2
テスター家の当主は入室してきたフェリックスの顔を見ると、にこやかに微笑みながら腰を上げた。
次女のほうは彼が現れるやいなや目を丸くして、入って来た青年の端正な顔に見入っている。
フェリックスは女の子からこのような熱視線を向けられることには、すっかり慣れっこになっていたので、この無遠慮な態度については特に眉を顰めるでもなかったし、それで有頂天になるでもなかった。
明るい金の髪に深い青の瞳を持つフェリックスは、まるで絵本に出てくる王子様のような、美しく端正な容貌をしている。
頬を染めて期待に目を輝かせる次女、妙ににこやかなテスター家の当主、そして貞淑に微笑む彼の妻――順繰りに一同の顔を見回していったフェリックスは、長女であるキャロラインにふたたび視線をやった瞬間、背筋がゾクリとする心地を味わった。
キャロラインはその時、どういう訳か父母妹を油断のない目つきで観察していたのだが、フェリックスから見られていることに気づくと、その菱形の美しい瞳をさっと上げ、こちらを真っ直ぐに見据えてきた。
――視線が絡んだ瞬間、目の前で火花が散ったような心地がした。
彼女の瞳には刃のような鋭さがある。
大抵の人はそれを憎悪と取るだろう。彼女の在り方はあまりにも苛烈だったから。
しかしもしかすると、それを愛だと表現する者もあるかもしれなかった。
とにかくキャロラインの瞳は、比類なき特別なものとしてフェリックスの存在を認めていたし、まるでこの世界に彼しか存在しないかのように、全身全霊をかけて彼だけを見つめてきたのだ。
しかしこの濃密な接触はほんの一瞬であり、彼女はすぐに視線を逸らしてしまった。
その後に起こった出来事はあまりに馬鹿馬鹿しく、そして狂気に満ちていた。
この時のことをあとで思い返してみても、フェリックスはどうしてあんな騒ぎになったのか、よく分からないのだ。
キャロラインは椅子から立ち上がり、足を踏み鳴らしながら、駄々っ子のように部屋の中を歩き回り始めた。
その異様な行動を、テスター家の面々は唖然として眺めている。
やがて我に返った様子のテスター伯爵が、彼女を止めようとした。
「どうしたんだ、キャロライン」
彼の声音は焦りからか、ひどく上擦っている。
しかし当のキャロラインは態度を改めるどころか、大きな声でヒステリックに喚き始めた。
「私、決めたわ! この方を私の伴侶にします――ええ、そうよ、今決めた――父様、いいでしょう? 私は彼と絶対に結婚するわ! それが無理なら私、何をするか分からなくてよ!」
「待ちなさい、勝手を言うものじゃない。彼の意見もまだ聞いていないんだぞ」
そう制するテスター家の当主を、キャロラインは癇癪を起したように睨みつける。
歩き回っていた彼女は、急ぎ足で先ほどまで腰を下ろしていた椅子の所まで戻ると、細腕を振り上げてそれを掴み、勢い良くひっくり返した。
椅子が床に叩きつけられる、嫌な音が響く。
次女のクレアはビクリとその細い肩を揺らし、不安そうに父の胸に縋る。
表面上は穏やかだった家族の集いが、いまやキャロラインの暴力に支配されていた。
フェリックスはただ唖然として、この成り行きを見守るしかなかった。
しかし一度着火したキャロラインの怒りはなかなか治まらない。
「もしも彼との結婚を邪魔する気なら、私は可愛い妹の顔を傷つけてしまうかもしれないわ! 私は自分自身を抑える自信がないの――だって私はおかしいのだから!」
その後どうやって家に帰ったのか、フェリックスはよく覚えていない。
テスター家の家令に有無を言わさず部屋を押し出され、立ち止まる隙も与えられずに、問答無用で馬車に乗せられたような気がする。
ひとり帰路につきながら、彼女の怒鳴り声が、耳の奥にこびりついていた。
フェリックスは馬車の座席にぐったりと背を預けた。
彼は良く晴れた空を眺めながら、ぼんやりとこんなことを考えていた。
――僕はきっと、あの姉のほうと結婚させられるのだろう。
なぜよりによって姉のほうなのか? それは彼自身にもよく分からなかった。
しかしあのキャロラインがそう宣言したのだから、きっとそのとおりになるに違いない。フェリックスは漠然とそう考えていたのだ。