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姉はもういない  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
【 裏 】

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24


 さて、この時――ミンズ邸の厩舎に、フェリックスの弟スティーヴィーの姿があった。


 彼は用心深い足取りで、キャロラインの愛馬に近づいて行く。


 スティーヴィーの手には注射器が握られていた。彼は馬に蹴られないよう、慎重に正面から接近し、馬の首を撫で、上手く横へ回り込んだ。


 後ろに行きすぎないよう気をつけながら、美しく引き締まった馬の尻に注射針を刺す。


 キャロラインの愛馬は、針が刺さった瞬間ビクリと尻尾を揺らした。しかしそのまま大人しく薬液を受け入れた。


 スティーヴィーは注射針を引き抜き、そっと馬から離れ、厩舎から忍び出た。


 注射器に入っていた薬液は、骨折した馬を安楽死させるためのものだ。その濃度を半分以下に薄めてある。


 スティーヴィーは先日、このやり方を厩舎番の娘から聞き出していた。彼にしては上手く脳味噌を使って。


 彼は厩舎番の娘に優しい言葉をかけたあと、


「実はちょっと教えてほしいことがあって」


 早速本題に入った。


「先日、友人の馬が急に暴れ出したのだけれど、誰かに薬を打たれた可能性はないだろうか」


 スティーヴィーは架空の事件をでっち上げ、友人のために事故の真相を探っているていを装った。それで人の良い厩舎番の娘はコロリと騙されてしまった。


 娘はスティーヴィーに協力できることを喜び、問われた内容に真摯に答えた。


「馬を凶暴にさせる薬は、いくつかあると思います」


「それは一般の人でも手に入る?」


「そうですね、たとえば……骨折した馬を安楽死させる薬があるのですが、希釈する分量を間違えると、そのような状態に陥ることがあるのです」


「どういうこと? 殺すための薬なのに、凶暴になるのか?」


 スティーヴィーが驚いて問うと、娘が神妙に頷く。


「これからお話するのは、以前私が父のもとで、安楽死の手伝いをした際に起きたことです。私は父から薬液の希釈を頼まれ、準備して父に渡しました。その後父が馬に注射しましたところ、本来ならばすぐに息を引き取るはずなのに、しばらくたってもケロリとしていたのです。父は不思議そうに私を見つめ、『ちゃんと正しい量で薄めたのか』と尋ねてきましたので、私が分量の説明をしましたら、父は『それでは半分以下の濃度だ』と言いました。けれどここからまたさらに半量、注射で足す気にもならず、今日はこのままにしようと決めて、私たちはその場を離れました。すると半時ばかり経過した頃でしょうか……厩舎のほうからバタバタと騒がしい物音が響いてきました。それはとても恐ろしく、嵐で家の壁が吹き飛ばされたかのような騒ぎでした。私たちが慌てて駆けつけますと、例の馬が前脚を頭より高い位置に上げては下ろし、柵に体当たりして、ジタバタジタバタと狂ったように飛び跳ねていました。私達は血の気を引かせてそれを眺めていたのですが、その異常な発作はしばらくのあいだ休むことなく続き、その後馬はパタリと息を引き取ってしまったのです」


 その話を聞いた時、スティーヴィーは『これだ!』と思った。興奮を隠せず、前のめりになって娘の細い肩を掴む。


「友人の馬も、同じ薬を使われたのだと思う! 犯人を突き止めるために必要なので、その時の薬液の分量を詳しく教えてくれないか」


 娘は学がなくても頭はしっかりしていたので、配合量を正確に記憶していた。


 そして安楽死用の薬は、ノウルズ家の厩舎にストックがある。その保管場所について尋ね、実際にそこへ案内をしてもらった。


 厩舎番の娘は段々と、『なんだかおかしなことを訊かれている?』という顔つきに変わっていったのだが、途中で「もうこれ以上は話したくない」とは言い出せなくなっていた。


 どちらにせよ、雇い主の御子息から頼まれたことを拒否できるはずもなく……スティーヴィーに求められるまま、問われたことにすべて答えたのだった。


 ――そして、今朝。


 スティーヴィーは注射器を持って、まずテスター家にやって来た。


 できればすぐにでもこれを試したかったのだが、普通に考えて、花嫁が結婚式当日に、単身馬で出かけるような事態にはならないだろうと理解してもいた。


 この方法を知るのがもっと早ければ、事前に計画を練って、式前にあの女を葬ってやれたのに……スティーヴィーは歯噛みしたい気分だった。


 馬車の中でテスター邸を睨みつけていると、なんとキャロライン本人が現れた!


 この強い思いが、ツキを引き寄せたのだろうか? 白いウェディングドレスを身に纏ったキャロラインが、馬を駆ってテスター家から飛び出して来たのだ。


 一瞬、呆気に取られてそれを眺めていたスティーヴィーは、御者に向かって慌てて怒鳴った。


「――あの馬を追いかけろ!」


 身軽な馬と、あれこれ付属品のついた馬車ではスピードが違うので、たちまち振り切られてしまった。


 しかし方角的に、あの女がミンズ邸に向かったことだけは分かった。


 あの狡猾な女狐は、叔父との肉体関係を清算せずに、愛人に会いに行くつもりなのだろう。結婚式前に、とんだ恥知らずだ。


 スティーヴィーは義憤に駆られ、湧き上がってくる怒りを抑えることができなかった。


 ――これは天の導きに違いない。


 今日、朝早くにテスター家に寄ってみようと思いついたのは、神がそうさせたに違いないのだ。


 キャロラインがふたたび馬に乗った時――それがあの女の最期になるだろう。


 花嫁が式場に辿り着くことはない。


 そしてスティーヴィーはおおむね計画どおりにやり遂げた。




   * * *




 ミンズ邸を飛び出し、愛馬にまたがったキャロラインは、頭が薄ら重いことに気づいた。


 ……よくよく考えてみれば、頬と背中に怪我を負ったのはつい昨日のことだ。熱が出ているのかもしれない。


 極度の興奮状態から脱したせいか、すっかり身体がだるくなっている。汗が噴き出してきた。


 森の小道に差しかかった時、突如異変が起こった。なんの前触れもなく、馬が脚をもつれさせ、腰を抜かしたようにへたり込みそうになったのだ。


 慌てて手綱を引きながら馬の体勢を引き戻してみたのだが、明らかに様子がおかしい。


 自分が発汗していたせいで気づくのが遅れたが、馬のほうも首筋に大量の汗をかいているようだ。普段の彼女ならば、もっと早くに異変を察知し、馬から飛び下りるなりして、なんらかの安全策を取っていたはずだ。しかしこの時のキャロラインは頭がぼんやりしていたせいで、対応が後手後手に回ってしまった。


 気づいた時には馬が蛇行を始めており、それを操るので手一杯になる。


 そしてあれよあれよという間に状況は悪化していく。


 蛇行を続けていた馬が突然後ろ脚を強く蹴り上げ、次に前脚を振り上げて大きく嘶いた。まるで嵐の中を漂う小舟のように、上下に激しく揺すられたキャロラインは、体力的に弱っていたこともあり、馬上から放り出されてしまった。


 馬の慌てぶりはすさまじく、激しく跳ねていたものだから、振り落とされたキャロラインの体は勢い良くふっ飛び、木の幹に叩きつけられる。


 木の根元には大きな尖った岩があって、滑り落ちた拍子に、石の角に後頭部を強く打ちつけた。ゴツリと嫌な音が頭の後ろで響いた。


 しかし自身の怪我を心配している余裕はなかった。


 まずい――手綱を放した! 馬は大丈夫?


 慌てて顔を上げるキャロライン。


 暴走した馬は嘶き、さらに暴れ、石を跳ね飛ばしながら、狂ったように木立の奥に突っ込んで行く。


 キャロラインが名前を叫んでも、苦しそうないななきが遠くから聞こえるばかりで、やがて木の幹に激突したような、大きな恐ろしい音が響いた。


 その後は地面に倒れ伏したらしい籠った音と、何かを激しく掻くような音、嘶き、枝が折れる音が断続的に聞こえてきた。おそらく倒れた馬が必死に脚を動かし、木や地面や空気をやたらめったらに蹴っているのだろう。


 キャロラインがとても可愛がっていた馬だ。


 気質が優しく、美しい子だった。


 涙が滲んでくる。


 自分が死ぬのはかまわないと思っていたが、まさか、まさか――……


 あの子がこんなひどい目に遭うなんて。


 不意に物音がやんだ。


 不気味な沈黙が辺りに広がる――怖い――事実を確かめるのが、怖かった。


 けれどこのままにはできない。キャロラインはよろけながら森の奥へと分け入って行った。


 後ろ頭がジンジンと痛むので手をやると、じゅくりと嫌な手触りがした。熟れて腐りかけた無花果いちじくに触れているようだ。


 血が出ているかどうかを視認したくなくて、手に赤がついているかをあえて見ないようにする。


 ……もう頭に触るのは、金輪際やめよう。


 視界がふらふらとブレる中、馬が消えたほうへ、なんとか気力を振り絞って歩を進める。


 木々のあいだの少し開けた場所で、馬はすでに絶命していた。


 四肢を投げ出し、舌を突き出し――なんとも恐ろしい形相。ピクリとも動かない。


 キャロラインの瞳から涙が零れ落ちた。


 ああ……可哀想に。


 震えながら近寄り、馬の目の上に手のひらを置き、そっと閉じさせる。口も閉じさせて、舌を口の中に入れてやろうとしたけれど、これはどうしても上手くいかなかった。


 死後硬直は始まっていないはずであるが、どういう訳か上手く口が閉じないのだ。


 あの美しい子が、こんなに苦しそうな顔で亡くなってしまうなんて。


 身体に手をやっても、心臓の鼓動が返ってこない。まだ身体は生暖かく、今ならまだ生き返るのではないかという、馬鹿げた妄想が頭に浮かんだ。


 ……そんなはずはないのに。


 もう遅いと判断する理性と、まだなんとかなるのではという都合の良い願望が交互にやって来て、頭がクラクラする。


 しばらくのあいだ、キャロラインは馬の背に手を当てたまま、じっとしていた。


 段々と――……段々と――……体が冷たく、硬くなっていくのが分かった。


 それで『ああ、やはり死んでしまったのだな』と分かった。


 もうどうにもならないだろう。


 絶命する瞬間そばにいてやれなかったことが、とにかく悔やまれる。逝く時に、首を抱いてやれればよかった。そうしてやれば、幾らかこの子も慰められたに違いない。


 それができなかった私は、大間抜けだ。


 どうしてあの時、手綱を放してしまったのだろう。


 あの時強くしがみついていれば、ここへ一緒に来れたのに。


 最期の瞬間、一緒にいてやれたのに。


 どのくらいの時間、じっと動かずにいたのか分からない。


 やがてキャロラインはよろけながら立ち上がった。


 自分には行くべき所がある。このまま嘆き悲しんではいられない。


 本当は泣き叫んで、狂って死んでしまいたいような気もしたけれど、キャロラインは『結婚式場に行かなければ』という、おかしな使命感に囚われていた。


 だから歩いた。ひたすら歩いた。


 そして一軒の農家に辿り着いた。


 ボロボロに傷ついた、ウェディングドレス姿の若い娘が現れたので、農家の主人は腰を抜かさんばかりに驚いていた。


 キャロラインが必死で「馬を貸してほしい」と頼むと、彼はふたつ返事でOKした。


 それ以外になんと答えてよいか分からなかったのだろう。


 彼女は礼を言い、馬にまたがると、早駆けして一路教会を目指した。



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