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上村が研究チームを集めて最初の会合を開いたのは、七月末のことであった。宮沢が高校の夏休みに入った時期である。
対局がなくお互い休みで都合のいい日、上村と宮沢は大阪市内の馴染みの小料理屋「たからやま」に向かい、初回ということもあって彼らと仲の良い女流棋士、光井夏菜子も加わっての簡単な結成式を開いた。
「申し訳ない。夏菜子さん、あんまり馴染みのないとこに誘ってしまって」
「いえ、私は構いません。ジローさんと友春には日頃からお世話になっているので。」
夏菜子さんはニコニコと微笑しながら笑ってくれる。「新しい研究会を作るなんて、聞いただけでワクワクしますよ。そう思わない、友春。」
「まあ、そうですが。」
すでに運ばれてきた料理を食べていた宮沢は箸を置き、どこか府に落ちないような顔をしている。
「やっぱり、本当に大丈夫ですかね?棋戦の優勝が目標だなんて。」
今回の研究会の目標は、3人とも将棋界の棋戦のどれか一つに必ず優勝し名を残すー。
上村が研究会を開く目標を神妙に聞いていたふたりだが、夏菜子は前向きで友春はどちらかといえば消極的であった。
もう五十代後半になって何をバカなことを言い出すのか。十代のオレですら今の将棋界のトップレベルについていくのに必死だ。
「確かにオレだって、タイトルを獲得したいですよ。このまま普通の棋士として終わりたくはないです。」
上村の心中を察して、宮沢は慌てて言葉を付け加える。
棋戦の優勝。それがどれだけ大変なことか。
一般の棋戦とはいえ、5度優勝したことがある上村自身も弟子が不可能なことのように感じているかよくわかる。しかし・・・、このまま彼自身も、何も残さず将棋の人生を終える気持ちにもならなかった。
「あれから自分なりに調べたことをまとめてきたから。どうすれば目標を達成できるかということに。」
上村は、脇においたカバンの中から簡単な資料を出して宮沢と光井に配りはじめる。
「これはオレ自身の経験や馴染みの棋士たちにヒアリングして調査した結果をまとめたものだが、7大タイトルのうち名人、王将、王位のタイトルはかなり難しい。なぜならこれらのタイトルはリーグ戦があるからだ。」
たとえば王将のタイトル挑戦を獲得するには7人しか入れない王将リーグに入る必要があり、さらにそのリーグで優勝しなければならない。王位リーグも各組6人の紅組、白組のリーグに入る必要があった。また名人になるには、a級という順位戦の中の5段階で一番上のクラスに入る必要があり、毎年行われる順位戦でクラスを地道に上げる必要がある。したがって今年、名人のタイトルを取ることは不可能である。
じゃあ、どのタイトル、棋戦が一番取りやすいのかー、と宮沢。
「もしかして竜王のタイトルを考えているんじゃないのですか。」
夏菜子がいった。
「この資料で簡単なタイトル挑戦までの流れや対戦相手がかいてありますが、棋王戦だと本戦に出場するまでに1次予選を勝ち抜き、さらに本戦、30人程度のトーナメント方式を制する必要がある。仮に本戦に出場してもランダムに振り分けられるため強い相手と対局する可能性が高く勝ち抜くのは難しいわ。一方、竜王戦は1組から6組まで実力で分けられている。友春は6組だから本戦に出場するには5回勝って組優勝する必要があるけど、もとタイトルホルダーや名人とかと戦うことはない。同じぐらいの棋力の人たちに勝てばいいのよ。」
「確かにオレは、今、竜王戦で3回勝っているからあと2連勝すれば本戦出場だ。」
「その通り。十分にタイトル挑戦、いえ、獲得はできるわ。」
夏菜子は上村が持ってきた資料で竜王戦、6組のトーナメント表を見ながら宮沢の名前を指で指す。そして彼女はちらりと上村のほうを向く。
「でもジローさんは、どうするのですか。ジローさんも竜王戦に焦点を当てるつもりですか。」
「いや、オレは竜王のタイトルは狙わないつもりだ。オレには竜王戦の持ち時間、5時間も将棋を指せる体力がもうないよ。」
通常のタイトル戦の持ち時間でも四苦八苦している上村だ、そんな長い持ち時間、将棋に向き合える集中力、気力が簡単に手に入るわけがない。彼の今の年齢を考えても仕方がないことである。
「オレはタイトル戦はあきらめて、その代わり一般の棋戦、NTK杯のタイトルを取ろうと思う。」
上村は続ける。
「NTK杯は持ち時間が10分程度だ。持ち時間が他のタイトル戦に比べても格段に短い。オレ自身の早指しの性格にもあっている。それとタイトル戦ではないがテレビでも放映されて人気も高い。ここで優勝すればメディアでも取り上げられる。オレの復活戦にはいいかなと思う。」
口には出さないが、内心、宮沢は上村のNTK杯でも優勝は難しいと思う。