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宮沢は階段をゆっくりと下りて2階の将棋道場に向かった。窓から見える外の様子はもう薄暗い。既に夜の8時を過ぎている。将棋道場のほうも一部の熱心な将棋ファンや子どもを別にしてほとんどいない。宮沢は透明なガラスから数人の人影が見えるだけ道場の自動ドアを開け中に入いった。
蛍光灯の明かりがまだしっかり照らす道場の中、片隅に人だかりができている。見知った顔の人も何人かいるなと宮沢が思っているとその中から「よう、こっちだ。」と髭を生やし貫禄のある顔の男性が声を掛けてきた。ジローさんこと、上村治郎吉九段、宮沢の将棋の師匠である。上村は今年で五十五歳。将棋のプロになったのが二十一歳、そしていまだに現役のプロ棋士であるから三十年以上プロである大ベテランである。
「いや、すまないね。対局後に声を掛けてしまって。」
ジローさんは宮沢の疲れ気味の顔を見ながら気を遣う。今日の将棋の対局時間は8時間を超えている。宮沢がいくら若いといえど真剣勝負でクタクタになっているのは他の人から見ても明らかであり、普通の人でも早く家に帰って体や頭を休めたいものである。
「いえ。今日の対局は勝ったので。何かあったのですか。」
宮沢は師匠の気遣いにありがたく思いながらも彼の少し浮かない顔を見ておやっと思った。上村とは彼が小学生の頃から将棋の指導をしてくれてきた仲である。そんな師匠が自分を呼び出し、怪訝そうに思う心の動きに気づかないわけがない。
「実は・・・。ちょっとな。」
その視線を追って人だかりの中央を見た宮沢は、一人の子どもが顔を赤くして将棋盤の前に座っているのを見た。その子どもは宮沢が対局を行う前に子ども同士で将棋を指していた先手の子である。
しまった。
思わず宮沢は舌打ちし、すぐに状況が呑み込める。彼が後手の子に余計なことをいってしまったことだろう。
「友春、キミはもうプロなのだから。滅多なことで他人の将棋のアドバイスをしてはいけないよ。子どもたちは真剣に将棋を指しているのだから。」
「・・・。申し訳ありません。つい・・・、おもしろい将棋の局面だったので。」
宮沢はがっくり肩を落とす。将棋道場で将棋を指す子どもはわざわざお金を払ってまで指しにくるのだからプロを目指さなくても将棋に非常に情熱を燃やしている。勝ち負けはとても重要なのだ。その上相手はまだ子ども。将棋の内容よりも勝つことで、将棋にもっと興味を持ったりやる気が出たりする。
今回、恐らく先手の子どもは後手の子に逆転負けをしてしまい、それがショックで顔を赤くなるまで泣いてしまったのだろう。大人の何気ない言葉で子どもを傷つけてしまい、取返しがつかなくなることはよくあることだ。
くそっ。
余計なことを言わなければよかった。
宮沢がどう先手の子どもに声をかけようか悩んでいると
「だが・・・。どうしてあの局面で後手にもチャンスがあると思ったのかね。私はてっきり先手の勝利だと思ったのだが。」
あの時、宮沢と同じく子ども同士の将棋を観戦していた白髪の男性が聞いてきた。あの局面、既に先手は詰めろがかかっており後手が逆転するには難しい。彼は将棋盤を指で指しながら宮沢をジロリとのぞき込む。盤面はその時と同じである。どうやら宮沢が根拠がないまま後手の子どもを励ましたと思っているらしかった。
「それは・・・。あなたは、先手はあと何分持ち時間があったか覚えていますか。」
「えっ・・・。持ち時間かね。」
男性は宮沢が何を考えているのか、思惑がどこにあるのかまったく読めないといったような表情をする。
「あの時、先手は持ち時間を使い切り、一手、1分未満で指す必要がありました。一方、後手はまだ10分程度時間を残しており時間に関しては余裕があったのです。」
そこで宮沢は盤面に目を移す。
「この局面、先手は詰めろがかかっていましたが後手の王を追い詰めるのにあと三十手ぐらい指す必要がありました。プロでも三十手先まで読むのは難しい。子どもが1分で正確にその手順を指し切ると思いますか。」
男性は返答に窮したように黙ってしまう。そしてうーんと腕組をする。
「確かに先手の子どもさんのほうが戦略の立て方は上手かったと思います。いい手も多かったです。ただ時間の使い方、プレシャーの与え方などの経験は後手の子どものほうがはるかに格上でした。将棋で勝つということは単純な力比べではないのです。」と宮沢は苦笑しながらいった。