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まだ6月だというのに、真夏の蒸し暑さを思い出させるようなぎらついた陽射しが、大阪市の中心街を走る電車を照り付けている。宮沢友春はその電車の一番後ろの車両で腕組みをしながら立ったまま、街の景色を睨みつけるように見ていた。
今日は、どのような将棋を指すべきか。
先手だったら定跡通りの7六歩。
後手だったら一手損角換わりで、先手有利の局面を乱すべき。
宮沢は頭の中で色々な状況を考えていた。彼は今年、十六歳。プロ棋士の養成機関、奨励会を春、卒業したばかりの新人だ。将棋の歴史上、5人目の中学生プロ棋士ということもあり、最初は新聞や雑誌、ネットで話題になった。だがプロになって4局指して、1勝3敗。いい成績とはいえない。同期でプロになった二十歳の安田三吉が好調ということもあり、余計に宮沢の評価は悪い。彼自身は社交的で前向きな性格なので世間の批評など興味はないのだが、負けが多いとさすがに落ち着いてはいられなかった。
俺自身に何か問題があるのか。
居飛車よりも振り飛車を考えていくの一つか。
くそっ・・・。
不安そうな表情を浮かべながら宮沢は、そろそろ着くころかと電車の窓から街のビル群に目を凝らしてた。
朝の8時に自宅のある大阪府豊中市を出て、電車に乗りながら大阪市福島区にある関西将棋会館に行く。将棋会館は赤塗の目立つ建物で、1階は主に売店と喫茶コーナー、2階は将棋道場、3階は棋士控室、4階及び5階は対局室である。時間としては50分ほど。対局は10時から始まり対局室には30分前に入るのが礼儀だ。そう考えるとまだ時間には余裕があった。
宮沢は将棋会館に入ると階段ですぐに2階に上がる。そしてまだ数人の子どもたちしかいない将棋道場で空いている席に腰を降ろし心を鎮めた。今の彼には3階にある棋士控室で他の棋士や取材の記者、将棋ファンと世間話などをし交流を深める余裕もない。
「おお、いい手が入ったな。」
白髪の老人が子ども同士の対局を見ながら言っているのが聞こえてくる。
「先手がかなりいいねえ。」
と隣にいるメガネを掛けた中年の男性も観戦しながら言っている。
どうやら先手の子どものほうが優勢らしい。
好手か・・・。
宮沢はゆっくりと席から立ち上がると彼らが見ている将棋盤のほうに近づく。子ども同士の将棋には興味はないが白髪の老人が言った”いい手”という言葉に反応したのだ。自分も将棋を指すことを仕事にしている以上、子どもが指した好手とはどんなものか。もしかすると・・・、これから指す将棋の参考になるかも。
子どもたちが指している将棋は既に終盤であった。互いの王の囲いが崩れ駒が飛び交っている。先手、後手ともに王の守りが薄いためプロでもプレッシャーがかかる場面である。だが、”なるほど”と宮沢は老人や中年の男性が言っていることがわかった。既に先手の子どものほうが”詰めろ”がかかっているからである。”詰めろ”とは相手が何らかの方法で王手を防がなければ自分の勝ちを意味し、今は後手にその方法がすぐには見つかりそうにない。だがら宮沢もそのまま先手の勝ちかなと一瞬思った、が先手の子どもと後手の子どもの表情の様子を少し見る。
その時何を思ったのか彼は「勝負はまだついていない。」と後手に思わず声を掛けてしまった。「えっ・・・。」観戦してた老人や男性はもちろん、声を掛けられた子どもも目を丸くする。それがいかに予想外の言葉であるかを表現していた。
「あんた、一体・・・?。」と老人がボソリと声を洩らす。
「いや真剣に将棋を指しているのに、つい・・・。声を掛けてしまい申し訳ありません。まあ、気にせず、将棋を続けてください。」
宮沢はそう笑いながら軽い口調でいうと、道場の入口の自動ドアにすぐに向かい出ていった。