19
引きずるようにして妹を家に連れて帰る。
部屋にクレアを放り込み、乱暴に椅子に突き倒した。
妹は怯えた顔でこちらを見上げ、『善良な私が今まさに恐ろしい暴力に晒されています』とでも言いたげな、怯え切った表情を作っている。
まったく忌々しいことに、この女は被害者ヅラが上手い。キャロラインの心に激しい怒りが甦ってくる。
「そのしみったれた顔つきをやめてくれない? もう、いい加減にして! 今さら純情ぶるのはやめてよ!」
叩きつけるようにキャロラインが怒鳴ると、妹は驚いたように目を見開いた。鈍感なクレアなりに、姉の様子がいつもと違うことに気づいたようだ。
キャロラインが演技で怒鳴ることはよくあった。クレアは身内ならではの付き合いの長さから、姉が傍若無人な振舞いをしている時、大抵のケースで本気ではないことを感じ取っていた。
しかし今は違う。
先ほどの丘での一件もそうだが、キャロラインはこのところひどく感情的になっているようだ。
しかし世慣れたクレアは、驚きから立ち直るのもそれなりに早い。
一拍置くと、居直った様子できっと姉を睨み上げ、
「……私ばかりを責めるのはやめてよ、私は悪くないもの」
とすぐに駄々を捏ね始めた。
――この女――……キャロラインは髪を掻き毟りたくなった。そしてこの甘ったれ女の頬をぶん殴って、奥歯を叩き折ってやりたくなった。
「この期に及んでまだ『私は悪くない』と言ってしまえる、その図太い神経に憧れるわ。あなたも大人の女を気取るんだったら、別れ話くらい綺麗にまとめなさいよ。どうかしてるんじゃない?! いいわ、じゃあ――あなたがフェリックスと付き合いたいのだったら、私はもう文句は言わない」
キャロラインの言葉に反応して、クレアの瞳がさっと輝きを放った。
この状況でまだフェリックスと付き合えると思っている、この鋼の精神力――なんなのだ、このクソ女は。
キャロラインはクレアに「フェリックスと付き合いたいのだったら、私はもう文句は言わない」と言いながらも、それを許可する気は微塵もなかった。けれどこちらが一旦譲歩してやらないと、話が前に進まない。
「嬉しいわ、お姉様が交際を認めてくれて。その……だけど本当は、お姉様が『認める』『認めない』を判断するのはおかしいのだけれど」
前半と後半の一貫性のなさが気持ち悪い。
キャロラインの眉根が寄るが、話の本題はこれからだと、気分を切り替えることにした。
クレアにはこれから伝える内容を、肝に銘じてもらわねばならない。
「ただし――その前に、これだけは守ってもらうわ」
「え?」
何か条件があるの? 面倒……というクレアの顔。
「あなたがフェリックスと付き合うのは、今の男との関係を断ち切ったあとよ」
「だけどお姉様、フェリックス様と付き合えば、叔父様との関係は自然に切れるわ」
おい……この馬鹿娘は何を言っているんだ?
キャロラインは驚きが一周して逆に冷静になりかけたのだが、ここで怒りのテンションを引っ込めては妹の思う壺だと思い、無理にテンションを引き上げなければならなかった。
「あなたがフェリックスと付き合い始めても、それで叔父様と別れたことにはならない! 叔父様に嫌いになったことを伝えて、彼の理解を得なさい。それで、別れ話の際には、絶対にフェリックスの名前を出してはだめよ」
「どうしてなの? だって私はフェリックス様と付き合うのだから、それを叔父様にはっきり伝えるべきだわ」
フェリックスとはまだ付き合ってもいないし、本人の気持ちも確認していないのに、「フェリックスと付き合うから、あなたと別れます」と宣言する気なのか? この能天気女は。
脳味噌に何がつまっているのか確認するため、斧でかち割ってやろうかしら。
「あなたは本当にフェリックスのことが好きなの?」
キャロラインが問う声は地を這うように低い。
ふたたび姉の機嫌が急降下したのを感じ取ったらしいクレアは、身体を縮こませながら小さく頷く。
「もちろんよ、私はフェリックス様を心から愛しているわ」
「愛しているならば、フェリックスに迷惑をかけないようにすべきじゃないの? 叔父様との別れ話が拗れたら、彼がフェリックスに嫌がらせをするとは考えなかった? 現にフェリックスは何度も命を狙われているのよ?」
「そんなのって……え?……私のせいで、フェリックス様が危険な目に遭っている、だなんて……」
フェリックスが命を狙われていることについては、確か先日も話してあったはずなのだが、クレアは『たった今初めて聞きました』という様子で瞳を潤ませている。
彼女はいつだってこんな具合だ。
お気に入りの話題を長く楽しみたいという、ただそれだけのつまらない理由で、同じ話であっても、何度も何度も繰り返し説明してもらいたがる。
クレアは打ち震えながらも、なんとなく満足そうな顔をしている。
もういっそ死んでほしい。こんな女、地獄に堕ちればいいんだ。
「悲劇のヒロインぶるのも結構だけど、現実を見なさい。叔父様がフェリックスを殺したら、彼はこの世からいなくなるの。あなたは未亡人になるどころか、籍を入れる前に、未来の夫が目の前から消えてしまうのよ!」
そこまで言われて、やっと妹の理解が進んだらしい。素早く視線を巡らせ、了承の意を示す。
「わ、分かったわ……叔父様にきちんと別れを告げます」
「理解してもらえてよかったわ。いい? ――あなたは叔父と会い、『もう嫌いになったから別れましょう』と言うの。フェリックスの名を一切出すことなく――分かったわね?」
しつこいようだが、念押ししてやった。
この女は鶏並みの記憶力しか持たないので、すべきことを何度も繰り返し整理して伝えてやらないと、絶対に上手く対処できないのだ。
しかしこんなに馬鹿なくせに、夜の作法はきっとすぐに会得したのだと思うと、ますます腹が立ってくる。
この手の人間は、自分が興味のあることならスルスルと頭に入るのだ。
キャロラインはクレアに関するすべてに嫌悪感を覚えた。
* * *
妹はすぐにでも叔父と手を切ると約束したのに、いつまでたってもそれを実行に移す気配がなかった。
……どうして未着手であると分かるのか? それは至極簡単な理屈である。
なぜならまだ、当家に叔父が怒鳴り込んで来ないからだ。
それから、もうひとつ――妹が静かすぎる。
クレアの性格からして、男に別れ話を切り出すという人生の一大イベントをやり遂げた日には、『すごいでしょう、見事、私はやり遂げましたよ! やってやりましたよ!』と自慢してくるに違いないのだ。
そして「これから私、フェリックスを口説いてきますね?」という、気持ちの悪い予告くらいはするはずである。
なぜならクレアは、国内でも五本の指に入るほどの、病的な『かまってちゃん』なのだから。
……けれど変化なし。
今か今かと知らせを待つキャロラインからすると、先の見通しが立たない状態が続くのはかなりしんどいものだった。
日数を重ねるごとにストレスは溜まり続けていき、とうとうそれが爆発する時がやって来る。
それは慈善活動で教会に集まる日の朝のことだった。
「クレア――叔父様に別れ話を切り出したんでしょうね」
まだなのは承知している。キャロラインはクレアから、できていない言い訳を聞きたいわけではない。ただ妹の尻を叩きたいだけだ。
しかしこのあと――妹が仰天の告白をしてきて、キャロラインは度肝を抜かれることとなる。
「これからよ。実はね、今日、フェリックス様とふたりで将来のことをじっくり話し合おうと思っているの。それで今後の方向性が見えてから、叔父様に別れを伝えよるつもり。……だってね? もしかしたらフェリックス様は、私と叔父様との話し合いに、同席したいと言うかもしれないでしょう?」
はにかんだ様子でそう語るクレアを前にして、キャロラインは血の気が引いていくのが分かった。
え、今……この女はなんと言ったの? 空耳? あれだけ言い聞かせた結果が、これ? 嘘でしょう?
握り締めた拳が震え出す。
「このあいだ約束したじゃない……あなたひとりで叔父様と決着を着けるって、誓ったじゃない……それなのにどうして、フェリックスを巻き込む気でいるのよ」
声がみっともなく震えてしまう。
フェリックスがクレアの別れ話に付き添うはずもないのだが、この期に及んでまだ、『彼に相談してから』と言えてしまう、この女のイカレた思考回路ときたら。
どれだけ無神経なのだ、この女は。
姉から否定的な言葉を言われ、クレアは『まったくこの人は、いつだってガミガミと小言ばかり』と不貞腐れ、キャロラインのことをじっとりと睨み上げる。
「なによ……それは姉様の考えでしょう? 私には私の考えがあるのよ。今日、フェリックス様ときちんと話すんだから、放っておいてよ」
「放ってなんかおけないわ、いい加減にしなさいよ」
「姉様には関係ない」
「ああ、そう、分かった――あなたには道理を説いても、伝わらないのね」
クレア――そんなふうに強く出られる立場なの? 舐めないでほしい。いいわ、あなたに思い知らせてやる。
「――すべてぶっ潰してやるから、覚悟なさい」
キャロラインが殺気を込めて言い放てば、クレアの顔に初めて怯えが浮かんだ。
平素彼女はキャロラインのことを甘く見ているところがあったのだが、それでも姉が腹を括った際にどれだけ苛烈な行動に出るかはよく承知していた。キャロラインの今の声音を聞くに、どうやら本気らしいとクレアは悟ったのだ。
キャロラインはいつでも好き勝手に暴れているように見えて、実際のところすべてを冷静に計算し、乱暴の度合いを繊細に調整している。
よく知らない人が見れば、キャロラインの奔放な行動は無軌道で危険だと恐れを抱くかもしれない。しかし『キャロラインが意外に常識人』であることを知っていれば、彼女の暴れっぷりは予定調和の寸劇にしか感じられない。
しかし普段のキャロラインが危険人物を『演じている』からといって、彼女が臆病者であるということにはならないのだ。
彼女はやる時はとことんやる性分だからこそ、普段は意識してブレーキをかけているにすぎない。だから本人がリミッターを外したのだとしたら、それはあまりに危険な兆候だった。
色々なことを正しく悟ったクレアの顔が青褪めるが、もうこうなっては、キャロラインのほうは一切容赦をするつもりがなかった。
「前にあなたの口から聞いた、父上の秘密――あれらを大勢の前で全部ぶちまけてやるわ。私が堕ちる時は、全員底辺まで堕とす――いいわ、私たち、皆で仲良く貴族階級から転がり落ちましょう。そして薄汚い路地裏を彷徨い、残飯を漁って生きていくの」
「お姉様はこの豊かな暮らしを捨てると言うの? そんなの正気の沙汰じゃないわ」
「ええ、ええ、私は正気じゃないわよ。物心ついた時から、イカレているんですからね」
段々と気分が良くなってきた。初めからこうしていればよかった。
馬鹿を脅すのは気持ちが良い――……いや、本当は気持ち良くなんかないのだけれど、妹の馬鹿さ加減に対抗するには、こちらも同じレベルに落ちなければ、到底太刀打ちできない。
妹は十分にことの重大さが身に染みた様子だが、もう少し脅しておこうかしらね。
「私はお前の甘ったれた気質には、本当にうんざりしているのよ。お前をギャフンと言わせるためなら、なんだってしてやるわ。――何よ、そのびっくりした顔――私に恨まれる心当たりがあるでしょうに。あるわよね? あるでしょう? 私がお前をいじめているっていう、馬鹿げた噂が出回っているらしいじゃないの。ん……あら、どうしたの? そんなふうに必死になって首を横に振って、『私は知りません』という演技をする必要はないのよ? だってね、あの噂をばら撒いたのがお前だってことは、もう分かっているのだから。――よくもやってくれたわね。どうせだから噂どおり、お前を鞭打ってやろうかしら。私はお前の息の根を止めるためなら、なんだってしてやるわ」
妹の顔色は悪くなっていく一方だった。そのうちに貧血でぶっ倒れそうだが、そのまま息が止まってしまえばいいのにと思う。
もう肉親の情などこれっぽっちもありはしない。
いや、こんな馬鹿と血が繋がっていると思うだけで、気が狂いそうだった。
この世の中で親族ほど厄介な存在はないと思う。クレアが他人だったなら、キャロラインだってもう少し寛容になれたはずだ。
――一方、クレアは。
クレアは姉にまつわる悪い噂を広めた自覚があったので、キャロラインに怒りを向けられ、とてつもないバツの悪さを感じていた。
だからこそ姉から「お前の息の根を止めるためなら、なんだってしてやるわ」と宣言された時、震え上がってしまったのだ。
クレアに選択肢は残されていなかった。
それで弱々しく声を震わせ、先日交わした約束を、もう一度誓い直すことになった。
「分かったわ、お姉様――今日、叔父様に別れ話をします。慈善活動が終わったら、ちゃんと言いに行きます。その時にフェリックス・ノウルズは連れて行きません」
当たり前だ。「フェリックス・ノウルズは連れて行きません」と語るお前は、何様なのだ。
フェリックス・ノウルズはお前の犬じゃない。
キャロラインはもう何もかもが嫌になり、吐き気をこらえて部屋をあとにした。
あの愚かな娘と同じ空気を吸っているのが、もう一時たりとも耐えられそうになかった。




