23
悩んだ結果、キャロラインの顔を斬りつけたのは、見知らぬ暴漢だということにした。
ヤンチャな叔父がやったんです、とぶちまけてやってもよかったのだが、そうなると『刃傷沙汰に発展するほどのいかがわしい何かが、ふたりのあいだにあったのか?』と疑われかねないし、あんなクソ男と付き合っていた趣味の悪い女のレッテルを貼られるのは、絶対に嫌だと思ったのだ。
キャロラインは恨みを買いすぎていて、いつ死んでもおかしくない身の上であるから、身辺は綺麗にしておきたい。
この先何があったとしても、キャロラインがフェリックスの婚約者であった事実は消えないので、彼をコケにするような噂を残したまま逝くのは、女の風上にも置けない。
……しかしこうなると、無事死ぬことができるのか、雲行きが怪しくなってきた……。
とりあえずまだ結婚式までは一日あるので、叔父の再チャレンジ、もしくはスティーヴィー坊やの頑張りに賭けて、辛抱強く待つとしよう。
キャロラインは『顔以外に取り柄のない妹』と長年暮らしてきたために、だめな人間を長い目で見てやれる、寛大な人間なのである。
* * *
そうこうするうちに、結婚式当日の朝を迎えてしまった。
昨夜ぐっすりと眠ったキャロラインは、スプリングの良く利いたベッドの上で、気持ち良く目を覚ました。
叔父もしくはスティーヴィー坊やにやる気があれば、眠っているあいだに済ませてくれるかもしれないと期待していたのだが、こうして五体満足の状態で目覚めたということは、あの腰抜けどもは絶好の機会を逃したようである。
キャロラインは湯を浴びて身を清め、丁寧に化粧を施してもらい、花嫁として身支度を整えられた。
元が美女なだけに、自分でも呆れるほど婚礼衣装が似合ってしまっている。
ただし、これがなければ、だけれど……
キャロラインは口をへの字にして鏡を覗き込む。
彼女の左頬には無粋なガーゼが貼りつけられている。肩から背中にかけての傷の方は、正面から鏡に映しているぶんには、視界に入らない。
貞淑に微笑んでみれば、どういう訳か幸せな花嫁に見えてしまい、少しだけ胸が痛んだ。
……どうしてこんなことになったのだろう。
もしも生まれてくる家が違ったならば、満たされた気持ちでフェリックスと結ばれていたのだろうか。
……何を馬鹿な。
この家に生まれていなければ、彼との政略結婚などありえなかった。
こうしてウェディングドレスを着る機会に恵まれたのは、このイカレたテスター家の長女であったからで、すべてが上手く解決する『もしも』なんてない。
すっかり支度を終え、あとは身ひとつで教会へ向かうだけとなり、ふと――キャロラインはやり残した仕事があるような気がして、考え込んでしまった。
そうだ……けじめをつけるという意味で、最後に叔父の家に行ってみようか。
先日キャロラインを斬りつけた叔父が、平然と式に顔を出すとも思えないから、決着を着けるにはこちらから訪問するしかない。
言いたいこともあるだろう。聞いてやらないこともない……というより、やつにまだ殺意があるのかどうかを、式の前にはっきりさせておきたい。
ここから真っ直ぐ教会に向かうはずだったが、少しくらい寄り道をしてもかまわないだろう。
そこで死んでしまえば、寄り道どころかミンズ邸が人生の終着点になるわけだが、それならそれで別にいい。
キャロラインは厩舎に向かい、白毛に灰斑がある愛馬の手綱を引いた。
ウェディングドレス姿でひらりと馬にまたがり、住み慣れたテスター家の敷地を飛び出す。
メイドが後ろで取り乱しているようだけれど、父も母もすでに屋敷を出ているので、キャロラインを止められる者がテスター家には誰もいなかった。
緑深い森の中の小道をひた走りながらキャロラインは考える。
娘のひとりを亡くしたばかりだというのに、喪が明けぬうちから残った娘を嫁にやる、親の心境とはどんなものなのだろうか。諸事情があるとはいえ、社会常識からかんがみても、首を傾げざるをえない。
妹が死んだ時は、両親共に茫然自失であったのだが、キャロラインからすると、そのいかにもな『ショックを受けました』顔に恐怖を感じた。
彼らは普通に子供を亡くした不幸な親とは立場が違う。
だからいっそケロッとしているか、暴れて狂態を晒すか、そのどちらかだったらマシだった。
あんなふうに普通に悲しいというリアクションを取られてしまうと、『あなたたちにも人の心があったのか』とどうしても考えてしまうのだ。
だってクレアと叔父の肉体関係をキャロラインが相談した時に、彼らは何もしなかった。
あの時、親がクレアを叱らなかったことで、すべてが狂い始めた。
妹が死んだのは、親の責任が大きい。しかし彼らはそう考えていないようだ。
不幸な事故で子供を亡くしたというような、『善良な親』の仮面をかぶり、打ちひしがれたふりをして、自らを慰めている――キャロラインは腹が立って仕方がなかった。
お前たちに子供の死を悲しむ権利などないし、子供の死を悲しんでいる演技をする権利もない。
キャロラインの中では、彼らは化けものでしかなかった。
人ではない。ただの化けものだ。
そして化けもののくせに、小賢しくもまともな人間のフリだけは上手いのだから、もう最悪だ。
奥歯を噛みしめる。
鼻の奥がツンとして、視界が滲んだ。
……それで、私は……?
化けものの両親でさえ、あんなふうに悲しげな演技ができるのに、私は妹が目の前で死んでも、泣かなかったではないか。
キャロラインのほうが恐ろしいモンスターだ。
純白の衣装を身に纏っているのに、その身は誰よりも穢れている。
誰かが早く、息の根を止めてくれるといい。
そしてそれを確実にしてくれそうな叔父の家へこれから行くのだ。これはもしかすると、遠回りな自殺なのかもしれなかった。
――ミンズ邸に辿り着くと、昨日のメイドが対応に出て来た。
彼女の狼狽ぶりはひどく、瞳の焦点は定まらず、無意味に両手が中空を彷徨っている。
「も、申し訳ございません……ご、御主人様は具合が悪く……臥せっていらして」
言葉も明瞭とせず、よく聞き取れない。
「そう言えと、彼から指示されている?」
つまり仮病なのかと尋ねてみたのだが、大きく首を振るばかりで要領をえない。
「隠すとためにならないわよ」
「よ……よろしかったらご覧になりますか?」
この切り返しにキャロラインは虚を衝かれた。
驚いた! これまで使用人に告げられたセリフの中でも、これは群を抜いて独創的である。
ご覧になりますか? にはどういう意図が込められているのだろう。
気味が悪いと思ったが、こうして玄関口で押し問答していても、どうにもならないのは確かだ。こちらも大事な予定が控えている。
「――案内して」
キャロラインはドレスの長い裾を摘まみ上げ、メイドの先導で叔父の寝室に向かった。
妹はあどけない顔をして、この廊下を何度も通ったのだ……そう考えると複雑な気分になる。
その薄汚れた道を、婚礼衣装を身に纏って進んでいるなんて。
メイドがミンズの部屋をノックして、返事を待たずに扉を開く。
その様子には、『嫌なことはできるだけ早く終わらせてしまいたい』という気持ちが表れていた。
扉が開いた瞬間、中から饐えたような強烈な臭いが漂ってきた。
驚いてメイドの顔を振り返ると、彼女は怯えたような顔で、『この部屋には入りたくない』とばかりにサッと身を引いてしまう。
「……どういうことなの?」
メイドの手を掴んで尋ねると、
「部屋には入るなと申しつかっております」
震える声で返される。逃げ腰のため顎を強く引きすぎて、頑丈そうな顎が喉元にめり込んでしまっている。
こうしてメイドと睨めっこしていても埒が明かないので、キャロラインは室内に足を踏み入た。
カーテンが半分以上閉められているので、中はひどく薄暗い。
前屈みになりながら、室内に目を凝らす。
射し込んだ朝日が淡いブルーの壁紙に反射し、猫足の優美なソファや黒檀の重厚なテーブルの輪郭を、薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。
暗さに目が慣れてくると、ベッドの向こう側にミンズがいるのが分かった。
窓下の壁にだらりと寄りかかり、目は焦点が合っておらず、口からはだらしなく涎が垂れている。
観察できたのはここまでだった。あまりにひどい有様に、口元を押さえてすぐに部屋を飛び出す。
叔父は完全に正気を失っていた。
強い薬でも打って、その副作用で脳が破壊されてしまったのだろうか。
先ほど見た彼の舌はだらりと外に垂れ下がり、目は落ちくぼんで生気がなく、濁っていた。
元に戻るとは到底思えなかった。
というより、すでに息絶えているのではないか。
メイドに「医者を呼ぶように」と短く指示を出した。
彼女は自分がご主人様に近寄らなくて済むと分かると、あからさまにホッとした様子で駆けて行く。
キャロラインはドレスの裾を摘まみ、背筋を伸ばして歩き始めた。
これから結婚するうら若き女性が、頬と背中に大きなガーゼを貼り、満身創痍で腐った臭いのする屋敷の廊下を歩いている。
……毒婦たるキャロライン・テスターにはぴったりな状況だと、彼女自身でさえ思うのだった。




