最終話
丘に着くまでが、キャロラインの人生の中で、もっとも長い待ちの時間となった。
――フェリックスの腕に抱かれていると、これ以上の幸せはないと実感することができた。
けれどやはり馬車の中は窮屈で、早くあの丘に行きたいと、強く願ってしまう。
あの丘には素敵な思い出がある。
彼と初めて心が通じたように笑い合った、あの場所……。
そうそう、彼は甘いクッキーを食べさせてくれたっけ。あれは小さくて、良い香りがして、とても美味しかった。
空に放り投げて、口に入れるという、行儀の悪い遊びも教えてくれた。
幸せな思い出に浸るうちに、意識が途切れていたのだろうか。
潮気の混ざった風が頬を撫でる心地がして、キャロラインは瞼を持ち上げた。
いつの間にか、あの素晴らしい丘の上に辿り着いていた。
フェリックスはキャロラインを抱いたまま、途方に暮れたようにしている。
彼女が目を覚ましたのに気づいた彼は、腕に力を入れた。
彼が『どうする?』と問うように覗き込んできたので、
「座って、私を抱っこして」
とねだってみる。
優しい彼は言うとおりにしてくれた。
天気の良い日だった――……長い冬が終わり、春の訪れを感じさせるような。
青い空を背景に、白い雲がのどかに浮かんでいる。特別柔らかく焼き上げたパンのように見えた。
とても気持ちが良かった。
風でイワダレソウが揺れ、サワサワと素敵な音がする。
キャロラインは瞳を細め、彼の腕に抱かれながら、じっと目の前の景色を眺めていた。
海がどこまでも続いているかのように広がっていて、水平線がキラキラと輝いている。
何度か見た眺めだけれど、今日見た景色が一番綺麗だと思った。
「ねぇ……私、今まで生きてきて、今この瞬間が一番幸せ」
そう告げると、彼は慰めるようにキャロラインの背中を優しく撫で、
「僕もだ」
ぽつりと呟きを漏らした。
白い雲が風に吹かれ、青空を優雅に横切って行く。
それを眩しげに眺めながら、キャロラインは口を開いた。
「……生まれ変わったら、私は鳥になりたいな。白い鳥になって、自由に空を飛び回りたい」
するとフェリックスが苦しそうに顔を歪めた。
「生まれ変わったらって……今はまだ人間じゃないか。おかしなことを言わないでくれ」
「たとえば、の話よ。来世があると思えたら、素敵じゃない?」
キャロラインが殊更軽い口調で言うと、フェリックスは笑う元気もないようだった。
彼女を拘束する腕が一層強くなる。痛くはないけれど、彼が彼女を逃すまいとしているのが伝わってきて、キャロラインは切なくなった。
「――君が鳥になるのなら、僕も鳥に生まれ変わるよ」
「あなたは人間でいなさいよ」キャロラインは軽く笑い飛ばす。「私は鳥になって大空を飛び回り、きっとあなたのもとへ戻って来るから」
彼がキャロラインの頭を抱え込んだ。
彼女の額に生暖かいものが落ちてきたので、彼は泣いているのかもしれないと思ったが、顔を上げる元気もなかった。
「今まで言ったことがなかったけれど、いい機会だから、言っておこうかな……実はね、私はあなたを愛しているの」
思い切ってそう告げると、フェリックスが微かに笑った気配がした。
「とっくに知っているよ。そして良い機会だから言っておく……君は気づいているはずだけれど、僕は君を愛している」
「気づいているはず」と言われ、驚いてしまった。
彼から愛の告白を受けたのは、これが初めてだったからだ。
「……いつから?」
そう尋ねれば、彼からは、
「よく分からない」
という答えが返ってきた。
「だって初めは、私のことが嫌いだったでしょう?」
「どうだろう……君を初めて見た時に、強く感情を揺さぶられた。もしかすると、一目惚れだったのかもしれないね」
それを聞いたキャロラインは、『さすがにそれはないな』と思った。
けれど追求しないであげた。
キャロラインはこんなふうに、やる気になれば、賢い妻にだってなれるのだ。
フェリックスが続ける。
「君が剣の鍛錬をしているのを見た時、腕の中に抱え込んだ君は、たとえようもなく魅力的だった。……僕は頭がくらくらして、魔法の薬を飲まされたような心地がした。君の首筋に顔を埋めたいような欲求が込み上げてきて、それを抑えるのに必死だった。あれよりずっと前から君のことが気になっていたけれど、君を強く求めるようになったのは、たぶんあの時が最初だった」
まるで答え合わせをしているみたい。
彼の瞳にあの時熱が込められているような気がしたのは、勘違いではなかったのだ。
一方のフェリックスは、ずっとずっと苦しい恋をしていた。
彼女はいつも彼を拒絶したし、こちらが真剣に歩み寄っても、いつだって容赦なく弾かれてしまう。
彼のほうも思春期で、好きな子に拒絶されるのは、とてもつらいことだった。
苦しくて、苦しくて、君さえいなければ、こんなに苦しまずにすんだと、彼女を責めたりもした。
いっそ身を引こうと何度も思ったけれど、彼女はフェリックスを受け入れはしないくせに、いつだって彼に対して本気でぶつかってくるから、諦めることもできなくて。
手を伸ばしたいのに、許されない。
そばにいるのに、とても遠くて。
不意に近寄れたと思ったら、次の瞬間、すべてなかったことにされる。
期待したぶんだけ、フェリックスは絶望を味わうことになり、胸を締めつけられ、苦しみに苛まれた。
それでも彼女の瞳はいつだって真っ直ぐに、情熱的に彼に注がれるのだ。
それはまるで甘美なる呪いのよう。
フェリックスは彼女に堕ちていった。
どこまでも。どこまでも。
息もできないくらいに。
……気持ちが通じるまで、ずいぶん時間がかかったなとフェリックスは思う。
キャロラインが笑みを零した。
「白状するとねぇ……私はたぶん一目惚れだったと思う。あなたの評判は上々で、出会う前からきっといい人なんだろうと思っていたの。けれどあなたが扉を開けた瞬間、私が感じたのは、衝撃だった。頭をハンマーで殴られたみたいな、それはそれは激しい衝撃でね――あなたは清廉で美しく、瞳が澄んでいて――こんなに綺麗な人を見たのは、私、生まれて初めてだと思った。私はあなたに幸せになってほしかった。だから悪い態度も取ったし、あなたに嫌な思いをさせてしまったかもしれない。……ごめんなさいと言いたいけれど、謝らないでおこうかな」
「どうして?」
キャロラインが小さく笑う。もう大声で笑う元気も残っていなかった。
「たくさんの憎まれ口をきいてきたから、今は前向きな言葉を口にしたいと思ったの。――あなたのことを愛している――愛している――深く、深く、愛している。あなたなしではいられない。あなたが幸せになるといい。明日も、明後日も、あなたが笑っていると、私は嬉しい。……こんなお願いをしたら迷惑かな……これから毎日、日々起こったことを面白可笑しく、私に話して聞かせてくれる?」
彼は小さく頷き、了承の意を示した。
今日、フェリックスは新妻にお願いされてばかりだったけれど、彼はすべてを受け入れた。
「誓うよ。きっとそうする。僕は毎日笑顔で暮らし、日々起こった出来事を君に話すよ」
キャロラインの体から徐々に力が抜けていく。
細々としていた呼吸が止まり、彼女の体から生命のきざしのようなものがなくなり、熱が抜けて、段々と冷たくなっていくのをフェリックスは感じていた。
彼女の体を抱えたままで。
何度もキャロラインの名前を呼ぶ。
愛しい人の名前を。
何度も、何度も。
愛を込めて、何度も呼び続けた。
* * *
一年後――
フェリックスは丘の上のある墓石の前に座り、いつものように花を手向けた。
そして昨日起きた些細な出来事や、天気が良いことや、風の匂いについて――それからキャロラインと出会った頃の思い出話などを、ポツリポツリと語って聞かせた。
フェリックスの瞳は穏やかで、晴れた日の海の色をしている。
彼は愛しい人が目の前に存在しているかのように、穏やかに優しく、愛おしげに言葉を紡ぐのだった。
そうこうするうちに白い綺麗な小鳥がふわりと舞い降りて来て、墓石の上でちょこんと羽を休めた。
フェリックスは驚いたようにその小鳥を見つめていた。
やがてそうっとポケットに手を入れると、中から包みにくるまれたクッキーを取り出した。
クッキーを小さく砕いて墓石の上に乗せてやると、白い鳥は小首を傾げてそれを啄み始める。
フェリックスの口元に笑みが浮かんだ。
――生まれ変わったら、私は鳥になりたいな。白い鳥になって、自由に空を飛び回りたい――
キャロラインの言葉が耳に蘇った。
――私は鳥になって大空を飛び回り、きっとあなたのもとへ戻って来るから――
フェリックスはふたたび口を開き、今度は鳥に向かって、他愛もない出来事を語り始めた。
彼の声は相変わらず穏やかな調子であったが、微かに震えているようだった。
空は抜けるように青く、
遠くで潮騒が響いている。
今この瞬間が一番幸せ。そう言った彼女の声が、くっきりと蘇る。
フェリックスの胸が甘美に痛んだ。
ああ、本当にそうだね。
あの日、君と共にこの美しい景色を見た――これ以上の幸福はないだろう。
――キャロライン、愛している。
深く深く
君を愛している。
(終)




