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フェリックスがキャロラインとの婚約を破棄し、妹のクレアに乗り換えるらしいという噂が流れ始めると、彼の周辺で奇妙な出来事が起こり始めた。
初めにフェリックスが知覚したのは、自身に向けられる、纏わりつくような視線だった。
その気配はなんとも不思議なもので、肺に送り込まれる空気を少しずつ、少しずつ絞られ減らされていくかのような、得体の知れない息苦しさを彼に与えた。
生殺与奪の権利を見知らぬ誰かに握られている――そんな気がするからだろうか。
ねっとりとした監視の視線は、忍び寄る影のように、気づけばすぐ後ろに迫っていた。
ある夜、気分転換も兼ねて通りを歩いていると、誰かが悪意を持って追いかけてくるような嫌な気配を感じ取った。
振り返って目を凝らしてみても、暗がりに誰かが佇んでいるような気がするのだが、あまりに暗くて判然としない。
けれど追ってくる足音は複数あるような気がする。
しかし闇がすべての感覚を狂わせる。
その時はちょうど警ら隊が向こうからやって来たので、ことなきを得た。
安全を確保したフェリックスがふたたび後ろを振り返ってみた時には、追跡者の嫌な気配は影も形もなくなっていた。
それから接触は次第にエスカレートしていく。
馬車に轢かれかけたり、集合住宅のどこかの窓から植木鉢が落ちてきたりと、事故のようでいて、状況が明らかに不自然なキナ臭い出来事が、彼の周辺で立て続けに起こった。
時を同じくして、キャロラインの妹が、熱烈な信奉者達に取り囲まれる光景が散見されるようになる。
クレアのそばには、彼女に熱を上げた貴族子息数名が、恥も外聞もなくベタベタと常時寄り添うようになっていた。
考えてみればクレアという娘は、見目麗しく、人懐こく、菫の花のように可憐である。
そして群がるあの男たちにとって重要なのは、魅力的なクレアには、『婚約者がいない』という点なのだった。
十七歳になった彼女は今でも『皆のクレア』であり続け、いまだ誰のものにもなっていない。
フェリックス自身は彼女の取り巻きに加わってはいなかったのに、それでもふたりが特別な間柄であるという噂は消えなかった。
クレア絡みで、フェリックスは周囲からの嫉妬に晒されることもあった。
その反対に、「さっさとキャロラインと別れて、クレアを幸せにしてやれよ」という、ただひたすら気持ちの悪い、生温い視線を向けられることもあった。
これらの交錯する人間関係について、フェリックス自身は無関心ともいえる態度を貫いていたのだが、彼の与り知らぬところで、歪がすべてキャロラインへと向かっていたらしい。
クレアの親衛隊を務める貴族子息たちは、美しく清純な妹を虐める極悪非道な姉のキャロラインを、蛇蝎のごとく嫌っていた。キャロラインを憎々しげに睨みつける名家の子息が、この頃幾人も存在したのだ。
キャロラインはキャロラインで、持てる熱意の大半をフェリックスとクレアに注ぎ切ってしまい、それでもうあとは出がらしとでもいうのか、ほかから向けられる視線にはどうにも無頓着であった。
それでも何度か親衛隊から喧嘩を売られ、一触即発の事態に晒され始めると、当代きっての悪女もさすがに身の危険を感じたとみえる。彼女はもともと取り組んでいた剣の鍛錬を、よりいっそう真剣に行うようになった。
フェリックスからすれば、そのように自衛の手段を取るならば、当たり障りのない淑女のような態度を取ればいいのにと思うのだ。
キャロラインの身勝手さを心の中で責めていると、どういう訳か、腹の底に手を突っ込まれてかき混ぜられているかのような、正体のよく分からない不快感が込み上げてくる。
……彼女はこの馬鹿げたチキンレースを、一体いつまで続けるつもりなのだろう?
しかしこのように歪な関係が長く続くはずもない。
グラスに注がれた水がもう溢れ出しそうなほどに溜まっているのに、各々の身勝手な行動で、さらに上から新たな水が注がれ続ける。表面張力でかろうじて留まっている水が、いつ決壊してグラスの外に流れ出してもおかしくない。
ある日とうとうこの不毛なゲームに疲弊したのか、キャロラインが狂った役割から外れて、フェリックスに詰め寄って来た。
「お願いだから、妹のことは諦めて。あなたが想いを断ち切らないと、もう行くところまで行ってしまう」
初めは冷めた瞳でキャロラインを見おろしていたフェリックスであったが、この勝手な物言いを聞き、腹の底で眠っていた獰猛な獣が揺り起こされつつあるのを感じた。
このままでは衝動に任せて、すべてを滅茶苦茶に壊してしまいそうだ。
現に、腹に住まう獣は暴れたがっている。
もう十分に我慢した。もういいだろう。
誰もかれも勝手ばかり言う――こちらの気も知らずに!
フェリックスは憎悪に駆られたようにキャロラインの腕を取り、叩きつけるように告げた。
「テスター家とノウルズ家の婚姻は、絶対になくならない! 君と僕の関係が断ち切られることはないのだろう――誰が、何を、望んだとしても――……僕は、君が憎い」
近くでこのやり取りを偶然見聞きしていたフェリックスの友人は、常ならざる彼の様子に酷く驚いた。
フェリックスという男は、寡黙で、理知的で、何があっても感情に任せて声を荒げることなどないと思い込んでいたからだ。
変な話だが、彼も生身の人間だったのだと、当たり前の事実に気づかされた。
そして友人はこう考えた――フェリックスはキャロラインを憎んでいる。
そして彼は心の底ではクレアのことを狂おしいほどに求めているのに、キャロラインが生きている限り、彼の想いが叶うことはない。
そしてフェリックスが生きている限り、このイカレた火の玉のような女との縁は切れない。
フェリックスは絶望し、切羽詰まって、狂い、とうとう常軌を逸してしまった。
このままで済むとは思えない……友人はそんな危惧を抱いた。