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「負けました。」ゆっくりと山手が頭を下げがっくりとした。終局時間は7時28分。手数はお互い合わせて97手。深夜まで続く対局もあることを考えると早い終局だ。
「ひどい成績になったね。自分でも何がいけないのかよくわからんよ。」山手は既に白髪交じりの髪を手で掻きながら苦笑する。今回の負けで彼は公式戦5連敗だ。
「いろいろ戦法を変えて試しているのだが。苦しい将棋が多いね。宮沢君から見て、今日の将棋どう思う?」
山手の質問に宮沢は「昼休みが終えた後に指した一手が悪手だったかと。定跡通りに指されましたが・・・。別の一手があったかもしれません。」
「あの一手か。」
山手は昼休みも含め1時間以上考えて指した手を思い出すように空を仰ぐ。彼は激しい攻防の中、
攻めの一手を指したのだ。だがあの手は相手の攻撃をじっーと耐える一手を指すべきだった。山手は宮沢よりも何局も指しているのだから攻めるか、守るかという勝負所の経験は豊富のはずだ。そんなベテランの彼でも今回の局は、勝ちをどうしても欲しいと思い過ぎて焦ってしまったのかもしれない。完全に攻防のタイミングを見誤った一局だった。
「んーん。」と山手は唸り声を上げると対局の前の意気込みもすっかり涸れ果てたように元気なく立ち上がる。彼は宮沢の指摘を聞いたあと、急速に今回の将棋の局に関心を失ってしまったようだ。
負け癖がついてしまった棋士にとって対局が終わった後の反省会など苦痛以外何ものでもない。
将棋というのは一時の勝ち負けよりも内容も重要だと思うのだが、負けが込んでいると山手のように自分に「何か」が足りないと思い後ろ向きに考えてしまうことは珍しくない。自分の将棋に欠点があると思い込んでしまうのだ。
「今日はこれで終わりにしよう。」と山手は小声でそういうとさっさと対局室を出ていった。
勝ててよかったぜ。
内容も良かったし。
宮沢はそんな山手を見てほっとした気持ちを感じていた。彼もプロである以上、勝負にはこだわっている。そして今回、たとえ成績が下降気味の中堅棋士が相手とはいえ宮沢の会心の将棋だった。山手が立ち去ったあと、我慢が出来なくなり口元が緩んできた。
「俺もやればできるじゃないか。こういう将棋を指していけば・・・。いずれ、俺も・・・。」
宮沢はまだまだ上には上がいると分かってはいるが、自分の強さを実感できたのも事実である。
彼は刈り上げた短髪の髪をいじりながら、もう一度、一人で今回の将棋を最初から並べ直す。
まだまだ検討するべき手はあっただろうが、今はそんなことは考えられない。
彼は拳を握りしめながら勝利の余韻に浸っていると、
「宮沢四段、今いいですか?」と呼ぶ声が聞こえてきた。