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ヘンダーソンは物思いから醒め、視線を巡らせた。
「……そういえば、キャロライン嬢とクレアの姿をしばらく見ていないね」
フェリックスはハッとした様子で、女性陣が固まっている祭壇の一角に視線を走らせた。
確かにヘンダーソンの言うとおりで、そこにテスター姉妹の姿はない。
なんとなく嫌な予感がして、フェリックスは長椅子から立ち上がった。
「少し席を外す」
歩き出しながら胸ポケットから手紙を取り出し、素早く目を通す。
そこにはクレアによる丸っこいような、間延びした文字でこう綴られていた。
『フェリックス様
大切なお話があります。どうしても今日、ふたりきりで話したいの。
時計塔の最上階までいらしてください。
あなたを大切に想う、クレア・テスターより』
この手紙を渡されてから、どのくらいの時間が経過しているだろう。
会衆席のあいだを抜け、西壁の重厚な扉を開き、狭い通路を奥に向かって進む。ここは幼い頃から礼拝や慈善活動などでちょくちょく訪れていたので、平面図は頭に入っていた。
もともと早足だったが、それもやがて駆け足になる。
角をいくつか曲がると、建物の中でもひときわ薄暗い一角に出た。
鼓膜に圧がかかるような、シンとした静けさが広がっている。中心部よりも気温がぐんと下がったようで、吐く息が白く変わった。
薄暗い階段室のふもとで、上を見上げる。
ところどころに明かり取りの窓が開いているが、正方形の閉鎖的な空間は、天気の悪さもあいまってひどく薄暗い。
階段の一段目に足をかけた時、上のほうから女同士が諍うような声が響いてきた。
声は四方の石壁に反響し、奇妙な余韻を残した。音が籠って、内容はよく聞き取れない。
しかし分かることもある。
あの相手をなじるような、叩きつけるような声音は、間違いなくキャロラインのものだ。
それに対し、初めはボソボソと弱々しく何かを訴えていた、クレアのものらしき声音。それが尻上がりにボリュームを上げていく。
今ではふたりとも、罵り合うような調子になっている。
四面を這う、かね折れ階段を駆け上がり始めると、突然姉妹の口喧嘩がやんで、奇妙な間が空いたあと――ドスン、と遠くのほうで何かが落ちるような音が響いた。
もう階段を三分の二以上は上がっている。だから先ほどの音を遠くに感じたのは、平面的に距離が開いているからではなく、高低差がもたらす錯覚なのかもしれなかった。つまり――……音が発生したのは、位置的には壁のすぐ外側で、遥か下界の地面に、何かが叩きつけられた音なのかも……
シンとした沈黙が上部に広がっているのが、とてつもなく彼を不安にさせた。
フェリックスはキャロラインの名を大声で呼んだ。
しかし返事がない。
キャロラインばかりか、お喋りなクレアも何も返してこない。
……なぜ、誰も答えない?
返ってくるのは不気味な沈黙ばかりだ。
耳鳴りのような眩暈のような、酩酊する感覚を味わいながら、歯を食いしばるようにして階段を駆け上がって行く。
やがて階段を上り切ると、天井部から吊り下げられた大鐘を囲う回廊に出た。
そこに彼女がいた。
「――キャロライン!」
呼びかけても、彼女は答えない。キャロラインはぼんやりと空のほうを眺めて、佇んでいる。
「何があった」
歩み寄り、彼女の腕を掴んで、強制的にこちらを向かせる。
キャロラインは雪のように顔色を白くさせ、目の前にあるフェリックスの顔を、ただぼんやりと眺め返すばかりだった。
「クレアは?」
重ねて尋ねると、キャロラインの瞳に初めて、激しい混乱と怒りと後悔――それらがない交ぜになって凝縮されたような複雑な色が浮かんだ。
フェリックスはこれまでの人生でお目にかかったことがないような、愛憎の果てと呼ぶに相応しい、激しく、熱く、そして深い悲しみを宿した瞳と対面することとなった。
「あの子は……自ら幕を引いたわ」
自ら幕を引いた……?
「なぜ?」
フェリックスの問いは短くまるで責めるような響きであったので、これがキャロラインの神経を逆撫でしたようだった。
「私に訊かないで、知らないわよ! あの子が勝手に落ちたんだから! これですべて終わりよ、もうすべて終わる、すっきりしたわ――これですっきりした――もうあなたに煩わされなくてすむもの! あなたが私を捨てないのなら、私があなたを捨ててやる」
フェリックスも混乱の渦中にあり、彼女の自分勝手な台詞は、容易く彼の理性を破壊する。
「ひとりだけ勝ち逃げしようだなんて、図々しいにもほどがある。――僕たちは必ず結婚しなければならないんだ、たとえ互いを憎んでいようとも」
「何を言っているの、妹が死んだのよ!」
キャロラインの台詞は悲鳴のようで、目に見えない刃で、彼女自身の心をズタズタに切り裂いているかのようだ。
「……君が殺したのか」
自分でもなぜそんな残酷なことを問うたのか分からない。
否定してほしかったのかもしれないし、あるいは――……酷く矛盾しているようだが、いっそ肯定してほかったのかもしれない。
どこまでもどこまでも落ちて行きそうな、深い、深い、穴。
互いの瞳を狂おしいほどに覗き込んでみても、ただ虚しさが増すだけだ。
そして空虚さを味わったぶんだけ、逃しようのない熱が内にこもって燻り続ける。
殺したのかという問いに、キャロラインは傷ついたような目をした。
「……あなたには答えたくない」
キャロラインはフェリックスの手を振りほどき、一目散に階段を駆け下りて行く。
残されたフェリックスは一気に全身から力が抜け、ふたたび歩き出す気力すら失っていた。
ふと気づけば、重い空を背景にして、淡雪が舞い始めていた。
ふわりふわりと舞うそれらは、不思議な浮遊感を漂わせながら、緩やかに落ちて行く。
残酷なほどに儚く美しく、その白さはあまりにも慈悲深い。
しばらくして下のほうが騒がしくなり、
「人が落ちた! 死んでいるぞ!」
たちまち野次馬たちの喧騒が大きくなり、猥雑で面倒な決まりごとめいたやり取りが、しばらくのあいだ下界で続いた。
そうしてさらに時間が経過して、辺りはやっと本来の静けさを取り戻した。