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姉はもういない  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
【 裏 】

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最終話


 丘に着くまでが、キャロラインの人生の中で、もっとも長い待ちの時間となった。


 ――フェリックスの腕に抱かれていると、これ以上の幸せはないと実感することができた。


 けれどやはり馬車の中は窮屈で、早くあの丘に行きたいと、強く願ってしまう。


 あの丘には素敵な思い出がある。


 彼と初めて心が通じたように笑い合った、あの場所……。


 そうそう、彼は甘いクッキーを食べさせてくれたっけ。あれは小さくて、良い香りがして、とても美味しかった。


 空に放り投げて、口に入れるという、行儀の悪い遊びも教えてくれた。


 幸せな思い出に浸るうちに、意識が途切れていたのだろうか。


 潮気の混ざった風が頬を撫でる心地がして、キャロラインは瞼を持ち上げた。


 いつの間にか、あの素晴らしい丘の上に辿り着いていた。


 フェリックスはキャロラインを抱いたまま、途方に暮れたようにしている。


 彼女が目を覚ましたのに気づいた彼は、腕に力を入れた。


 彼が『どうする?』と問うように覗き込んできたので、


「座って、私を抱っこして」


 とねだってみる。


 優しい彼は言うとおりにしてくれた。


 天気の良い日だった――……長い冬が終わり、春の訪れを感じさせるような。


 青い空を背景に、白い雲がのどかに浮かんでいる。特別柔らかく焼き上げたパンのように見えた。


 とても気持ちが良かった。


 風でイワダレソウが揺れ、サワサワと素敵な音がする。


 キャロラインは瞳を細め、彼の腕に抱かれながら、じっと目の前の景色を眺めていた。


 海がどこまでも続いているかのように広がっていて、水平線がキラキラと輝いている。


 何度か見た眺めだけれど、今日見た景色が一番綺麗だと思った。


「ねぇ……私、今まで生きてきて、今この瞬間が一番幸せ」


 そう告げると、彼は慰めるようにキャロラインの背中を優しく撫で、


「僕もだ」


 ぽつりと呟きを漏らした。


 白い雲が風に吹かれ、青空を優雅に横切って行く。


 それを眩しげに眺めながら、キャロラインは口を開いた。


「……生まれ変わったら、私は鳥になりたいな。白い鳥になって、自由に空を飛び回りたい」


 するとフェリックスが苦しそうに顔を歪めた。


「生まれ変わったらって……今はまだ人間じゃないか。おかしなことを言わないでくれ」


「たとえば、の話よ。来世があると思えたら、素敵じゃない?」


 キャロラインが殊更軽い口調で言うと、フェリックスは笑う元気もないようだった。


 彼女を拘束する腕が一層強くなる。痛くはないけれど、彼が彼女を逃すまいとしているのが伝わってきて、キャロラインは切なくなった。


「――君が鳥になるのなら、僕も鳥に生まれ変わるよ」


「あなたは人間でいなさいよ」キャロラインは軽く笑い飛ばす。「私は鳥になって大空を飛び回り、きっとあなたのもとへ戻って来るから」


 彼がキャロラインの頭を抱え込んだ。


 彼女の額に生暖かいものが落ちてきたので、彼は泣いているのかもしれないと思ったが、顔を上げる元気もなかった。


「今まで言ったことがなかったけれど、いい機会だから、言っておこうかな……実はね、私はあなたを愛しているの」


 思い切ってそう告げると、フェリックスが微かに笑った気配がした。


「とっくに知っているよ。そして良い機会だから言っておく……君は気づいているはずだけれど、僕は君を愛している」


「気づいているはず」と言われ、驚いてしまった。


 彼から愛の告白を受けたのは、これが初めてだったからだ。


「……いつから?」


 そう尋ねれば、彼からは、


「よく分からない」


 という答えが返ってきた。


「だって初めは、私のことが嫌いだったでしょう?」


「どうだろう……君を初めて見た時に、強く感情を揺さぶられた。もしかすると、一目惚れだったのかもしれないね」


 それを聞いたキャロラインは、『さすがにそれはないな』と思った。


 けれど追求しないであげた。


 キャロラインはこんなふうに、やる気になれば、賢い妻にだってなれるのだ。


 フェリックスが続ける。


「君が剣の鍛錬をしているのを見た時、腕の中に抱え込んだ君は、たとえようもなく魅力的だった。……僕は頭がくらくらして、魔法の薬を飲まされたような心地がした。君の首筋に顔を埋めたいような欲求が込み上げてきて、それを抑えるのに必死だった。あれよりずっと前から君のことが気になっていたけれど、君を強く求めるようになったのは、たぶんあの時が最初だった」


 まるで答え合わせをしているみたい。


 彼の瞳にあの時熱が込められているような気がしたのは、勘違いではなかったのだ。


 一方のフェリックスは、ずっとずっと苦しい恋をしていた。


 彼女はいつも彼を拒絶したし、こちらが真剣に歩み寄っても、いつだって容赦なく弾かれてしまう。


 彼のほうも思春期で、好きな子に拒絶されるのは、とてもつらいことだった。


 苦しくて、苦しくて、君さえいなければ、こんなに苦しまずにすんだと、彼女を責めたりもした。


 いっそ身を引こうと何度も思ったけれど、彼女はフェリックスを受け入れはしないくせに、いつだって彼に対して本気でぶつかってくるから、諦めることもできなくて。


 手を伸ばしたいのに、許されない。


 そばにいるのに、とても遠くて。


 不意に近寄れたと思ったら、次の瞬間、すべてなかったことにされる。


 期待したぶんだけ、フェリックスは絶望を味わうことになり、胸を締めつけられ、苦しみにさいなまれた。


 それでも彼女の瞳はいつだって真っ直ぐに、情熱的に彼に注がれるのだ。


 それはまるで甘美なる呪いのよう。


 フェリックスは彼女に堕ちていった。


 どこまでも。どこまでも。


 息もできないくらいに。


 ……気持ちが通じるまで、ずいぶん時間がかかったなとフェリックスは思う。


 キャロラインが笑みを零した。


「白状するとねぇ……私はたぶん一目惚れだったと思う。あなたの評判は上々で、出会う前からきっといい人なんだろうと思っていたの。けれどあなたが扉を開けた瞬間、私が感じたのは、衝撃だった。頭をハンマーで殴られたみたいな、それはそれは激しい衝撃でね――あなたは清廉で美しく、瞳が澄んでいて――こんなに綺麗な人を見たのは、私、生まれて初めてだと思った。私はあなたに幸せになってほしかった。だから悪い態度も取ったし、あなたに嫌な思いをさせてしまったかもしれない。……ごめんなさいと言いたいけれど、謝らないでおこうかな」


「どうして?」


 キャロラインが小さく笑う。もう大声で笑う元気も残っていなかった。


「たくさんの憎まれ口をきいてきたから、今は前向きな言葉を口にしたいと思ったの。――あなたのことを愛している――愛している――深く、深く、愛している。あなたなしではいられない。あなたが幸せになるといい。明日も、明後日も、あなたが笑っていると、私は嬉しい。……こんなお願いをしたら迷惑かな……これから毎日、日々起こったことを面白可笑しく、私に話して聞かせてくれる?」


 彼は小さく頷き、了承の意を示した。


 今日、フェリックスは新妻にお願いされてばかりだったけれど、彼はすべてを受け入れた。


「誓うよ。きっとそうする。僕は毎日笑顔で暮らし、日々起こった出来事を君に話すよ」


 キャロラインの体から徐々に力が抜けていく。


 細々としていた呼吸が止まり、彼女の体から生命のきざしのようなものがなくなり、熱が抜けて、段々と冷たくなっていくのをフェリックスは感じていた。


 彼女の体を抱えたままで。


 何度もキャロラインの名前を呼ぶ。


 愛しい人の名前を。


 何度も、何度も。


 愛を込めて、何度も呼び続けた。




   * * *




 一年後――


 フェリックスは丘の上のある墓石の前に座り、いつものように花を手向けた。


 そして昨日起きた些細な出来事や、天気が良いことや、風の匂いについて――それからキャロラインと出会った頃の思い出話などを、ポツリポツリと語って聞かせた。


 フェリックスの瞳は穏やかで、晴れた日の海の色をしている。


 彼は愛しい人が目の前に存在しているかのように、穏やかに優しく、愛おしげに言葉を紡ぐのだった。


 そうこうするうちに白い綺麗な小鳥がふわりと舞い降りて来て、墓石の上でちょこんと羽を休めた。


 フェリックスは驚いたようにその小鳥を見つめていた。


 やがてそうっとポケットに手を入れると、中から包みにくるまれたクッキーを取り出した。


 クッキーを小さく砕いて墓石の上に乗せてやると、白い鳥は小首を傾げてそれを啄み始める。


 フェリックスの口元に笑みが浮かんだ。


 ――生まれ変わったら、私は鳥になりたいな。白い鳥になって、自由に空を飛び回りたい――


 キャロラインの言葉が耳に蘇った。


 ――私は鳥になって大空を飛び回り、きっとあなたのもとへ戻って来るから――


 フェリックスはふたたび口を開き、今度は鳥に向かって、他愛もない出来事を語り始めた。


 彼の声は相変わらず穏やかな調子であったが、微かに震えているようだった。


 空は抜けるように青く、


 遠くで潮騒が響いている。


 今この瞬間が一番幸せ。そう言った彼女の声が、くっきりと蘇る。


 フェリックスの胸が甘美に痛んだ。


 ああ、本当にそうだね。


 あの日、君と共にこの美しい景色を見た――これ以上の幸福はないだろう。


 ――キャロライン、愛している。


 深く深く


 君を愛している。





  (終)





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