20
クレアとは別の馬車で教会へ向かった。
妹よりも先に着いたキャロラインは、社交の場に親しい知り合いもいないので、裏方作業に混ざることにした。
慈善活動の準備といっても、貴族階級の子息子女の集まりであるから、その手の雑務は使用人たちが行う。
しかし上流社会のはみ出し者たるキャロラインは、表の活動を完全に放棄しているので、目立たぬ場所で黙々と手を動かすことにしたのである。
ほかの参加者たちはどんな感じかというと、使用人の準備作業を横目で眺めて、顎をしゃくりながら、ああだこうだと指図したり、次の瞬間には友人のほうに振り返ってお愛想を挟んだりと、大忙しであった。
「私が焼いたマフィンを味見してみて」
と持参したバスケットをテーブルに置いて、キャッキャ浮かれ騒いでいる者もいて、やることもないなら、とっとと家に帰ったらいいのにと、キャロラインは手を動かしながら考えていた。
そのマフィンとやらも、どうせコックが焼いたものだろうし、彼女がしたことといえば、『チョコレートはたっぷり入れて』と口を出したくらいだろう。
参加者たちにとって慈善活動なんて、ただの社交の場でしかない。
とっておきの自慢話を誰かに聞いてもらったり、新しいファッションを披露したり、気になるあの人を目で追いかけたり――ただそれだけが目的で集まっているのだ。
明日になれば教会に貧しい家の子供たちがやって来るので、彼らにお菓子を配るくらいのことはする。その後は神父の有難い説教を聞き、有力者の子息が中身スカスカのスピーチを披露して、イベントは終了だ。その後は関係者一同の慰労会がおまけでついてくるわけだが……。
黙々と白いテーブルクロスを卓上に広げていたキャロラインは、ふと聖堂内を見渡し、妹がまだ到着していないことに気づいた。
クレアが到着していれば、すぐに男どもに囲まれ騒がしくなるはずだから、あの子はまだ来ていないのだろう。
けれど……?
なんだか嫌な胸騒ぎを覚えて、教会の入口に視線を走らせる。
気がかりなのは、フェリックスもまだ来ていない点だ。
キャロラインはテーブルクロスを放り出し、足早に歩き始めた。
このまま正面から出て行って、クレアがいた場合に鉢合わせするのもうまくないので、東の側廊経由で、裏口から屋外に出ることにする。――外側から東壁に沿って南下するのだ。
そのルートならば、誰に気取られずに、表の様子を確認できるはず。
キャロラインは猫のようにひっそりと足を進め、正面階段が見通せる位置までやって来た。
東壁に沿ってそっと顔を覗かせると、妹が大扉の外側に佇んでいるのが見えた。彼女は手に息を吹きかけて寒さをしのいでいる。
驚いた……なんとクレアは、フェリックスがやって来るのを、待ち伏せしているのだ。
あの子が寒い思いをしてまで待つ相手は、彼以外に考えられない。
鼻の頭を寒さで赤くしながら、ただじっと忠犬よろしくフェリックスを待つクレアの姿は、まるで恋する純情な乙女のようだ。
キャロラインは感情の整理を着けられず、棒立ちになってしまう。
息をするのも億劫だった。
……私はここで何をしているのだろう? すぐに飛び出して行って、あの子を引きずり倒すべきだろうか。
……だけど……だけど、もう……
しばらくするとノウルズ家の馬車が教会の正面で停まり、フェリックスが降りて来た。
するとクレアはぴょこんと飛び跳ねるように立ち上がり、一目散に石階段を駆け下りた。抱き着くように彼にしがみつくクレア。
彼女は彼に手紙を渡して、ひとことふたこと囁いてから、先に教会に入って行く。
キャロラインは脱力し、ゆっくりと壁面に額をつけた。
絶望。
虚無。
哀しみ。
それらが体から温度を奪っていく。
そして疲れが襲ってきて。
すべてが嫌になって。
それでもなお――……すべてを超越したその先で、心の奥底から沸々と湧き上がる、純粋な怒り。
キャロラインの魂は愚直なほどに真っ直ぐで、こんな時ですら、面倒事を放り出せない。
キャロラインは怒りをエネルギーに変えて、前へ進む。
いつだってそうやって生きてきた。今さら生き方は変えられない。
踵を返したキャロラインは、来た時と同じルートを辿って教会の中へ戻った。
* * *
時計塔へと続く回廊を、急ぎ歩くクレア――その後ろ姿を見据えながら、キャロラインは足早にあとを追う。
妹は人に見られることを嫌ったのか、側面通路を抜けて回廊に入った。
もしもクレアが皆のいる聖堂を通過していれば、妹の親衛隊が目ざとく気づいたはずで、キャロラインがあとを追うのを邪魔したに違いない。クレアがコソコソ移動してくれたおかげで、キャロラインもすんなり時計塔に辿り着くことができた。
時計塔の四角く閉じた縦長の階段室は、ひどく薄暗かった。視覚が制限されるため、聴覚は過敏に音を拾う。
キャロラインは階段を上がり始めた。
妹は誰かが追いかけてくるのに気づいただろうが、相手はフェリックスであると考えたかもしれない。クレアは話を上でするつもりらしく、足音が止まることはなかった。キャロラインは無言でそれを追いかけて行く。
四角四面を這う、かね折れ階段を上がり、曲がって上がり、曲がって上がり……
上って曲がり、上って曲がり……
ひたすら単調に足を進める。
次第にこの工程にのめり込んでいった。
薄闇のなか機械的にふたりの足音が響く。視界から得られる情報は極端に少ない。
不意にこの道程にも終わりが訪れ、釣鐘をぐるりと囲う開放的な回廊に出ていた。
先に最上階に着き、西の空をぼんやりと眺めていたクレアは、背後の足音に気づいて、迎え入れるように振り返った。
現れたのがキャロラインだと知ったクレアは、驚いたように目を瞠った。
次いで彼女のおもてに浮かんだのは、『邪魔が入った』という苛立ちだった。
「……姉様、なんの用?」
ふてぶてしくも、クレアがそう問うてくる。
なんの用? じゃないでしょう……早速小言を言ってやろうと思ったのに、口を開きかけたキャロラインは、言葉が出て来なくて困った。
言葉が通じない相手に、何をどう伝えたらいいのか分からない。何を言おうが彼女には響かないのだから、関わること自体が無駄なのではないか。
いっそのこと何もせずに、このまま帰ってしまいたいくらいだった。
しかしそれで迷惑をこうむるのは、無関係のフェリックスである。彼に面倒事を丸投げするのは、キャロラインの矜持が許さない。
とにかくこうして見つめ合っていても、埒が明かないのは確かだ。不愉快なことは早く終わらせてしまおう。
「あなたは約束を破ったわね――フェリックスとは接触しない、叔父様とはひとりで会い、別れ話を告げると誓ったのに――あなたはどこまで愚かなの」
「私、これからちゃんと叔父様と会って、別れ話をするつもりだったわ」
クレアは悔しそうな顔で、涙を滲ませてこちらを睨んできた。
「なのに、なんなの……どうして私の行動を一から十まで監視して、嫌なことばかり言うの? 今日ここでフェリックス様と会おうと思ったのは、叔父様と別れ話をする前に、彼の気持ちを聞いておきたいと思っただけなのに」
クレアの訴えはキャロラインを納得させるどころか、かえって怒りに火を注ぐ結果となった。
「何を言っているの? フェリックスの気持ちを聞いておきたいって、どういうこと? もしかしてあなた、彼の気持ちが自分になかったら、叔父様とは別れないつもりだった?」
「それは……そうは言っていないわ、だけど……だけどそう、どちらにせよフェリックス様が私に好意を抱いているのは確かなんだから、叔父様とはもちろん別れるわよ」
「どうしてそんなことが分かるの? あなたはフェリックスじゃないでしょう? それなのに彼の気持ちが分かるの?」
「目を見れば分かるわ! 相手が自分に気があるかどうかなんて、目を見れば分かるわよ。姉様はモテないから、分からないかもしれないけれど」
「別れ話のひとつも纏められないくせに、いっぱしの口をきかないで! あなたの甘ったれた顔を見ていると、頬っぺたを強く叩いてやりたくなるわ」
「姉様はいつもそうだわ、私のことを馬鹿にして! 私だってちゃんとできるのに! 私は馬鹿じゃない!」
「お前はこの国で一番愚かな女よ。考えなしで、憐れな娘」
「そんなことないわ。姉様は意地悪よ、私にヤキモチを焼いているんだわ」
「お前のように愚かで薄汚い娘に、誰がヤキモチを焼くのよ。そもそもお前のことを本当に愛している人間が、この世の中にいるのかしらね?」
キャロラインが口にしたこの台詞は、想定外のダメージをクレアに与えたようだった。彼女は心底傷ついたというような顔をした。
クレアはいつだって自信満々に振舞っているようだけれども、もしかするとそれは単に、虚勢を張っていただけなのかもしれない。
彼女の中に揺るぎない自信があるのなら、他者から貶められたとしても、こんなふうに傷ついた顔はしないはずだ。
「私はフェリックス様を愛しているのよ……姉様なんかより、ずっと彼のことを大事にできるわ……」
とうとうクレアはみっともなく泣き出してしまった。
けれど彼女の涙にほだされるのは、頭の悪い親衛隊だけだろう。
「本当に頭が悪い子ね……いいわ、これからあなたが迎える結末を教えてあげる。叔父様はあなたを手放しはしない――あなたに溺れているのよ。彼はあなたに堕ちたの。そうでなきゃ当時十三だった姪っ子に手を出すような、馬鹿なことはしていないでしょう。そんな獣じみた真似」
「でも叔父と姪は結婚できるって、法律では決まっているわ。だから獣だなんて言うべきじゃない。私たちの交わりは、純粋な愛の行為だったのよ」
あなた、よく法律なんて知っていたわね……この娘が口を開くたびに、いちいち皮肉めいた突っ込みを入れたくなる。
自らを擁護してくれる内容ならば、小難しい法律であっても頭に入るらしい。
もうすこし平らに情報収集をしてくれれば、こうも私をうんざりさせるモンスターが出来上がることもなかったでしょうに。
……というか、頭が悪いくせに口が達者って、人として最悪なんじゃないの? 神様はどうしてこんな間抜けに、喋る権利を与えたのかしら。
「愛の行為だとしても、叔父の行いは常軌を逸している。彼はあなたに執着しすぎて、逆恨みでフェリックスを殺そうとしているのよ」
「そんなことにはならないわ。私がちゃんと叔父様を説得するから!」
「ならばフェリックスではなく、あなたが殺されるでしょうね。あなたたち、十三歳から、何年間ベッドを共にしてきたの? あなたがフェリックスの妻になったとして、社交界で叔父と顔を突き合わせて、平気な顔をしていられるの? どういう神経しているの? あなたはフェリックスのことを好きだと言うけれど、本当は好きでもなんでもないのよ!」
「勝手なことを言わないで! 彼の婚約者という立場を、姉様が無理やり奪ったんじゃない! 私はずっと姉様になりたかった! 私は本当に彼を愛しているの。彼のためなら、なんだってできるわ」
クレアの身勝手な物言いに、キャロラインの視界が怒りで赤く染まる。
――お前が愛を語るな。
愛のなんたるかも知らないくせに。
「あなた今『なんだってできるわ』と言った? は――聞いて呆れる。あなたがフェリックスへ愛を捧げると言うのなら、彼のために死になさい。あなたが死ねば、叔父様はフェリックスにお門違いな嫉妬心を向けることもなくなるでしょう。死ぬのが嫌なら、あなたは叔父のもとに嫁ぐしかない。彼と結婚なさい」
「それは死んでも嫌よ。私はフェリックス様を愛しているの!」
「でもフェリックスはあなたを選ばない。彼は、股の緩い娘が嫌いだから」
「ひどいわ……私が死んだら彼は悲しむわ」
「試してみたらいいんじゃないの? 愛に生きると言うのなら、愛のために死ねばいい」
キャロラインは挑発するような台詞を繰り返しながらも、妹が死ぬはずないと高を括っていた。
クレアは利己的で、自分が一番可愛い女だ。誰に何を言われようが、絶対に死を選ぶことなどない。
クレアの愛は紛いものなのだから、彼女はそれを潔く認めるべきだ。
キャロラインは目の前の愚かな娘を眺め、憐れみを込めた笑みを浮かべた。
「……あなたの愛って、いつだってそう、ただのままごとなのよね。考えてみれば、叔父様は可哀想だわ。彼はあなたを愛したせいで、フェリックスを殺そうとした。そのうちに穢れた罪は暴かれ、彼は絞首台に上がることになるでしょう。けれど……元凶のあなたは? あなたは何も失わない代わりに、何も得ることはない。あなたは誰も愛せない人よ――フェリックスのことだって、結局のところ愛せない。だって彼のために死ぬなんて、あなたには無理だから。あなたは絶対にそこから飛ばないわ」
クレアが時計塔の外に足を踏み出せば、地面まで真っ逆さまだ。
しかしクレアは足を踏み出さない。それは愛を知らない彼女が決して超えることのできない一線なのだ。
クレアは涙に濡れた目で、キャロラインを見つめていた。その瞳は瞳孔が開き、どこか空虚だった。
「私……本当に彼のことが好きなの。……いいわ、見てらっしゃい」
そう言って彼女は、足を一歩踏み出した。外壁ギリギリのところまで。
それを眺めながらも、キャロラインの冷めた心は揺らがなかった。
飛び降りるわけがない――この娘が死ぬわけがない。
けれどその一方で、死んでしまえばいいのにと、突き放したように考えている自分がいる。
この神経をすり減らす不毛なゲームに疲れ果てていたし、これ以上はキャロラインのほうだって耐えられそうになかった。
妹はいつだってこんなふうに他人の気を引こうとするし、いつまでたっても甘ったれた依存心が消え去らない。
温度のない瞳で、キャロラインはクレアを眺める。
クレアはジリジリと爪先を伸ばす――すでに足の半分が壁の外に突き出している。彼女は唇を噛みしめ、思い詰めた様子で、足元をじっと見おろしている。
背を丸めて佇むクレアは、何かを待っているかのようだった。
……でも、何を? キャロラインは空っぽの心でぼんやりと考える……クレアはフェリックスがここへ来るのを待っているのだろうか。
彼女の背中から緊張が伝わってくる。
この瞬間でもキャロラインはまだ高を括っていた。
きっと今にも振り返って「ああ、やっぱりできない!」だとか「私の心は悲しみで張り裂けそう!」だとか、涙目で安っぽく訴えてくるはずだ。悲劇の主人公みたいに。それで曖昧に誤魔化し、こちらに戻って来るに違いない。
ほら、きっと、すぐに振り返って――……
キャロラインの中で、幻想と現実が交錯した。
クレアは悲しげな顔で振り返り、
「……姉様は私のことが嫌いなのね。慌てもしない」
小さな呟きを漏らした。
――それが最後の台詞だった。
刹那、その姿が視界からかき消える。
一拍置き、遥か下から鈍い物音が響いてきた。
キャロラインは眩暈を覚え、一瞬自分がどこにいて、何をしていたのか分からなくなった。
クレア……クレア?
彼女がいたはずの場所には、鈍色の空が広がっている。
彼女はいない。そこにいない。
だってクレアは――……
クレアは落ちてしまったから。
――落ちた――落ちた――
――落ちた落ちた落ちた――
どうして?
まさか死ぬなんて。まさかクレアが死ぬなんて。
混乱の最中、もうひとりの冷静な自分が、頭の中で囁く。
――いいえ、「まさか」じゃないでしょう?
あなたは妹が死ぬことを知っていたはず。それどころか妹が死ぬように、巧みに誘導したのでは?
……ああそうだ、分かっていたはずだ。
だってクレアはキャロラインに依存していたのだから。
おそらくクレアにとっての唯一無二は、キャロラインだった。
フェリックスでも、叔父のミンズでもない――あの子はただひたすら愚直に、キャロラインの愛を求めていた。
父母は妹に甘かったが、それは愛情が欠如したゆえの甘さで、自分の玩具を好き勝手に扱っているかのような無責任さがあった。
妹は「私は親に愛されている」と強がりながらも、心の中では彼らの身勝手さを責めていたのだろう。
それに対し、姉が自分に向けてくる感情はいつだって、混ざりけなしの本気であると、愛に飢えていた彼女は気づいたはずだ。
だからキャロラインが思っていた以上に、クレアは姉のことを好いていた。
その絶対的存在であるキャロラインに拒絶され、「死ねばいい」と告げられ、彼女としては突然暗がりにひとり放り出されたような絶望を味わったのだろう。
キャロラインの体が震え出した。
頭の回る自分はそれらをすべて計算した上で、上手くクレアを誘導して、彼女の足を前に進ませたのではないか?
私がクレアを殺した……私が……キャロラインはその事実に恐怖した。
そこへフェリックスが駆けつけてきて、何かを言ったようだけれど、まるで頭に入ってこなかった。
キャロラインは今この瞬間、フェリックスにだけは会いたくなかった。
動揺するまま交わした会話の内容は、よく覚えていない。
キャロラインは彼を押し退けるようにして、ひとりその場から逃げ出した。




