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 フェリックスは礼拝堂の長椅子に腰かけ、友人のヘンダーソンと雑談を始めた。


 ヘンダーソンは仲間内でも良心的であるとして有名な、穏やかな気質の男である。


 会話が途切れたところで、彼はフェリックスの顔を見つめながら考え込んでしまった。


 ――フェリックス・ノウルズといえば、見た目は完璧な貴公子で、昔から婦女子の憧れの的だった。


 もともとのフェリックスの気質は我慢強く、柔和で、優しすぎるほどであったが、今はそれらの当たりの柔らかさはどこかへ消え去り、その代わりに精悍さと寡黙さが強まってしまった。


 いつの日からか、彼があまり笑わなくなったことに、ヘンダーソンは気づいていた。


 フェリックスの瞳は冬の湖のように凍てつき、会話をしていても表情があまり動かない。


 顔が整っているだけに、物思う様子で口を閉ざされると、友人のヘンダーソンですら声をかけるのを躊躇ってしまう。


 結婚がひと月後に迫った最近は、特にその傾向が顕著で、彼の雰囲気はより一層影が色濃くなっているように感じられた。


 ヘンダーソンは躊躇いがちに切り出す。


「あまりこういうことは言いたくないんだが……友人としてひとこと忠告させてもらっていいだろうか」


 フェリックスは訝しげな視線を、隣席のヘンダーソンに向けた。


「あまり気が滅入る話はやめてほしい」


「しかしなぁ……かなり噂になっているんだよ。君の婚約者殿が、実の叔父上と恋仲で、結婚相手が代わるんじゃないかという話なのだが」


 フェリックスの端正なおもてに、初めて嫌悪の感情らしきものが浮かび上がった。


 しかしそれは一瞬のことで、たちまち彼は得意のポーカーフェイスに戻り、その生々しい感情を見事に押し隠してしまった。


「くだらない噂だ。口さがない連中が、ありもしない話をでっち上げているんだろう」


「そうとも言えない。だってそれを言ったのは、彼女に近しい――」


 うっかりと口を滑らせかけたヘンダーソンが、慌てて口籠る。


 そこでフェリックスはピンときて、驚きに目を瞠った。


「まさか……キャロラインの妹がそう言っているのか?」


 そういえば、ヘンダーソンがクレアのことを信奉していた時期があった。


 幸いヘンダーソンはクレアに深く嵌ることもなかったのだが、それでも一時期は彼なりに、盲目的に彼女のことを想っていたようだ。


 あの頃の熱病に侵されたような状態は治まったものの、いまだにクレアへの思慕は抜け切れておらず、なんとかぎりぎりの節度を保ちながらも、彼女のことを気にかけているのだろう。


「実の叔父と姪だぞ――それにミンズ卿は、もう四十に手が届こうかという年齢だ。ありえない」


 フェリックスの強い否定の言葉には、『ありえない』という額面通りの意味よりも、ありえることを前提とした、どうしようもない嫌悪感が込められているかのようだった。


 だからヘンダーソンのほうも少し動揺してしまった。


 クレアがそう言ったからって、フェリックスがはっきりと公明正大に否定してくれたなら――彼はそう考えていたのだ。


 しかしフェリックスの放つ怒りの残滓のようなものが、ヘンダーソンを焦らせ、言わなくてもいいことが口をついて出てしまう。


「けれど法律的に言うなら、叔父と姪の結婚はこの国では合法だよ。……まぁ法律が認めていても、昨今では、近親婚はあまり褒められた行為ではないとされているがね。特に、叔父と姪だなんて……実際にそんなことをすれば、社交界ではいい笑い者になるだろう」


 そもそもの話、キャロラインの父がそんな条件の悪い婚姻を許すとは思えない。十代の未婚の娘に、自らの弟をあてがうなど。


 話すうちにヘンダーソンはリラックスしてきて、内緒話をするように、一層声を潜めた。


「これはまた別のルートから仕入れた話なんだが、実はテスター家は金に困窮していて、テスター伯爵は弟のミンズ卿に金の無心むしんをしているという話だよ。だから……その……言いたくはないが、テスター家の当主は、弟から『娘をくれ』と強く望まれたなら、もしかすると断れないんじゃないかな」


 これを聞いたフェリックスは何事か考え込んでいたのだが、ふと右手を持ち上げ、内ポケットのあたりに触れた。


 ヘンダーソンはそれに気づかず、話題を変える。


「そういえば君の弟のスティーヴィーだが、厩舎番の娘と良い仲だという、おかしな噂があるよ。貴族の子息が馬飼いの娘に恋するだなんて、まったく三文芝居のような話だなぁ」


 話題がガラリと変わったが、『恋の話』という点では共通している。ヘンダーソンはその手の浮ついた話が意外と好きだ。


 フェリックスはこれに皮肉な笑みで答えた。


「まったくだね」


「まぁどうせ、ガセだろうけどさ」


 しかしスティーヴィーの血縁者であるフェリックスは、


「いや。ふたりが顔を寄せ合って話し込んでいるのを、僕もこの目で見た。案外、本当かもしれない」


 などと血迷ったことを言い出した。


 友人はぎょっとしてフェリックスの横顔を眺めたが、なんだか冗談を言っているふうでもない。


 しかしそんな身内の恥を、頓着せずにあっさり口にしてしまうフェリックスの端正な顔を見ていると、ヘンダーソンの胸中に得体の知れない不安が込み上げてきた。


 フェリックスはもともと浅はかさとは無縁な男で、口にする言葉はいつも慎重に選んでいたし、配慮を欠いたことがなかった。


 しかしこのところの彼ときたら、物事に対する気遣いが、何に対しても薄くなっている気がする。


 彼の感情の揺れ、執着――そのすべてがキャロラインに向かっているようで恐ろしい。


 それはきっとキャロラインが彼に激情を向けるからであり、与えられた熱量に釣り合うように返しているうちに、彼はキャロラインに囚われてしまったのではないだろうか。


 それにより彼が本来持ち合わせていたはずの繊細さや、近しい者への情、周囲への関心、気配りなどが、段々と希薄になっているようだった。


 彼はもう無邪気な子供ではないのだと気づき、ヘンダーソンは少し寂しく思った。


 けれどフェリックスは少し陰が増したとて、それで性格が捻くれるわけでもなかったし、陰険な醜い顔つきに変わるでもなかった。


 むしろ彼が新しく身に着けた寡黙さや、少し陰のある佇まいは、より一層女たちを惹きつけるようになっていて、それがまた皮肉な構図を生んでいるのだった。


 彼はどんなに多くの女を惹きつけようとも、あの最悪なイカレ女のキャロラインからは決して離れられない。


 薔薇の棘のように触れれば傷だらけになる、恐ろしくも淫靡な愛の牢獄に、美しい彼はずっと囚われているのだ。



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