呪いちゃん
毎日毎日、つらいことばかり、同じことばかりの生活。
こんな毎日から抜け出して、どこか別の世界へ行きたい。
夏休みまで残り数日の、学校の教室。
授業中の先生の声はまるで念仏のようで、耳に入っても頭には残らない。
窓際の席で夏の日差しを浴びながら、
その男子生徒は、ぼんやりと校庭を見下ろしていた。
陽炎が立ち上る校庭では体育の授業が行われていて、
どこかのクラスの生徒達が炎天下の校庭をぐるぐると走らされていた。
頬杖を突いて鼻息を一つ、その男子生徒は小声で言った。
「毎日毎日、同じような退屈な授業ばかり。
先生や親に急かされて、ぐるぐると走らされることに、
何の意味があるっていうんだ。
あーあ、早く夏休みにならないかな。」
授業中の先生の声を聞き流しながら、今度は教室の中を眺める。
後ろから望む教室には、クラスメイト達の背中が並ぶ。
その中で、一人の女子生徒の後ろ姿に目が留まった。
その女子生徒は、クラスメイト達からは疎まれている存在。
渾名は呪いちゃん。
いつも呪いだの占いだのに傾倒していて、
その女子生徒が触った筆記用具や机は何故かよく壊れたので、
あるいは本物の呪いなのではと、そんな不名誉な渾名が付けられた。
そんな呪いちゃんは、ひょろっと背が高く、
伸び切った黒髪が顔を覆っていて、人相はよくわからない。
俯き加減で、口数少なくぼそぼそとしゃべる。
いつも黒い服装をしているものだから、確かに近付けば呪われそうな雰囲気。
しかし、その男子生徒は、どうしてなのか呪いちゃんに夢中だった。
その男子生徒に言わせてみれば、
黒い艶髪は色っぽく、呪いや占いをする姿は神秘的、
黒い服装は大人っぽくて、口数が少ないのは落ち着いている証拠なのだという。
物好きだと他人から言われようと、その男子生徒は意に介さない。
こうして授業中など、ふと気がつくと呪いちゃんを見ている。
何かの拍子に視界に入ってくる呪いちゃんの姿から目が離せない。
呪いちゃんが髪を掻き上げたり、口元を拭う仕草が好きだ。
その男子生徒の好意が伝わったのか、
最近は呪いちゃんと目が合うことが多い気がする。
いっそ好きですと告白してしまいたい。今すぐにでも。
しかし、その男子生徒は、呪いちゃんと会話するほどには親しくない。
共通の知人もいなければ、誰かに紹介してもらうこともできず、
呪いちゃんと話す機会に恵まれずにいた
後ろ姿を眺めながら、決意するように言葉を漏らす。
「何をするにしても、まずは二人っきりにならないと。」
すると、そんなその男子生徒の願いが叶う時がやってきた。
それから数日後。
夏休み前、最後の学校の日、放課後。
その男子生徒は、職員室に呼び出され、やっとのことで教室に戻ってきた。
もう既に他の生徒達は帰宅してしまったようで、教室には誰もいない。
と、思ったのだが、よく見ると違った。
夕暮れの教室の片隅に、呪いちゃんが一人佇んでいたのだった。
今、教室には、その男子生徒と呪いちゃんの二人っきり。
話をするにはまたとない機会だった。
この機を逃すまいと何かに駆り立てられるようにして、
その男子生徒は、呪いちゃんの前に立った。
長い髪でよく見えない呪いちゃんの顔に、言葉を投げかける。
「あっ、あのさ!
ちょっと話がしたいんだけど、いいかな?」
すると呪いちゃんは、顔にかかった髪を耳にかけて、
それから、暗いとも落ち着いているとも取れる声で応えた。
「・・・いいよ、何?」
待ちに待った二人っきりで会話をする機会が得られた。
その男子生徒はごくりと喉を鳴らして、それから思い切って言った。
「君のことが好きだ!僕と付き合ってください!」
大きな声が二人の間を駆け抜けて、二人っきりの教室の空気に溶けていく。
夕日に照らされた教室の机の影が、じわりと動く程度の時間を置いて、
呪いちゃんがゆっくりと口を開いた。
「・・・私のこと、どれくらい好き?」
早速愛情を試すような答えに、その男子生徒は気恥ずかしさで面食らった。
しかし、ここで躊躇しては叶う恋も叶わない。
その男子生徒は精一杯に答えてみせた。
「君のことは、世界で一番好きだ。」
「・・・本当に?」
「本当だよ。」
「私のこと、ずっと愛してくれる?」
「もちろん。君と添い遂げたいと思ってる。」
まるで結婚の申し込みのような、若さ故の瑞々しい言葉。
そんなその男子生徒の返事を聞いて、呪いちゃんは笑顔になったようだった。
呪いちゃんはやや弾む声で言った。
「よかった。計画は成功したみたい。
もう話しても平気かな。
・・・あのね。
私、あなたが今日ここで告白するって、知ってたんだよ。」
てっきり、その男子生徒は、呪いちゃんのその言葉を、
自分の好意がわかりやすかった、という意味で受け取った。
だから、こうしていつか告白するのは自明の理だったと、
呪いちゃんは言いたかったのだと思った。
しかし、それが間違いだとすぐに気が付く。
呪いちゃんは、今日ここで告白するのを知っていた、と言っている。
好意がわかりやすくとも、告白の日時まではわからないはず。
今日、こうして二人っきりになれたのは、偶然のはずなのだから。
呪いちゃんの言っていることの意味がわからない。
それとも、聞き間違いだろうか。
戸惑うその男子生徒に、今度は呪いちゃんの方から話し始めた。
「あなたは私を愛してくれた。だから教えてあげるね。
私のとっておきの秘密を。」
夕暮れの放課後、二人っきりの教室。
立ち尽くすその男子生徒に、呪いちゃんは嬉しそうに話し始めた。
「あのね、あなたが私に告白してくれたのは、
これが初めてじゃないんだよ。
何回も何十回も、あなたは私に告白してくれた。
でも、あなたはそれを忘れてしまっている。
・・・この世界はね、ループしているの。」
「世界が、ループしている?」
最初、その男子生徒は、呪いちゃんが冗談を言っているのだと思った。
しかし、呪いちゃんは、微笑みを浮かべているが至って真剣だった。
「そう、この世界はループしている。
この世界は、春の新学期から夏休み直前までの三ヶ月間を、
何度も何度も繰り返しているの。
それを知っているのは、多分、私だけ。
何故なら、この世界がループするようになったのは、
私のお呪いが原因だから。」
呪いちゃんから笑顔が消え、ふっと寂しそうな表情になった。
「私ね、学校だけじゃなくて、家でも居場所が無いんだ。
両親とも上手くいかなくて、嫌われて、私のことで両親は口喧嘩が絶えない。
だから私、家にいたくなかった。夏休みが嫌だった。
それで、何とか夏休みから逃れられないか、色々と調べたの。
たくさん占いをして、お呪いをして、時には遠い外国の古いお呪いも試した。
そうしたら、その中のどれかが効果あったみたい。
夏休み前の最後の学校の日が終わって、夜になって、
次の日の朝に目を覚ますと、時間が巻き戻っていた。
夏休みの最初の日のはずが、春の新学期の最初の日になっていた。
もちろん、いたずらや勘違いじゃないよ。
新聞やテレビを調べたけれど、やっぱり時間は巻き戻っていた。
大体三ヶ月くらい巻き戻っていたの。
そうしてまた同じような日々が過ぎていった。
学校に行って、家に帰って、
違うのは、私は前の三ヶ月間の記憶を持っていることだけ。
時間が過ぎて、また夏がやってきて、学校が終わって夏休みになると、
また時間が三ヶ月巻き戻っていたの。
・・・信じてくれる?」
正直に言えば、到底信じることはできない。
呪いちゃんは占いだの呪いだのに傾倒しすぎるあまり、
時間が巻き戻っていると思いこんでいるだけではないのか。
ともあれ、好きだと伝えたばかりの相手に、信じられないとは言えない。
その男子生徒はこう答えるしかなかった。
「もちろん、信じるよ。」
「・・・ありがとう。」
そんなその男子生徒の言葉を、呪いちゃんは信じたのか否か、
苦笑いをして話を続けるのだった。
「それでね、この世界は、
春の新学期から夏休み前の三ヶ月間を繰り返しループしてる。
そのことを覚えているのは私だけ。
時間が巻き戻ると、世界は元に戻る。
その時に、みんなの記憶も巻き戻っちゃうみたい。
例外なのは私と、私が触った物だけ。
私は巻き戻らないで、今までの世界の事を全部覚えてる。
それから、私が触った物も巻き戻らずにそのまま。
ノートに書いた文字は残っているし、使ったペンは減ったまま、
場所だけが元に戻るの。
だからね、私が使った物だけが、世界がループしても引き継がれて、
段々と古くなっていっちゃうの。
私の身の回りの物ばかりが壊れるのは、それが理由。」
世界がループしても、呪いちゃんが触った物は引き継がれる。
つまり、巻き戻る時間の流れに取り残されて、先に進んでしまう。
世界がループを繰り返せば、三ヶ月間が溜まっていって、
その物はやがて壊れてしまうだろう。
しかし、それが顕著に実感できるまで、
呪いちゃんは何度この世界のループを見てきたのだろう。
その男子生徒は考えずにはいられなかった。
そんなその男子生徒の内心を知ってか知らずか、呪いちゃんの話は続く。
「何度も世界がループして、最初の頃は楽しかった。
同じような世界でも、私が違うことをすれば、世界は変わっていく。
言ってみれば、私だけが解答を知っているようなものだね。
私だけが記憶を引き継いでいることを利用して、
私はループする世界を楽しんだ。
先に何が起こるのかを知っていれば、嫌なことを避けることができたから。
でも、人間って贅沢だよね。
次第に私は、物足りなさを感じるようになった。
嫌なことを避けられても、やっぱり独りは寂しい。
だから、一緒にいてくれる人が欲しかった。
でも、誰かに事情を話しても、
世界がループしたらその人の記憶も巻き戻ってしまう。
私と一緒に記憶を引き継いでくれる人が欲しかった。
そのためには、どうしたらいいと思う?」
「・・・メモを取っておくとか?」
その男子生徒の咄嗟の解答は、しかし呪いちゃんの予想した範囲内だった。
「ううん、それじゃ駄目だった。
私が書いたメモなら、世界がループしても引き継がれる。
でも、世界が巻き戻ってるなんてメモを見せても、誰も信じてくれなかった。
自分の体験として記憶してないと、こんなこと誰も信じてくれないよね。
だからメモでは駄目。実際の記憶として残さないと。
それでね、私、気が付いたの。
これは一種の言葉遊び。
心に触れる、って言葉があるじゃない?
人と通じ合うって意味の言葉。
私が心に触れた人なら、記憶を引き継いでくれるんじゃないかって、
そう思ったの。」
世界のループを超えて記憶を引き継がせるために、心に触れる。
その言葉を反芻して、その男子生徒はハッと気が付いた。
「もしかして、君はまさか。」
「そう。
心に触れる相手として私が選んだのは、あなた。
あなたが私に好意を持ってくれているのは知っていた。
あなただったら、私と心を通わせてくれるかもしれない。
好きになってくれるかもしれない。
心に触れて、一緒に記憶を引き継いでくれるかも知れない。
だから私は試した。
あなたに好かれるように、服装も行動も変えていった。
あなたが好きそうな服を着て、あなたが好きな仕草も覚えた。
普段からなるべくあなたの視界に入るようにした。
夏休み前の今日、あなたと二人っきりになれるように、
私が世界を誘導した。
そうしてやっと、あなたは私を好きになってくれた。
こうして今日、あなたから私に告白してくれた。
私に心を触れられたあなたは、
これでもう世界のループから外れた存在になったはず。
世界が何度ループしても、もう記憶が消えることはなくなったはず。
私に触れられた事実は、取り消すことができないから。
私とあなたは心を通わせて、これからずっと一緒にいられる。
これから決して私を離さないでね。
もう独りっきりは嫌だから。
このループし続ける世界で、一緒に年を取っていきましょう。」
嬉しそうに微笑む呪いちゃんが、すっと前髪を掻き上げる。
露わになった呪いちゃんの顔には、
同い年とは思えないほどたくさんの皺が刻まれていた。
二人っきりの夕暮れの教室で、その男子生徒は呪いちゃんに告白した。
そうして呪いちゃんから知らされたのは、ループする世界のこと。
呪いちゃんの見立てによれば、呪いちゃんに心を触れられたことで、
その男子生徒もループする世界から取り残された存在になったという。
言われたことの意味が分からなくて、恐ろしくて、
その男子生徒はその場から逃げ出した。
今は家に帰って、ベッドの中で布団を被って震えていた。
「世界がループしてるなんて、そんなの嘘だ。たちの悪い冗談だ。
今日はもう寝てしまおう。
寝て目が覚めたら、明日から楽しい夏休みが始まるんだ。」
自分に言い聞かせるようにして、その男子生徒は眠れぬ夜を過ごした。
翌朝。
その男子生徒は、いつも通りの時間に目を覚ました。
寝ぼけ眼でベッドから体を起こして伸びを一つ。
半分眠ったままの頭で部屋の中を眺めていた。
昨日までと打って変わって、なんだか肌寒い。
風邪を引いたのかも知れない。
そんなことを考えていると、部屋の外から母親の声が聞こえる。
「おきなさーい。
朝ごはん、できてるんだから。
早く食べないと、学校に遅れるわよー。」
嫌な予感がする。
今日が何月何日なのか、怖くてカレンダーを見られない。
すると、玄関から呼び鈴が鳴る。
母親が応対に出て、何やらやり取りをする気配。
それから足音が近付いてきて、母親が言った。
「お友達が迎えに来てくれたって。
女の子のお友達なんて、いつの間に仲良くなったの?
もしかしてガールフレンドかしら。」
嬉しそうな母親の声とは逆に、その男子生徒の顔は青ざめていった。
終わり。
もうすぐ夏休み。
終わらない夏休みは理想の一つということで、
ループする世界を書こうと思いました。
ループする世界で恐ろしいことって何だろう。
誰かに嫌われても、大怪我しても、なかったことになるはず。
恐ろしいのは、記憶に残り続けること。
決して消えない記憶の中に残り続けるのは、
場合によっては理想かもしれないし、あるいは不幸かもしれない。
今回は男子生徒にとって不幸だった場合について書いてみました。
人は誰かに告白する時、
告白するように誘導されているのかもしれない。
告白する方とされる方と、主体はどっちだろう。
そんなことを考えて、呪いちゃんの計画ができていきました。
お読み頂きありがとうございました。