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キャロラインは結婚式までに、叔父あるいはスティーヴィー坊やが、上手く自分を殺してくれないだろうかと考えていた。
それは本気とまではいかない、頭の中の『もしも』遊びであったが、不思議な満足感を彼女に与えた。
危険な場所にふと飛び込みたくなる、あの魔が差す瞬間にも似た、甘美な誘惑――現実と妄想の境界が曖昧になり、気分がハイになる。
頭の中であれこれ考えを巡らせるうちに、キャロラインは自分が死ぬことが、唯一無二の正解のような気がしてきた。
結婚式前にキャロラインが死んでしまえば、フェリックスは最悪な花嫁を迎えずにすむ。
クレアに続いてキャロラインが死ねば、テスター家の血は途絶えるから、テスター家とノウルズ家の両家を結びつけるという、叔父の歪んだ欲望は叶えようがなくなる。
そんなふうに馬鹿げた妄想ばかりしていたキャロラインであるが、別に四六時中呆けているわけでもなかった。彼女は今できることを、手抜かりなくやっておくことも忘れなかった。
キャロラインは弁護士を雇い、自分が死んだらフェリックスのもとに、例の三名家当主の弱みを記した手紙が届くように手配しておいた。
あれをどう使うかはフェリックス次第だが、頭の良い彼のことだ、きっと上手くやるだろう。
フェリックスが彼の父に対して絶対服従しているのは、おそらく母親を守るためだと思われた。
息子が反抗すれば、ノウルズ伯爵は妻に当たるはずで、聡いフェリックスはそれを恐れて、自分ひとりが我慢する癖が身に着いてしまったのではないか。
しかし父親を綺麗に排除できるあの魔法の手紙があれば、きっと彼にもツキが回ってくる。フェリックスは以降、父の呪縛に囚われずに、好きに生きていけるだろう。
次期伯爵として、きっと上手く領地を治めていくに違いない。
もしも万が一……おそらくそんなことはないだろうが……叔父とスティーヴィー坊やがとんだ腰抜け野郎で、キャロラインを結婚式までに殺してくれなかったなら……それはもう神の思し召しと考えて、流れに身を任せるしかないのかもしれない。
ふたりをあそこまでコケにしてやったのだから、まさかキャロラインを幸せな花嫁にはしないはず……とは思うのだけれど。
どちらかが殺しに来てくれるのを待つしかない。
まぁ、キャロラインとしても、どうしても死にたいわけではなかったから、向こうから仕かけてきた場合は、反撃はしてしまうかも。
そういう意味では、叔父に襲われたほうが都合は良い。
叔父を捕らえて牢屋にぶち込んでやり、それで終わりにするというのも『あり』だと思うのだ。
なんとか叔父には頑張ってほしいわ……。
キャロラインは待った。待ち続けた――ふたりが殺しに来てくれるのを。
ふと気づけば、結婚式前日。
ずいぶん焦らされたが、待ちに待った瞬間がやって来た。
朝、叔父からキャロライン宛に手紙が届いたのだ。
柄にもなく緊張しながら開封すると、用件はシンプルで、『至急当家に来るように』と書いてあった。
――来ないなら、フェリックスの父の秘密を社交界にぶちまけて、あの家もろとも破滅させてやる、とも。
狡猾な叔父は、キャロラインのアキレス腱がフェリックスであることを見抜いていたようだ。
まぁね……それはそうか……。
流れ上仕方ないとはいえ、キャロラインは妹とフェリックスをくっつけないために、自分が婚約者の座にしがみつき続けたのだから。
それもある種の愛情表現というか、フェリックスを守るという強い気持ちが彼女の心の中にあったのは事実である。
フェリックスの名前を出して脅すとは、キャロラインは叔父の作戦に思わず感心してしまった。
――人生、なるようになるものだ。
上手くいけば、叔父が私に引導を渡してくれるだろう。
キャロラインは愛馬にまたがり、一路ミンズ邸を目指して走り始めた。
* * *
叔父の歓待ぶりは、期待した以上だった。
恐怖小説さながらに、その手に鋭い刃物を持って現れたからだ。
客間に通されたキャロラインは、遅れて入室してきた叔父の興奮した顔を見て、背筋を震わせた。
……おお、これは結構怖いな。本物の匂いがする。
そういえば彼は、愛しているクレアを殴るようなクソ男だったから、愛してもいない相手なら、刃物で切り刻むくらいは躊躇いなくやってのけるでしょうね。
しかし……できれば即死を希望しているのだが、あの小振りのナイフで、果たしてそれが可能なのだろうか? チクチクチクチクちょっとずつ削られたら、かなり痛そうだけれど……。
「あの子の痛みを、お前味わうがいい――この悪魔め!」
喚き散らす叔父を眺め、もしかすると彼はおかしな薬をキメているのかもしれないとキャロラインは思った。
瞳は焦点が飛び、瞳孔が開ききっている。ひどく興奮しているのに生気がないという、なんだかチグハグな印象を受けた。
まるで彼だけに見えている悪魔か何かがいて、刃物を握り締めて威嚇しているかのようだ。叔父の歪んだ顔は醜悪でしかなく、彼こそが悪魔そのものだと思った。
これが社交界でそこそこモテていたというのだから、世も末である。
――ところで、事態がここまで切迫しているにもかかわらず、キャロラインは相変わらずこのように、遊び半分な考え方をしていた。
もしも彼女がフェリックスを拒絶しておらず、彼がそばにいたのなら、この状態を危ぶんだだろう。
そして伝えたはずだ――「自分でも気づいていないようだが、妹が死んだショックから立ち直れていないのは、叔父のミンズだけでなく、君もだ」と。
キャロライン自身が『妹を愛していない』と思い込んでいたので、彼女は肉親の死を乗り越えるための、正しいプロセスを踏めていなかった。
クレアの死について、キャロラインは確かに喪失感を覚えていたのに、素直に泣いて死者を偲べない彼女は、ある意味ではとても不幸だった。
キャロラインの中でクレアの存在は、誰がなんと言おうと、『特別』なものだった。
それはプラスの想いではなかったかもしれない――それでもキャロラインはクレアが『特別』であることを、ありのままに受け入れるべきだった。
突然の死に対する純粋な怒り、悲しみの感情を、意図的に抹消してしまったキャロラインは、心が再起するきっかけを失ってしまったのだ。
なんだか……面倒臭いな……激怒している叔父を前に、キャロラインは脱力していた。
いつの間にか叔父が目の前まで迫っている。
「この悪魔め、地獄に堕ちろ!」
小振りの刃物が頭上に振り上げられるのを、キャロラインはただじっと見上げていた。
一瞬――……相手の手首を弾き、武器を奪って刺し返してやろうかという考えも浮かんだのだけれど……キャロラインはこの攻撃を甘んじて受け止めることにした。
静かに視線で軌跡を追っていると、臆病風に吹かれたのか、叔父の手がビクリと震え、途中で止まってしまう。
彼が腕を振りかぶったまま仁王立ちしているので、少し意外に感じた。
日常的に妹を殴っていた彼は、非人道的な行為に抵抗がないのだと思い込んでいたのだ。
「……早くやったらどうですか」
キャロラインの口から出たのは、凪いだ声だった。
別に進んで殺されたいわけでもないのだが、どうにも現実感が薄い。まるで夢の中にいるみたいな変な感じだった。
焚きつけられたミンズは勢いで刃物を振り下ろした。しかし明らかに狙いがブレている。手、足、身体の軸、すべてがバラバラに動いていて統一性がない。完全に腰が引けているし、大体――叔父は殺そうとしている相手を、しっかり見ることすらできていないではないか。
彼が大仰に振り回した刃物の先は、キャロラインの左耳から頬にかけて抜けていった。柔らかな白い皮膚が線状に切り裂かれる。
一拍置いて、頬に鋭い痛みが走った。
そこまで深い傷ではない。体感では骨まで届いていないと感じた。これでは致命傷にならない。
――それでも左耳と頬が熱い。焼けつくようだ。
熱い
熱い
熱い
怖い
怖い
怖い
血が流れた本能的な恐怖に襲われ、根性で歯を食いしばった。
一瞬の空隙、そして反転――……
この時、眩い閃光が、頭の先から足の爪先まで一気に走り抜けたような気がした。
激しい感情に呑み込まれる。
――怖気づいたな、この臆病者め!
キャロラインは原始的な怒りを身に纏わせ、目の前の矮小な男を睨み据えた。
使いこなせもしない刃物を持ち出し、無責任に振り回してこのていたらくか。
瞬間、恐怖心が消し飛んだ。
脅しには屈しない。私を屈服させることなど、誰にもできはしない。
こんなクズに命乞いなどするものか。泣き顔ひとつ見せてやるものか。
キャロラインは獲物の喉笛に食らいつく肉食獣のような獰猛さで、目の前で慌てふためくミンズを真っ直ぐに見る。
こんな蛆虫みたいにみっともないやつに怯えた顔を見せて、相手に優越感を抱かせるなんて、死んでも御免だと思った。
たとえ殺されたとしても、この男はキャロラインに対して、敗北感を抱いたまま生きていかなければならない。
無様なこの男は武器を振り回して女ひとりの命を奪おうとしたけれど、勝つことはできなかったと、命が続く限り悔しがるといい。
クズはクズらしく、細々と生き恥を晒しながら、この先の退屈な人生を生きるといい。
しかしそれにしても、この程度か……。
いっそやるならやるで、ひと思いに殺せと思う。
比べても仕方のない話だが、狩人ならば、せめてもの慈悲で一撃で命を奪うようにする。皮を剥ぐ前に動脈をかっ切って、一瞬で生命活動を止めてくれる。
――このクソが。
「さぁ、ほら、心臓はここですよ」
胸を叩いてみせる。おちょくるつもりはない。
残念ながら自分は胸が大きいので、思い切って豪快に、しっかり垂直に入れてもらわないと即死できない。
次も臆病風に吹かれて、胸の贅肉をちょっと刺すくらいのおままごとをされては、キャロラインは我慢できないのだ。
……ところが期待外れもいいところで、叔父は裏返ったような奇声を上げながら、ナイフの柄のほうでキャロラインの肩を殴りつけてきた。
これはピンポイントにデリケートな鎖骨の上に叩き込まれたので、たまらずキャロラインは蹲ってしまう。
なんてことするんだと驚いているうちに、叔父はもう一度奇声を上げながら刃物を振るい、今度は背中にピリッとした痛みが走った。しかしこれもまた骨に達するような深い傷だとは思えなかった。
衣服の上からなので緩衝されたというのもあるけれど、二撃目はまさに皮膚一枚切った程度のもので、おそらく血は若干出ているだろうけれど、というレベル。
キャロラインは絶望を感じた。
このままチクチクチクチク、靴をつくる小人妖精が精一杯の仕事をこなすみたいに、ちょっぴりちょっぴりちょっぴりちょっぴり削られ続けたらたまらない。これはなんの拷問なのだ。
タックルをするようにして叔父を転ばせる。マウントを取ってぶん殴ってやろうかと思案していると、タイミングが良いのか悪いのか、メイドが客間に飛び込んで来た。一連の騒ぎを聞きつけて、心配になって見に来たのかもしれない。
ナイフを手に床に転がる当主と、彼に馬乗りになっている血塗れの姪を見て、メイドは大仰に身を震わせ、アリアを歌い上げるかのように派手に声帯を震わせた。
こうなってはもう、臆病風に吹かれた叔父は使いものにならなかった。
怯えたようにサッと視線を逸らし、這うようにキャロラインの下から抜け出すと、ほうほうのていで客間から逃げ出してしまう。
メイドは口を押えたまま悲鳴を上げ続けている。叫ぶのをやめて、治療をしてほしいのだが……待っていても永遠に希望が叶いそうにないので、キャロラインは口を開いた。
「清潔なガーゼと包帯を持って来て――早く!」
メイドはビクリと身体を震わせ、やることができたおかげで発作が治まったのか、やっと正気に戻ってくれた。
衛生用品を待つあいだ、ミンズが刃物片手にふたたび戻って来るのではないかと警戒していたのだが、叔父はすっかり戦意喪失してしまったらしく、その後は乱入してこなかった。
応急処置を終えると、キャロラインは乗って来た馬に跨り、帰路に着いた。
頬がジクジクと痛む。
縫うことはできなかったので、どこかで医者に診てもらうようだろう。
しかし馬に乗って帰るから麻酔はかけられない。
叔父の思い切りの悪さには、溜息しか出なかった。
初志貫徹もできずにこのていたらくとは、お仕置きしてやりたいくらいだ。
重石を体に縛りつけて水風呂に放り込んでやろうかという、物騒な考えが頭に浮かんだ。




