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 ノウルズ家の屋敷を出て森に入り、東に抜ける小道をひたすら進むと、やがて開けた場所に出る。


 海が一望できるその丘は、昔からフェリックスのお気に入りの場所だった。


 その日も彼は、クスノキに背を預けて佇み、イワダレソウが群生する丘陵の起伏や、遥か彼方に見える水平線のきらめきを、ただぼんやりと眺めて時間を潰していた。


 あまりに長いあいだそこにいたせいで、時間の感覚が曖昧になってきた頃、森の奥から足音が近づいて来るのに気づいた。


 意識が現実に引き戻される。


 振り返れば、クレア・テスターがドレスの裾を翻し、必死の形相でこちらに駆けて来るのが見えた。


 フェリックスが驚いて目を瞠ると、クレアはあっという間に距離を詰め、彼の首に飛びついてきた。そして存在を確かめるように、ぎゅうぎゅうとしがみつく。


 彼女の細い腕が、肩が、全身が、細かく震えている。


 あまりに勢い良く飛びつかれたので、フェリックスは反射的に彼女の肩に手を回し、支えるように力を入れた。


「一体、どうしたんだ」


 素直な驚きが声音に滲む。


 誓って言うが、クレアとこのような接触を持ったのは、この時が初めてだった。クレアは庇護欲をくすぐるか細い声で、切々と訴えてくる。


「フェリックス様――ああ、どうかお願いよ――私をあなたのお嫁さんにしてください。それが一番いいの、もう、そうするしかないのよ!」


「落ち着け、何があったんだ。とにかくこんなふうにしがみつかれては、話ができない」


 適切な距離を保つべく、彼女の肩から腕へと手を動かしたところで、クレアがビクリと全身を震わせ身をよじった。


 クレアは俯くようにして、自身の左手首を押さえる。その拍子に彼女のドレスの袖が少し捲れ、その下の皮膚が青紫に変色しているのが見て取れた。


「腕をどうした?」


 フェリックスが眉を顰めて尋ねると、クレアは顔を歪め、さっと袖を引っ張ってその傷を覆い隠してしまう。


「これは……これはなんでもないのす。その……ただ転んで」


「転んだだけで、そんな痕はつかない。誰かに強く掴まれたのか?」


 社交界では、キャロラインが妹に暴力を振るっているという噂が広まっていた。クレアの腕の傷は、それを客観的に証明するようなものである。


「あなたが姉様との婚約をもっと早くに破棄してくれていれば、私はこんなに苦しまずにすんだのに!」


 ふたたびクレアにしがみつかれ、フェリックスは愕然としてしまった。


 クレアは手負いの獣のように追い詰められていて、その佇まいには演技では決して出せない、鬼気迫る何かがあった。そして彼女がこうも苦しんでいるのは、フェリックスが行動しなかったせいだという。


 様々な感情が溢れてきた。


 フェリックスが息苦しさを味わっていると、荒々しい勢いで、丘の頂に飛び出して来た影があった。


 白毛に灰斑のある馬を勇ましく駆るのは、誰あろうキャロラインである。


 彼女の黒髪は風に煽られ、旗のように揺らめいていた。


 キャロラインの瞳は爛々と強く輝き、矢のような鋭さで、抱き合う男女を眺めおろしている。


 キャロラインは勢い良く馬の背から飛び下りると、大股に距離を詰めて来た。


 そしてふたりが抱き合っているのもお構いなしで、フェリックスの肩に縋りつく。鬼気迫る表情。


「どうして分からないの、あなたたちは結ばれるべきではない! あなたを殺してやりたいわ! それとも、そう――いっそこの子の首を斬り落としてやったら、あなたの目も覚めるのかしら!」


 フェリックスは胸の内に長年蓄積され続けた静かなる怒りが、狂おしく噴き上げてくるのを感じた。


 もう耐えられない――彼女に振り回されたくない、もう耐えられないと思った。


「君はいつだって常軌を逸している」


「誰のせいだと思っているの……!」


 押し殺した、彼女の怒りの声。


 ――馬鹿な、君に怒る権利などない。ありはしない!


「すべて僕のせいだって言うのか?」


 どうかしている。誰もかれも一方的にフェリックスを責める。


 彼女の叔父も、彼女の妹も、彼女自身も!


 家同士の馬鹿げた取り決めも、昨日起きた些細なツイてない出来事も、風が強く吹いたのも、海が青いのも、やがて夜が来るのも、全部が全部、フェリックス・ノウルズのせいだと言わんばかりに。


 君達は一体どうなれば満足するんだ? このもつれた問題を解決する気など、誰にもないんじゃないか? 解決する気もないのに、文句ばかり言わないでくれ!


「君に非がないとでも?」


 ぞっとするような冷たい声が唇から零れ出た。


 彼女が傷ついたような顔をするものだから、焼けつくような怒りを覚える。


 自分勝手なことばかりするくせに、そうやって弱々しい顔を見せるのはやめろよ。


 もうたくさんだ。もう――


「君さえいなければ」


 その言葉は喉を、その奥の胸を焼き焦がすかのように熱く、ドロドロしていた。


 至近距離で見つめたキャロラインの瞳が宝石のように輝いていて、覗き込んでいるだけで、激情に支配されて気が狂いそうになる。


「ええ、私も同感よ――あなたさえいなければ」


 火花が散る。


 狂おしいほどに強く、熱い。


 こんな時でもキャロラインは堂々としていて、その態度がフェリックスの腹の底にいる獣を暴れさせる。


 一方のクレアはこんな状況においてもグズグズと泣きぐずり、フェリックスの肩に額をこすりつけるようにして、細い声で弱音を吐いた。


「お姉様、彼を私に頂戴……お願い、もうこんな生活に耐えられないの」


 これを耳にした瞬間、姉のキャロラインは驚くべき行動に出た。


 弱り切っている妹の襟首を荒々しく掴むと、引きずり倒すように地面に尻餅をつかせたのだ。


 それは弱った家畜を無慈悲に鞭打つような、まるで容赦のない仕打ちだった。



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