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緑の雲と灰混りのスモッグが迷彩色のように空を彩る。
その天蓋の隙間を縫って陽は淡く地上を照らし朝を告げた。
天候に異常は無し。
綾部梨子は寄れた制服の皺を伸ばし、長い髪は二つに分けて結わいた。
昨日折れた鉈の代わりに、折り畳みの鋸をバッグに入れる。
忘れ物が無いか確認をする。
窓から見える斜め向かいの屋根の上に立つ四角頭に手を振り挨拶を済ませると、ローファーを拾いに玄関へと足を運ぶ。
玄関扉は先月から八つ指の肉塊が塞いでいて使えなくなってしまった。
首は取れていて誰だったかは分からない。
所々金属に変質したそれを片付けるのは容易ではない。
綾部梨子は短く嘆息し、割れたガラスを踏まないようにベランダへと向かった。
「いってきます」
家族の消えた3DKの一室から返ってくる返事は木が軋む音だけだった。
綾部梨子はローファーを履き、立て掛けられた梯子は使わず2階のベランダから飛び降りた。
幾重にも重ねられた毛布の上に背中から着地すると、ボフンと周囲の胞子が舞いオレンジ色に発光する。
出入りは面倒になってしまったが、舞い散る胞子は遠い記憶にあるクリスマスのイルミネーションを想起させてくれて案外気に入っている。
服に付いた胞子を払い落とし、綾部梨子は今日も学校へと歩く。
◆
潰れたドーナツ屋前のバス停のベンチで、綾部梨子と同じ制服を着たハーフアップの髪の少女がラジオで遊んでいた。
摘みを左右に回したりスイッチを無意味に切り替えたり、スピーカーから時々聞こえる怨嗟の声はノイズに紛れて上手く聞き取れない。
「壊れてるじゃん?捨てないの?」
「ううん、暇潰しにはなるし」
綾部梨子は見知った人影に声をかけた。
振り向いたその顔は間違いなく、いつもここで待ち合わせをしている木下成美だった。
手に持ってたラジオは空いているベンチに置き、代わりに立て掛けてあった150cmの鉄パイプを手に取った。
「これ、結構錆びてきたし、そろそろ新しいの探さないと……」
「あっ!じゃあ帰りにホームセンター寄らない?この前折れた鉈の替えも欲しい!」
「何?また折ったの?」
放課後の予定を相談しながら、ヒビ割れたアスファルトの道を往く。
邪魔な枝状の腕は折り畳み鋸で切り落として。
酸性の体液を垂れ流す子山羊は鉄パイプで追い払う。
いつもと変りない通学路を進んでいたが、木下成美は遠くの大きな楕円形の影を見つけてしまう。
「ビビンバだ、迂回しよっか」
ビビンバという名はクラスメイトである酒井智則が命名した名前である。
焦げ茶色のブヨブヨした体の天辺から薄黄色、緑色、赤褐色の細長い指が何本も生えている。
体長は10m程度の生物。
足が遅く、体には目と鼻が無く、口だけが付いている。
ビビンバに危険性は無いが、生えている指を餌にしている能面がビビンバの周囲を縄張りにしている。
近付けば能面の持つ金属バットで天高く打ち上げられる事は、酒井智則が身を以って教えてくれていた。
酒井智則はそれから一年半以上学校を欠席している。
「……明日までにどっか行ってくれてるといいなぁ」
「そうだね」
この先の道筋を決めるため、綾部梨子は足元の小石を蹴り飛ばす。
小石は叫び声を上げながら、地面を小突くたび何度も不規則な方向に曲がりながら転がる。
時に見えない壁にぶつかったかのように空中でも旋回し進路を変えた。
前へ右へ左へと転がり続け、綾部梨子の足元に帰って来た。
「右も左もダメそう、引き返そっか」
左右の抜け道も諦め、二人は来た道を引き返す。
今日の通学路は随分と遠回りになってしまったようだ。
「そうだ、遠回りついでにコンビニ寄ろうよ」
「いいねぇ」
木下成美の提案に、綾部梨子は二つ返事で答えた。
青と白と緑のラインで構成された、もう光ることの無い看板を見つけると、粉々になった自動ドアを潜り抜け入店する。
店員の声はよく聞こえず、暗い店内にザリザリとガラスを踏む音だけが反響する。
「見てこれ、新商品」
「ほんとだ~、梅おかかおにぎりってすごい和食って感じ」
綾部梨子は値踏みしていた商品を元に戻し、梅おかかおにぎりとペットボトルのお茶を購入することにした。
店員への対価として、所々変色した6枚切りの食パンをレジへと持っていく。
袋の口を開きレジ台へ置く。
今まで微動だにしなかった店員はゆっくりと食パンに浅黒い触手を伸ばす。
斜めに裂けた大きな口からはコールタールが滴り弧の字に歪む。
対価は食料であればなんでもいい、店内のものでも構わない。
支払わなければ次の商品の補充がされない。
明日になれば今日減った分は新しく品出しされていることだろう。
商品がどこから仕入れられているのかは不明である。
おにぎりとお茶を鞄に詰め込みながら、二人は店を出る。
少し重くなったそれを肩に掛け直し学校へと向かう。