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「何をするんだ」
フェリックスは思わずキャロラインの手首を掴んだ。
姉から妹への容赦ない暴力に驚いていた。
動揺していたフェリックスは力加減を誤っていたので、もしかするとキャロラインの手首に痕がついたかもしれない。
先ほどクレアの手首の痣を見て驚いたばかりなのに、自身がこのように女性を力で制しようとしている現状に、フェリックスは内心慄いていた。
……一体、自分はどうしてしまったのだろう? 人として大切にしなければならない部分が、じわじわと浸食されるようにすり減っていくのを感じる。
衝動に流されてはだめだと分かっているのに、キャロラインの狼のような瞳に射抜かれると、どうにも抑えが利かなくなってしまう。
キャロラインはこんな時でも挑発的にフェリックスを見返すし、まるで彼の忍耐を試し続けているかのようだ。
彼女はフェリックスに激情をぶつけてきた。
「私を止めたければ、私の手首を斬り落とすといい! いいえ、それよりも私の首を斬り落としたほうが早いわ! そうしたらあなたと私の腐れ縁も切れるでしょう」
この時フェリックスの胸に芽生えたのは、おそらく殺意だったと思う。
キャロラインの熱は、それを向けられる側であるフェリックスの在り方を根本的に変えてしまった。もともと穏やかだった彼の気質はすっかり歪み、長い年月をかけて別の何かに変化していった。
ままならない感情はここに至り、暴走を始めている。
フェリックスは箍が外れてしまったのを自覚していたし、もうどうしようもないと感じていた。
自分で自分を制御できない――……
「きっと君が死ぬ時が、僕が死ぬ時なんだろう」
フェリックスの声が震えた。
それは絶望にも似ていたが、とてつもなく甘美でもあった。
彼が本気を吐き出したせいか、キャロラインの鉄面皮が崩れ、くしゃりと歪む。彼女の素の部分が無防備に顔を出す。
彼女は絞り出すような声音でこう告げた。
「いいえ、あなたは生きるのよ――私が死んだあと、あなたは私の墓前で世界一憎らしい女のことを考えるの。あなたは私の残像から、永遠に逃げられない。ずっとそうやって、鬱屈したまま生きていくといい」
彼女は妹を乱暴な手つきで引きずるように立たせると、
「馬に乗りなさい!」
厳しい口調で叱責し、人攫いでもここまですまいというような、手荒い扱いをした。
クレアはこれから殺処分を受ける痩せ細った病気の驢馬のように、ヨタヨタと歩かされ、後ろから尻を叩かれる。クレアはメソメソと泣きながら、姉の手で馬の背に押し上げられた。
フェリックスはその場に立ち、姉妹が馬で走り去るのを、言葉もなく見送っていた。
* * *
フェリックス、キャロライン、ともに十九の冬――
ふたりの結婚式がひと月後に迫っていた。
近頃キャロラインの妹クレアは、怪我をすることが多くなり、屋敷に引きこもりがちになっていた。
クレアを信奉する親衛隊の貴族子息たちは、これにずいぶん気を揉んでいたようだが、本人が外に出たがらないのだから手の打ちようもない。
例外としてクレアと会えるのは、婚約者に会うためテスター家を訪ねるフェリックスだけであった。
ある日、フェリックスがテスター家を訪れると、顔を痛々しく腫らしたクレアが、久方ぶりに飼い主に再会した犬のように、真っ直ぐにこちらに駆けて来た。
彼女がフェリックスに抱き着こうとしたところで、姉のキャロラインがいつものように邪魔に入る。
こういう時のキャロラインは悪鬼のごとく怒り狂うものだから、毎度三人はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
婚約者同士、何を語り合うでもなく、この馬鹿馬鹿しい騒ぎにすっかり時間を取られて、何も得るものはなく、面会は終わってしまうのだった。
* * *
四番街は王都でもっとも歴史の古い一角である。
歴史のある建物が並ぶこのエリアは、厳格なほどに見事に調和が取れていて、旧時代の美しさをいまだ保ち続けていた。
四番街の中でもひときわ奥まったエリアに大きな教会がある。
雪が今にも降り出しそうなぐずついた天気の中、周辺地域に住まう上流階級に属する子息子女が、その教会に集まっていた。
建物の四方に配置された塔の頂には、凝った細工の小尖塔がつけられ、荘厳さと優雅さが上手く調和している。
意匠を凝らした石造りの建物は、見る者の目を楽しませるが、実際に建物の中に入ってみると、実は使い勝手がとても悪いと気づく。
隙間風が吹いて芯から凍えるような寒さが身に染みるし、段差の多い変化に富んだ床の造りは、躓かないよう気を使う。
とはいえ、たまに訪れるぶんには問題ない。
教会に上流階級の子息子女が集まっているのは、明日に迫った大々的な慈善活動のための打ち合わせが目的である。慈善活動はこの教会にて行われる予定だ。
目的ははっきりしているものの、集まれば女たちはすぐにお喋りを始めるし、男たちも似たようなもので、親しい者同士固まって、婚約者に対する他愛もない愚痴をこぼしたり、どこへ投資すれば儲かるだとか、このあいだの夜会は段取りが最低だったとか、退屈極まりない会話を飽きもせず続けるのだった。
フェリックスは比較的最後のほうに、教会に到着した。
彼が馬車を降りるやいなや、石階段から小柄な女性が駆け下りて来て、そばにはべった。
――クレアだ。
彼女は彼に飛びつくようにしながら、切羽詰まった口調でこう告げた。
「フェリックス様、これを」
クレアは手紙を彼に押しつけると、手負いの獣のようにビクビクしながら、サッと踵を返し、石段を駆け上がって教会の中へと消えて行った。
彼はクレアから受け取った紙片をポケットにしまい、ゆっくりと石段を上がって行った。