程の金額だった。
「こ、これは何の冗談?」
「あん? 足りねぇってか。お前も男だろう、そこは自分で何とかしろや」
「逆だよ逆! こんな金額、見たことないよ」
「多いんならイイじゃねぇか。こまけぇこたぁ気にすんな」
源二は満足げにカカカと笑った。
「あと組の方だがよ。そっちはまぁ、磐田と西原に任せときゃ問題ねぇ。頭もそのうち決まるだろうさ」
「意外とあっさりしてるんだね。下手したら身内同士で潰し合いになるかもしれないのに」
「ところがどっこい、誰もやりたがらねぇんだよ。自分は器じゃねぇとか言ってな。普通なら親を殺してでもテッペン目指すと思うんだが」
それは仕方のないことだった。鬼頭組は室町時代から原形が存在する、言うなれば老舗の極道である。だがその立場はせいぜい地元の顔役であり、台東区を離れれば誰も知らない小さな集団だった。そこから急成長を遂げ、日本の半分を牛耳るまでになったのは、他ならぬ源二の手腕なのだ。
腕っ節にしても人望にしても、源二はとにかく影響力が強すぎた。下からすればこれほど頼もしい指導者もいないが、だからこそ大きな壁にもなりうる。親への忠誠心と、跡を継ぐことへの重圧。反社会的勢力には野心家が数多くいるが、どうしてなかなか、この二つを無視できる者はいなかった。
「ともかく俺としてはよ、組よりもお前の将来の方が心配なんだ」
「気持ちはありがたいけど、好きな道を探せって、いま言ったばかりじゃないか」
「いや、そうじゃねぇ。話はむしろこっからが本題だ」
そう言って源二は、軽く咳払いをした。そして真剣な眼差しで雅人を見つめた。親子二人だけの部屋に、何とも言えない緊張感が走る。
時間にして、三十秒もない沈黙。しかし雅人にはそれが、異様に長く、重苦しいものに感じられた。
やがて、源二の口が開いた。
「お前、鬼を見たことあるか?」
さらに十秒の沈黙。雅人は気の抜けた返事で答えた。
「……は?」
「だから鬼だよ、鬼。もちろん作りモンじゃねぇぞ。本物の鬼だ」
病気のショックで頭までおかしくなってしまったのだろうか。人を呼びつけておいて鬼がどうこうなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
雅人は若干苛つきながら、吐き捨てるように言葉を返した。
「あるわけないだろ。現実にいないものをどうやって」
おかしな質問を投げておきながら、源二はそうだろうと言わんばかりの顔で頷いた。
「まぁ、普通ならそう思うわな。ならやっぱり、一度見せておくべきか」
見せる? まさか桐箱から干物を出して、『鬼の手のミイラでござい』なんて言うつもりじゃなかろうか。
訝しむ雅人を尻目に、源二は一人で納得して話を進めた。
「いまの身体じゃ、やれて一瞬だ。だから雅人、目ぇ逸らすんじゃねぇぞ」
源二はゆっくりと座椅子から立ち上がると、腰の辺りに拳を添え、空手の正拳突きと似た構えを取った。それから、大きく二回の深呼吸。部屋の中に独特の空気が漂い、ただ座って見ているだけの雅人の方が、呼吸を整える源二よりも息苦しさを感じた。
「フンッ!」
源二は息を止め、全身に力を込めた。するとどうしたことだろう、彼の身体がぼやけて消え、入れ替わりに、赤黒い肌をした大男が現れたではないか。それはまさに一瞬。まるで手品のように、あっという間の出来事だった。
身長は三メートル前後。天井を突き抜けないよう、僅かに身体を丸めている。張り詰めんばかりの強靭な筋肉が全身を覆い、拳など岩石そのもの。何より驚いたのがその顔だ。肉食獣さながらに長く尖った牙、不気味に黒光りする双眸、ボサボサの長髪から覗かせる二本の角。そう、大男は、誰もが思い描く鬼の姿をしていたのだ。
「お、おにっ!」
雅人は理解不能な光景に腰を抜かし、引きつった顔で鬼を見上げた。身体は元より喉までも震え、これ以上叫ぶことすらままならなかった。
鬼がこちらを向いた。そして右手を雅人の肩へと伸ばす。捕まえるつもりなのか。
身動きできない雅人。鬼の手がゆっくりと近づく。肩まであと数センチ。
ところが、何があったのか。鬼はいきなり膝をつき、苦しそうに心臓の辺りを手で押さえ始めた。激しい息使い。全身から噴き出す大量の汗。やがて耐えきれなくなったのか、鬼はそのままうつ伏せに倒れた。そして出て来た時とは逆、鬼と入れ替わりで、源二の姿が現れた。
「いまのは……親父?」
「ハァ……ハァ………やれやれ、ジジィにはキツイぜ」
起き上がり、胡坐をかいた源二が照れたように笑った。どうやら体力は消耗したようだが、体調的には問題なさそうだ。
「見ただろ雅人、いまのが鬼だ。つまり早い話、俺は人間じゃねぇってことよ」
「人間じゃ、ない?」
僅かな間に流れ込んできた情報量が多すぎる。雅人は処理が追いつかず、眉間にしわを寄せて源二の言葉をそのまま返した。
「ああ。人に化けた鬼、とでも言うのか。まぁ歳食ったいまじゃ、鬼の姿になる方がしんどいけどな」
身体の汗を手拭いで拭いつつ、源二は真剣な眼差しで雅人の顔を見た。
「それより重要なのはよ、お前にも鬼に変解する可能性があるってことだ」
「えっ?」
「人じゃねぇ俺の子なんだ、当然だろ」
話は勝手に、雅人の理解の範疇外へと飛んでいた。父親の正体が鬼であるということが、まず意味がわからない。そのうえ自分まで人ではないなんて。どう見ても平凡な学生なのに。
「で、でも、死んだ母さんは人間だったんだよね?」
「おうよ、だから絶対ってことはない。あくまで可能性の問題だ」
変解した源二がそうであったように、世間一般で言う鬼のイメージは、力強くて荒々しいものだ。対して雅人は、良く言えば温和な性格、悪く言えばぬるま湯で育ったお坊ちゃま。そんな彼が鬼になったところで、豚に真珠、猫に小判。これ以上のミスマッチもないものである。
「う~ん。仮にその……へんげ、だっけ? ができたとして、何か問題でもあるのかな? 強そうで良いじゃないか」
何もかも実感が沸かず、雅人は他人事のように答えた。
「バカッ、そんな甘ぇモンじゃねぇんだよ、鬼になるってのはなぁ」
「そう言われても、まったく想像できないよ」
「気持ちは分かるが、用心するに越したことはないだろ? だからコイツに目を通しとけ」
源二はそう言って、二冊の書物を雅人に渡した。ひとつは古めかしい和紙でできたもので、博物館にでも寄贈されていそうな重厚感がある。そしてもうひとつは、どこにでもある大学ノートだった。
「これは?」
「ウチの血筋だの、変解の方法だのが書かれた文献だ。だがお前、昔の文章なんて読めねぇだろ。要点のまとめと解説を、こっちのノートにメモしといてやった」
気が利く父親に感謝すべきか、不出来な自分を恥じるべきか。雅人は苦虫を噛み潰したような顔で愛想笑い。
「必ずしもお前が鬼になるとは限らねぇ。事実、俺の親はどっちも人間だったしな」
「でも可能性がゼロではない以上、油断するわけにもいかないと?」
「特に成長期が一番危険なんだが、生憎と俺は、お前を見続けることができそうにない。もしもの時はその二冊を頼りに、自分で切り抜けてくれ」
「……わかった。とりあえずもらっとく」
事実を受け入れたというより、あまりに現実離れした話に、雅人の思考はついて行けなかった。文献にしても、源二のように危機感を抱いているわけではないから、恐らく一度読んでそれっきりになるだろう。
「仮にお前は無関係だったとしても、その本は絶対に捨てるなよ。もしかしたらお前の子供が――」
「はいはい、言われなくてもわかってるよ。家宝みたいなもんだし、大切に扱うって」
用件はこれで終わりのようで、雅人は自分の部屋へ戻ることにした。言われた通り、貰った二冊を読んでみるつもりだ。
【午後十時七分 雅人の自室】
気が付けば時計は、夜の十時を少し回っていた。源二のノートはかなりのボリュームがあり、数時間かけてようやく読めたのは半分程度。ちなみに彼が言った通り、原典の方は読めないどころか、文字として認識すらできなかった。
雅人はとりあえず、読み終えた部分を頭の中で整理してみた。
最初に書かれていたのは、鬼と鬼頭の家についての歴史だった。
そもそも鬼とは、荒神と呼ばれる存在の一種である。では荒神とは何なのか。一言で表すなら、人や獣ならざるもの、である。
いまでこそ神や妖怪、精霊など、人間の都合で多様にカテゴライズされているが、元来これらは全て荒神と呼ばれていた。八百万の神と言えば、よりわかり易いだろうか。およそ人類の歴史が語られる以前より存在し、卓越した力や知恵、あるいは知識でもって、社会と密接な関係を築いていたという。
しかし日本に仏教が伝来し、それを政治に利用する者が出始めると、その関係にもズレが生じるようになる。名実ともに有力な一部の者は変わらず神として祀られたが、大半は仏に仇なす悪鬼妖怪とのレッテルを貼られ、酷い場合には討伐対象にされたのだ。
もちろん荒神たちも黙ってやられはしない。全力でもってこれに対抗したが、如何せん人間たちは数が多すぎた。
全ての荒神に共通する唯一の弱点、それは出生率の低さである。荒神同士、あるいは人間との間から生まれるが、基本的に親一組につき子は一人ないし二人。それも晩年にできれば良い方とされている。雅人もその例に漏れず、源二が六十歳を超えてからできた一人息子だ。
いくら個々が強くとも、数の暴力には敵わない。休む間もなく襲われ続け、日を追うごとに数を減らし、やがて荒神たちは、三つの選択を迫られることとなった。
ひとつは人間との干渉を避け、山の奥深くに隠れ住む道。
ひとつは人間に化け、人間社会に溶け込む道。
そして最後のひとつは、滅ぶまで己を貫き通す道。
鬼が選んだのは、人間社会に溶け込む道だった。元々人間に近い容姿をしていたので、人足や大工などといった荒くれ者の中に混ざっても違和感がなかったのだろう。中でも雅人の祖先に当たる者は、腕っ節の強さと人情味溢れる性格で皆に慕われ、いつしか町の顔役にまでなったという。時代にして、室町前後のことである。組織構成や体制など、現在のものとはかなり違うが、つまり鬼頭組の原点とも言えるべき組織は、実に七百年近くも前から存在したことになるのだ。
さて、鬼はこうして人間との共存を始めたわけだが、いくら似ている外見も、並んで立てば違いは明らか。またどんなに加減したところで、比類なき千人力は誤魔化しようがない。そこで『変解』と呼ばれる幻術(外見や能力に影響を及ぼす、強力な自己催眠)を日常的に使用し、人間のフリをしていたという。もっとも、長い時が経過した現代では、変解前と後の状態が完全に逆転してしまったが(今後は便宜上、人間から鬼の姿へ変わる方を変解と称する)。
変解の方法は、言葉で説明するだけなら至極簡単である。感情を高め、強い力を欲すること。どんな感情でも構わないが、物理的な力を望む都合上、怒りや殺意といった闘争本能に近いものの方が良いらしい。
しかし喧嘩すら満足に経験がない雅人に、闘争本能を剥き出しにしろと言ったところで無理な話だった。嫌なことを自分なりに思い出してみたものの、不快にこそなれ、鬼へと変解する気配は全くなかった。
後日そのことを源二に伝えると、
「まぁお前が鬼になれるんなら、夏華ちゃんはいまごろ般若にでもなってらぁな」
と、いたく安心した顔で笑った。
【五月十九日 午後二時 応接室】
源二が癌の宣告を受けてから一週間が経過した。紆余曲折ありながらも次の組長は西原に決まり、襲名式の打ち合わせだの何だのと、組の中は連日あわただしい。雅人も完全に無関係とはいかず、学業そっちのけで、細々とした用事に駆り出されていた。そしてこれから始まるのは、雅人の転居先選びだった。
組長の座を西原に任せ、反社会的勢力とは関係のない世界で生きていく以上、組織の本拠地でもあるこの家にはいられない。そこで雅人は、学校の近くにアパートを借りることにしたのだ。未成年の一人暮らしとなるが、金銭面は源二の遺産で事足りる。また、身元保証人や面倒な書類の類は、全て磐田が引き受けてくれた。磐田は副業として賃貸住宅をいくつか経営しているので、新居もその中から選ぶことになるだろう。本音を言えば無関係の不動産屋に頼みたかったが、保証人になってくれる彼に対してあまり我儘は言えなかった。
「すいやせん若、わざわざお時間をいただきまして」
がっしりとした身体に、茶色のスーツを着込んだ、濃い顔の大男。基本的には温和な性格で、いつもにこやかに笑っているが、それが逆にフランケンシュタインの如き凄みを感じさせる。磐田とはそういう男だった。
「いやいや、僕から頼んだことだから。それはともかく、どうして西原と夏華が居るの?」
客間には磐田の他に、西原と、磐田の娘である夏華が同席していた。
少々恐縮しながら西原が答える。
「これから襲名式当日まで、息つく暇がなさそうなんですよ。若とゆっくりお話できる時間も作れそうにないので、磐田のカシラに無理言って同席させてもらいました」
西原は雅人にとって兄のような存在だった。だがいまの言葉で、今後は住む世界が変わるのだと、改めて意識させられた気がした。もちろん口にした本人にその気はなく、ただの何気ない一言だったのだろうが。
続いては明るい少女の声。
「アタシはおじさまのお見舞いで来たんだけどね。若サマが独り暮らしするとか、なんか面白そうな話を聞いたんで、ちょ~っと混ぜてもらおっかなと」
夏華は雅人よりひとつ年下の幼馴染で、ただひたすらに能天気な性格をしている。学校帰りに寄ったのか、制服姿のままだ。
「にしても若サマ、ホントにこの家を出ていくつもりなんだ?」
夏華は雅人の顔をしげしげと眺めた。
「会社を辞めたら社宅から出ていくだろ? 要はそういうことだよ」
「う~ん、理屈じゃそうなんだろうけどさ。温室育ちのお坊ちゃまが、いきなり独り暮らしなんてできるの?」
温室育ちのお坊ちゃま。雅人も自覚しているが、夏華に指摘される謂れはない。彼女こそ雅人に負けず劣らずの温室育ちで、何より両親が健在なのだ。
苛立った雅人は若干の嫌味を込めて反論した。
「少なくとも家事は、お前より遥かに上手だぞ」
「そういうことじゃなくてさ、誰もいない寂しさに耐えられるのかなって」
それを聞いた磐田と西原が、もっともらしく相槌を打った。
「確かに。若の周りには、いつも必ず組の誰かがいましたよね」
「まぁあっしらにしてみても、若がこの屋敷にいらっしゃるのは当たり前だったからな。そうでなくなるのは寂しすぎやすよ」
世間知らずの雅人を揶揄するのかと思いきや、いたって真面目に本音を漏らした。二人はこれまで、多忙な源二に代わって雅人を世話してきた。しかも今回は普通の家庭で独り立ちするのとは勝手が違う。雅人の保証人となる磐田はまだしも、西原はこのまま疎遠になってしまうかもしれないのだ。
「できればずっとここにいていただきたかったです。そもそも私は、若にお仕えするつもりでいたのですから」
「またその話? 勘弁してよ。器じゃないって何度も言ったじゃないか」
「そんな……いや、そうですね。流石にしつこく言い過ぎました。以後気を付けます」
ふっ切れたような、落胆したような、少しだけ悲しそうな。西原の表情は複雑すぎて、そこから気持ちを汲み取ることはできなかった。
しばらく続く沈黙。
「…………」
何となく居づらい空間。チクタク、チクタク。壁掛け時計の秒針が、やたらと耳触りな音を刻む。雅人も磐田も西原も次の言葉を探したが、何を言っても居づらさが増してしまいそうで、ただ視線を下に落とすことしかできなかった。
「そう言えばさ、西原さんはなんで鬼頭組に入ったの? ご先祖様の代から働いてるウチと違って、自分からヤクザになりに来たんだよね?」
本人にその気があったわけではなかろうが、夏華が上手い具合に会話の流れを切り替えた。
これ幸いとばかり、西原は笑顔で答えた。
「ええ。元々は親父の経営する孤児院にいました。ですがそこが火事に遭いましてね。逃げ遅れた私を救ってくれたのが親父で、そのご恩返しがしたくて、組に入ったんです」
「あん時ぁ確か、まだ十歳にもなってなかったよなぁ。無茶なガキがいやがると思ったモンだぜ」
磐田も当時を懐かしむ。
「火事の一件で孤児院が閉鎖になって、子供たちはみんな他の施設に引き取られたんだがよ。コイツだけは組に居させてくれの一点張りで、テコでも動きやしなかった」
夏華が興味深そうに目を輝かせる。
「へぇ~、意外と頑固だったんだ」
「仕方ねぇってんで、舎弟だった先代の西原さんが養子にしたんだが、それからも雑用だの、若の子守りだの、ほぼ毎日組に顔を出してな。で、いつの間にか組員になって、次は組長だってんだから、ホント、世の中はわからねぇや」
雅人や磐田にしてみれば、鬼頭組は先祖の代から当たり前にあるもの。言うなれば住み慣れた家と同じで、愛着こそあれ、特別な感情は湧いてこない。しかし西原の場合は、自らの意思で選んだ居場所である。組に対する想いは、雅人たちの比ではないだろう。それを考慮すれば、やはり西原こそが次の組長に相応しいのかもしれない。
「一番驚いたのは私ですよ。磐田のカシラはともかく、他の幹部連中まで跡目を断るなんて思ってもみませんでしたから」
磐田家は代々鬼頭組の幹部を務め、組長である鬼頭の家を支え続けてきた。ある意味ナンバー二であることを誇りとしているため、他の候補者を押しのけてトップに立つ気はなかった。
「みんなそんだけ親っさんに惚れ込んでたってこった。ま、余計な喧嘩が起こるよかマシだろう。下手すりゃ跡目争いやら独立やらで、組がグチャグチャになってたかもしれん」
「西原さんだから暴れなかったんじゃないの? これが頼りない若サマなら、毎日が戦争だったかもね」
「お、おい夏華!」
「いくら若の幼馴染みでも、さすがに言葉が過ぎますよ」
夏華の冗談に磐田と西原は狼狽したが、彼女の言葉通りだと思った雅人は何も感じなかった。
「まぁ辞退した僕の選択は正しかったってことで、話を本題に戻させてもらうよ。やっぱり学校から近い方が……」
結局、部屋の設備にこれといった要望があるでもなく、家賃も磐田が相場よりも安くしてくれた為、選ぶ条件は立地ぐらいなものだった。あっさりと物件が決まったものの、入居は源二を看取ってからとなるので未定。おそらくはそう遠くない話だろうが、かと言って現段階で決められることは少なく、一通り片付けるのに二十分もかからなかった。
「それじゃあ今日のところはこの辺で。本人確認の必要がある書類がまだ二、三残っとりやすが、急ぐモンじゃありやせんので、また都合良い時にお願いしやす」
「こちらこそ。面倒事を引き受けてくれてありがとう」
「本音を言やぁ、アパートじゃなくて我が家に来て欲しいんですがね」
「磐田の家に下宿しろって? 悪いけど、それなら独り暮らしの方が気楽だよ」
義務教育中の児童ならともかく、雅人はあと二年もしないうちに高校卒業だ。それに源二の遺産だって十分すぎるほどある。にもかかわらず、わざわざ他人の家に厄介になるのは甘えでしかない。なまじ親しいからこそ互いに余計な気を遣ってしまいそうで、できればそういったことも避けたかった。
「いまさら気遣いなんて無用ですぜ。入居特典に娘も付けやすから」
「ますますお断りだ」
「あっしはね、息子が欲しかったんでやすよ。成長した息子と酒を飲むとか、最高だと思いやせん?」
「いまからでも作れば良いじゃないか」
「ならせめておや……いや親父は親っさんただ一人だから、お父さん、もしくはパパと呼んでくだせぇ」
「誰が呼ぶか!」
【六月十二日 午前十一時 源二の自室】
梅雨入り間もない六月。畳部屋の中央に敷かれた布団を囲んで、白衣の主治医と、黒服の幹部たちが座している。源二が自身の最期を悟って集めた面々だ。むろん、その傍らには雅人もいた。
「頭の引き継ぎは終えた。雅人への相続も問題ない。さて、これでいよいよお役御免だな」
癌の発覚からわずか一月程度にも関わらず、源二の身体はすっかり痩せ細り、筋骨逞しい鬼の面影は微塵もなくなっていた。ある意味ようやく年齢相応の姿になったのかもしれないが。それでも眼光は鋭く、極道者ならではの凄味も健在なのは流石。どっしりと腰を据え、自身の最期と正面から向き合っていた。
「親父……」
むしろ傍にいる者たちの方が、別れを惜しむあまり、冷静さを失いそうだった。誰もが正座したまま俯き、叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、肩を震わせている。
「なんだ辛気臭ぇな、おい。やれ喧嘩だ戦争だって、やりたい放題やってきた俺がよ、お前らに囲まれながら、畳の上で死ねるんだ。こんなめでたい日に悲しそうな顔するなよ」
しかし何を言っても状況は変わらない。源二はやれやれと溜め息を吐いた。
「いい歳こいた大人、それも極道モンが、いつまでもメソメソしてんじゃねぇ。俺のことなんざサッサと忘れて、西原をしっかり支えてやってくれ。それから雅人、お前はもう自由だ。渡した金で、好きなように生きろ………」
これが、源二の残した最期の言葉だった。まるで世間話でもするかのような調子で、特に苦しむ素振りもなく、しかし雅人が返事をしようと顔を見た時には、既に事切れていた。
「あ……あぁぁ、あああああああぁああああぁあぁあああああぁぁー!」
雅人は言葉にならない叫びを上げた。この日が来ることは覚悟していた。だから話を聞かされた当日に少しだけ泣き、以後は全てを前向きに受け止めたつもりだった。腐っても組長の息子である。取り乱すようなことだけは絶対にならないと、心に刻み込んだはずだった。しかし、いざ肉親の死を目の当たりにすると、全ての覚悟は霧散し、視界が真っ白になってしまった。
その後のことを、雅人はあまり覚えていない。気付いた時には一日が過ぎており、晩には幹部連中が手配した通夜に出席していた。その翌日に開かれた告別式でも、特別な挨拶などをするでもなく、あくまで参列者の一人として源二を送った。唯一の血縁でありながら情けない話だが、場慣れした大人たちが仕切ってくれたおかげで、余計な醜態を曝さずに済んだとも言えるだろう。
ただ、告別式を前にして棺が閉じられ、源二の顔を拝む機会が一度もなかったことだけが気がかりだった。本人から遺言として頼まれていたらしいが、詳しい理由は最後までわからなかった。
2話に続きます。