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宮沢が対局を終えて自宅に帰ったのは、午後9時前である。今日の対局はお互いに持ち時間が4時間なのでまだ早く帰宅できたほうだ。
「ただいま。今日も疲れた。」
家の中では既にシーンとして静かで、母、父両親とも既に寝る支度をしているようだ。
「おかえり。夕食はそこにおいてあるから。正雄は予備校だから、もうじき帰ってくるでしょう。」と母が玄関まで出迎えてくれた。
「兄さんは、まだ予備校で勉強かよ。成績のほうはどう?。」
呆れてきいた宮沢に、母は眉根を寄せた。
「第1志望の大学はちょっと難しいわね。」
ダイニングテーブルについた宮沢は、母が出してくれたスポーツドリンクのペットボトルのキャップを開け、コップに注ぐ。疲れた体には少し甘めのドリンクが一番美味しい。
「仕方がないよな、こればっかりは。オレも勉強はあまり得意でないし。大学の偏差値のことも全然知らない。」
すると、
「少しは忠雄にアドバイスを送ってほしいだけど。」
母は意外なことをいった。
「アドバイスって?。兄さんが志望校に関してオレに相談したいとは思わないと思うけど。」
「そんなことはないよ。」
母は首を横に振る。「複雑なんだと思う。自分がどうしていいのか、何をしたいのか分からず無理にいい大学に行きたいと思って背伸びしているところもあると思うんだ。」
「自分が何をしたいかってどういうこと?。いつも兄さんは手先が器用でパソコンをいじったり、モノ作りが好きで得意だった。工学部しか興味ないと思うけど。」
「忠雄だって、それは分かっているわ。そして本当は自分の成績に合った大学に行きたいと思っているわよ。でもそれがどこか分からないじゃないのかな。」
宮沢はふぅーとため息をつき、飲みかけていたスポーツドリンクから顔を上げた。
「確かにね。」
「学部は工学部しかないわ。でも工学部でもいろんな大学にあるから分からないだと思う。ところが、父さんが、東大出身でしょう。当然、有名大学の工学部に行くのが当たり前みたいじゃない。それで、必死になって勉強しているけど、どこかあの子には英語や国語の勉強自体がしっくりこないというのか・・・。」
兄のその気持ちはわからなくない。兄は根からの理系であり、数学、理科以外はあまり得意でない。
「でも工学部ならどこでもいいんじゃないの、なんて言えるわけないよ。」
宮沢は呆れていった。
「父さんのいうことも一理あると思う。兄さんの長い人生を考えると学歴なんていらなく、どこでも入れる大学に行くべきなんてとても・・・。それに今の勉強がまったく自分のためになってないとも言い切れないし。」
「でも、友春は学歴なんて関係ない、自分の好きな将棋の道を選んだじゃない。一応、高校には行っているけど。大学には行かないつもりなんでしょう。」
「まあ、そうだけどさ。」
そういう意味では、宮沢自身にも矛盾がある。
どっちにしてもいまの兄も、自分と同じようにこのままではダメだ。何か考えていかないと。
今の自分の停滞している成績が、必然性を伴って宮沢の胸に迫ってのはこのときだった。