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姉はもういない  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
【 裏 】

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 クレアが時計塔から落ちたあと、姉のキャロラインが動転した様子で教会から逃げ去ったのを、何人もの人間が目撃している。


 とうとうキャロラインは一線を越え、妹のクレアを突き落としたのではないか……そんな恐ろしい噂が瞬く間に広まっていった。


 その疑惑については、次いで時計塔から下りてきたフェリックスがきっぱりと否定したので、一旦は「違ったのなら、よかった」という空気になった。


 けれど、一度拡散した噂は、後ろ暗い疑念となって残り、皆の心の奥に燻ぶり続けることとなった。


 そしてクレアに執着していた叔父は、この時から狂い始める。


 いや……恋人を失う前から、彼の精神状態は危険な領域を漂っていたのかもしれない。――クレアに暴力を振るったり、フェリックスを殺そうとしたり、自制できなくなっていたのだから。


 全身全霊で執着していたクレアがあっさりいなくなってしまったことで、叔父は心のバランスを取れなくなってしまったのだろう。


 ミンズは妹の葬式も済まぬうちに、テスター家に怒鳴り込んで来て、目を剥き青筋を立てながら、キャロラインに食ってかかった。


「お前がクレアを殺したんだろう! なんて性悪な女だ! お前が死ねばよかったんだ! 俺のあの子を――俺の天使を――この人でなしめ!」


 キャロラインはミンズの狂態ぶりを冷めた目で見返してから、椅子からスッと立ち上がり、背筋を伸ばして叔父の妄言を切って捨てた。


「クレアはあなたにうんざりしていたんですよ。あなたから逃げたくて死を選んだ――そうは思われないのですか」


「何を馬鹿なことを……!」


 ミンズは歯を食いしばり、ぶるぶると震え出す。


 あまりに興奮しすぎて、かえって目の前にいる小憎らしい姪を殴る気が起きなかったようだが、もう少し頭の血が下りたなら、おそらく手を出してくるだろう。


 しかしキャロラインのほうは、黙って殴られてやるつもりはなかった。どうしてこんな最低男に、こちらが頬を差し出してやらねばならないのか。


「妹の心が自分から離れつつあったのを、あなたは知っていたはずだわ。――とぼけるつもりなら、これを見なさいよ」


 遅かれ早かれ、叔父がこうして怒鳴り込んで来ることは予想していた。


 だからあらかじめ準備しておいたのだ。


 キャロラインはテーブルの上に置いてあった黒い冊子を取り上げ、手首を返すようにして、叔父の胸元に放り投げてやった。


 厚みのあるそれは彼の厚い胸板に当たり、床に落ちてバザリと広がる。


 これはなんだという顔を叔父がしたので、説明してやった。


「妹の日記よ。見れば、あの子の字だと分かるはず」


 妹の丸文字は見間違いようもなかったから、床に落ちた紙面を見おろした叔父にも、書き手が誰か分かったようだ。緊張したように、彼が息を呑む。


「そこにあなたのことが書いてあるわ――夜、しつこくてうんざりさせられたとか、犬みたいに盛って気持ち悪いとか、若い自分を満足させられないとか、色々面白いことが、赤裸裸せきららに綴られている。読んでみるといい」


 叔父は震える手でそれを拾い上げ、立ったまま紙面に目を通し始めた。


 数ページ流し読みしたところで、口元が固く引き結ばれた。目元が痙攣し始め、『信じがたい』という感情が浮かぶ。


 自分がいかに若い娘に疎まれていたかを、彼はこの瞬間、正しく理解したのだ。


 日付が進み、彼が妹を殴るようになった頃から、悪態がさらに激しくなくなる。


 安酒場で喧嘩の際に交わされるような、男を嘲笑する下品な下ネタ。


 それから髪型が気持ち悪いとか、目のバランスが不格好とか、容姿に関する貶しも頻繁に挿入される。


 気勢を削がれたのか、叔父は脱力してその場に日記を落とし、背を向けて立ち去りかけた。


 ……ああ、もうお帰りなの? でも、少し待ってくださる?


 キャロラインは最後の仕上げにかかる。


「――妹があなたを嫌ったのは、私のせいかもしれないわね」


 ゆらりと大きな背中が揺れて、叔父がゆっくりとこちらに振り返る。


 瞳は淀み、暗い光を放っていた。


 キャロラインは彼への挑発を続ける。


「毎日ね、私がクレアに聞かせてやったの――あなたがいかに下らない男かを。ほら、あの子って単純なところがあったでしょう? 洗脳されやすいのよ。私がしつこく言い聞かせたおかげで、あの子はあなたのことが嫌いになったのかもしれないわね」


 叔父の憎悪がこちらに向く。


 キャロラインは正面からそれを受けて立ち、ほくそ笑んだ――ミンズのターゲットが、これで自分に移った。


 成功した。


 今、叔父はクレアの死に打ちのめされているが、彼が次に陥る状態は、おそらく怒りだ。


 喪失を味わった叔父は誰かを憎むことで、その空虚な穴を埋めようとするだろう――その時、ターゲットになるのはおそらくフェリックスだ。


 元々フェリックスのことは恋敵と認定したようだから、その感情的なわだかまりが捻じ曲がり、きっとややこしいことになる。


 だからミンズの負の感情を、こちらでコントロールしてやるのだ。


 愛するクレアを失い、このまま絶望して後追いしてくれれば大助かりなのだけれど、粘着質な彼のことだ――八つ当たりで、誰かを巻き添えにしないではいられないはず。


 だからこれでいい。


 私を狙えばいいとキャロラインは思った。


 早くこの騒動の片がつくといい――……ひどく疲れてしまった。


 叔父が立ち去ったあと、キャロラインはひとりソファに身体を沈めていた。


 しかし人生とはかくも厄介なものなのかと、彼女はさらにうんざりさせられる。


 休む間もなく、次の招かれざる客がやって来たのだ。


 訪ねて来たのはフェリックスの弟君で、ふたつ年下のスティーヴィー・ノウルズだった。


 彼は甘ったれた性分で、これまで無軌道に遊び暮らしていたように記憶しているが、そういえばこの少年も、クレアの魅力にやられた馬鹿のひとりだった。


 妹に熱を上げてからは、幾らかまっとうになったとか、そんな噂を薄っすら聞いたような気もするけれど……この手の甘ったれた人間の「幾らかまっとうになった」説は、まったくあてにならないものだ。


 どうせ『スプーンを上手に使えるようになった』だとか、『挨拶を小声で返せるようになった』だとか、その程度の微々たる進歩でしかあるまい。


 そんな元気者のスティーヴィー君が、時と場所も選ばずに、ずかずかと詰め寄って来た。瞳には狂気が宿っている。


「あんたは恐ろしい女だ――兄さんに固執して、婚約者の座を射止めるだけでは飽き足らず、可愛いクレアをいじめにいじめ抜いて、とうとう殺してしまったのだからな! 恥知らずな毒婦め! おい、何か言ったらどうなんだ! 命乞いをしたいなら、聞いてやる!」


 まぁ……これは、これは……キャロラインは眉根を寄せ、思わずため息を吐いてしまう。


 こんなに頭の悪い苦情って、聞いたことがない。


 命乞いをしたいなら、聞いてやるって何……聞いてどうするの? お涙頂戴の言い訳を繰り出すことができれば、この男はコロッと手のひらを返して「それじゃあ仕方ないな」と背中でも撫でてくれるのだろうか? ……そんな馬鹿な。


 そもそもの話、彼が圧倒的強者の立場で語っているのが解せない。


 キャロラインの生殺与奪の権利を、スティーヴィー君が握っているとでも言わんばかりのこの台詞……なまっちょろいガキが何を血迷っているんだ。


 キャロラインは疲れていた。このような子供の戯言に付き合う気力が、今はない。


 叔父との一番重要なバトルを終えたばかりで、立ち上がる気力もなく、疲れたようにさらにソファに背を預ける。


 そうしてすっと瞳を細めたので、彼女の勝気に整った容貌と相まって、いっそう相手を小馬鹿にした気配が強まった。


 スティーヴィーは馬鹿なりにプライドだけは高いものだから、このような傲岸不遜な態度を女に取られることは、まるで我慢がならなかった。


「このクソ女!」


 騎士道精神皆無の短慮さで、すぐに殴りかかってこようとしたので、日頃から鍛錬を重ねていたキャロラインは、とっさに目の前のローテーブルに足をかけ、強く蹴るように押し出してやった。


 それによりテーブルの角が突進してきた彼の脛に激突し、スティーヴィーは悶絶するように床に倒れ込んだ。


 惨めに這いつくばるスティーヴィーの姿を見おろした瞬間、キャロラインの心中に激しい怒りが込み上げてきた。


 まったく、どいつもこいつも――どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ! 


 テスター家とノウルズ家の結束を強める名目ならば、いっそ馬鹿同士、スティーヴィーとクレアがくっつけばよかった!


 神様はなんて酷なことをなさるのだろう。


 まともなフェリックスと、癇癪持ちのイカレたキャロライン――ふたりのあいだに縁を結んだせいで、皆が遠回りを重ねたあげく、最悪なゴールに向かって突き進んでいる。


「あなたはクレアにそっくりな、甘ったれで何もできないクソガキよ。目障りだから、とっとと消えなさい」


 蹲ったスティーヴィーが何やらブツブツと呟いてる。


 どうせ「殺してやる」だとか「地獄に堕ちろ」だとかの独創性のない悪態を吐いているのだろう。


 とはいえ……馬鹿も使いようによっては、何かの役に立つと言うけれど……あれって本当だろうか?


 キャロラインは気が変わった。


 なんというか、だめな弟子を見守る、師匠の心――あれに近いものが芽生えたのかもしれない。


 とにかくキャロラインは、彼に賭けてみることにしたのだ。


 ひょっとするとこの子が奇跡を起こすかもしれない。


 キャロラインは床に這いつくばるスティーヴィーの背に、改まった調子で声をかける。


「あなたがここで私をあやめたらどうなるのか、行動の結果をよく考えてみなさい。あなたが短慮を起こせば、結局フェリックスが一番わりを食うのよ? だから……あなたがもしも私を殺したいと本気で考えているのなら、絶対に誰にもバレないようにやるべきね。スマートな方法のひとつやふたつ考えてから、出直して」


 スティーヴィーが弾かれたように顔を上げ、探るような目つきでこちらを見上げてくる。


 スマートな方法を考えてから出直せとは、どういう意味なのだろう……顔にそんな困惑が浮かんでいる。


 キャロラインは意地悪く微笑んでみせた。


「あなたは頭が悪いから、どうせひとつも思いつかないでしょうね? ……あのね、分かる? 私は、お前が逆立ちしたってできないことを、わざと言っているのよ。お前は単細胞だから、誰にもバレないように私を殺すことなんて、できっこないもの。ねぇ、いいこと? もう一度言うわ――私を殺したいのなら、絶対に誰にもバレないように、上手にやるのよ。次に会った時に、短絡的にナイフでも握って現れようものなら、お前の五体を生きたまま切り刻んでやるから。お前の腕を斬り落として、足を斬り落として、後悔して痛みに泣き叫んで許しを乞うても、私は絶対に許さない。分かったら、さっさとお帰りなさい」


 そう告げるやいなや、キャロラインは近くにあった火掻き棒を拾い上げ、それを振りかぶって手酷くスティーヴィーの背を打ち据えてやった。


 スティーヴィーはこれまでのんべんだらりと甘やかされて生きてきたので、このような痛みに対してまるで耐性がなかった。


 キャロラインとしては、背中の肉を抉らないようこれでも優しく加減をしてやったというのに、スティーヴィーは身体を捻るように縮めると、情けない悲鳴を上げて泣き出してしまう。


 こうした醜態を眺めおろしていたキャロラインは、さらにこの馬鹿を蔑みたい気持ちになり、靴の裏で彼の背中を小突いてやった。


「まるで蛆虫うじむしね。早く私の視界から消えて頂戴、気分が悪いわ」


 スティーヴィーはさらに殴られることを恐れたのか、嗚咽を漏らしながら部屋から這い出て行った。


 ……蛆虫が消えてくれて、キャロラインは心の底からスッキリした。



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