ウサギと亀のウサギ側
小さな山を見つめながらなんとか呼吸を整えた俺はすぐにバスルームに向かう。
これくらいの汚れなら洗浄魔法でどうにかなるが、やはり気持ち的にシャワーを浴びたいと思い、魔法でぬるいお湯を出しシャワーのようにして浴びると頭も気分もすっきりした。
汗を流し、体をタオルで拭きながらバスルームから出ればメアリが用意してくれたようで新しい服と下着が置いてあった。
それを脂肪に覆われて可動範囲の狭い身体でなんとか身につけ自室への扉をくぐる。
風呂に入る前にメアリには外すように伝えていたのでそこには誰もおらず、無駄にきらびやかで趣味の悪い家具たちが待ち構えているのみだ。
それにしても、従事が異性というのはなんとも落ち着かない。
この身体の以前の持ち主はゲーム通り加虐的で行為には及んでいなかったが好色家だったため、身の回りの世話をする相手に異性を選んでいたが、今の中身は絶賛思春期男子なので、異性に包み隠さずすべてのお世話をされるなど御免こうむりたい。
しかし、接点がない者を突然侍従にするのも心の安寧的には良くない。
信頼できて、仕事ができ、気が合って心を許せる…欲を言えば自身の身を守る術を身に着けていれば尚よい。
まあ、元が現代人なので簡単なことならもちろん自分でできるため、そんなに急いで従者を決める必要もないだろう。
俺の転生先がご令嬢だったならドレスの着付けなどで大変だろうが、ミラージルは男なので服を着る分には問題ない。
従者についてはゆっくりと優秀な人材を探すことにして、必要最低限は今まで通りメアリにお願いしよう。
そんなことを考えていれば不意にドアをコンコンとノックされる。
「皇太子殿下。お食事がご用意できました」
「ありがとう。今行くよ」
今までは自室に食事を運ばせていたが、これからは父上達と共に摂ることを伝えていたため、呼びに来てくれたようだ。
皇族と言えど家族。忙しくともせめて晩餐は共にいただくというのが本来の我が家の決まりだったが、ミラージルが引きこもり始め、最初のうちは心配し晩餐の際に声をかけさせていた家族も意地でも出てこない長男を、優しく子供に甘い両親は時が来るまで、とそっとしておくようになったのだ。
家族と会話をするのはミラージルの記憶から考えるに実に4年ぶりであり、初対面の俺からすればミラージルの記憶が多少あったとしても家族という実感は沸いてこない。
ウォーキング(散歩)でへとへとになった脚もシャワーと晩餐までの時間休憩をしていたおかげでかろうじて動かせてはいるものの、いかんせん俺の自室から家族が集まる食事の間までの距離が遠いためだんだんと疲れてきた。
しかし、久しぶりに再会する家族をあまり待たせるわけにはいかない為、重たい足をずるずる引き摺りながらやっとの思いで目的地へと到着すれば、使用人がこちらの姿を見て一瞬ギョッとした顔をするも部屋へと続く扉を開けてくれた。
「父上、母上、アルミラ、お待たせして申し訳ありません」
「ああ、久しいなミラージル。ほら、早くお前の席に座りなさい。」
「父上、ありがとうございます。」
「ミラージル…あなたと再び食卓を囲むことができる日を何度夢見たか…顔を見られて嬉しいわ」
「母上、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「……お久しぶりでございます。」
「ああアルミラ、久しぶり」
父上に勧められるまま自分の席に腰を下ろし、各々と挨拶を交わす。
アルミラ。
ゲームには名前すら出てこないので全く知らなかったのだが、ミラージルには2つ歳下の妹がいたのだ。
そもそも、なぜミラージルが引きこもりになったのか。その原因はアルミラが8歳になり、彼女が魔法について学ぶようになったことから始まる。
当時10歳だったミラージルの魔法の実力は決して悪くなかった。魔力量もずば抜けており、センスも天性の才能があったため周りからは神童と周囲から称えられていた。
が、彼は怠け者だった。
一方アルミラは魔力量も皇族らしく多量でセンスもあり、そして何より勤勉だった。
そんなアルミラが魔法の勉強をし始めて一月ほどたったころ、魔法の練習をしていたアルミラは魔力暴走を起こしたのだ。
勤勉な彼女は自身の体調不良を講師に隠し、無理をしたためまだ不安定な魔力に振り回されてしまった。
そこに駆り出されたのがミラージル。彼ならアルミラより魔力量もセンスも上回っていたため、簡単に彼女を鎮静できると思われていた。
しかし、彼は神童と持て囃されることに胡坐をかいていたため、暴走したアルミラを前にして咄嗟に魔法を展開することができなかったのだ。
結果、ミラージルはアルミラの暴走した魔法に吹き飛ばされ気絶。その後知らせを聞き駆け付けた宮廷魔導士によってアルミラは鎮静された。
幸い宮廷魔導士の素早い到着のおかげで周囲への損害も少なく、アルミラは背中の一部に火傷を負い、ミラージルは手足を軽く打撲したのみで、肉体的に後遺症が残るほどの大きな怪我を負うこともなかった。しかし。
“神童と称えられた自分が、魔法を学び始めて間もない妹に負けてしまった“
その事実はミラージルのプライドに大きな傷を残すこととなった。
そもそも、魔力暴走を起こしている状態では自身のコントロールが効かず、あらゆる箍が外れてしまっている状態のため、暴走時の魔法の威力がアルミラの実力だというわけではない。
魔力への自制が効かないので知識はあっても自分では制御できない難易度の魔法が勝手に発動してしまうし、下手したら死んでしまうほどの魔力枯渇を起こすこともあり得る。
実際、魔力暴走時の力は普段の実力の2.5倍にも及ぶという統計が出ているし、更にそのふり幅は保有魔力量にも比例するともいわれている。
そんな暴走状態のアルミラに、胡坐をかいて怠けていたミラージルが叶うはずがなかったのだ。
もちろん、彼が勤勉であり、努力を怠ることがなければ話は違い、鍛錬を積んでいれば暴走時のアルミラを優に抑えられる素質を持っていたからこそ、講師や周囲の人間は彼をその場に呼んだのだ。
しかし実際は吹き飛ばされて気絶するという、言ってしまえば惨敗という結果を残すこととなった。
その事実は瞬く間に社交界へと広まり、今まで神童と称えてくれた者たちは彼を嘲笑し始め、今まで自主鍛錬を行っていると嘘をついて騙していた講師や父や母からどんなに優しい言葉をかけられても、内心では自分に失望しているのではないかと猜疑心が募っていった。
その結果、ミラージルは誰もが自分に失望し、見下し、嘲笑っているのではないかと疑心暗鬼になり、社交界はおろか家族とも会うことができなくなったのだった。
ストレスは食べ物を貪ることで解消しようとするが、それも一時的なもの。
極力他者へとかかわらないようにし、唯一接する侍女への疑心感は相手を支配することで紛らわせた。
常にストレスに苛まれ、教えを説いて学びを与えてくれる他者との関りを絶ったミラージルの心は歪み続け、陰鬱とし、歪んだ彼の人生は当然のごとく転落していく一方であった。