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姉はもういない  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
【 裏 】

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18/26

18


 あの日キャロラインとフェリックスは、古い友人同士のように穏やかな時間を過ごした。


 もう二度とあんなことがあってはならない……キャロラインはあとになり、あの日の軽率な行動を深く反省したのだが、フェリックスのほうはどうやら考えが違ったらしい。


 なぜかというと、あれ以来キャロラインと対面した彼の瞳に、陽だまりのようなあたたかみが宿るようになってしまったからだ。


 この変化はキャロラインを盛大に混乱させた。


 こんな目で見つめられては、憎まれっ子の役割を務め上げるのが非常に困難になる。


 彼がテスター家を訪れた際は、クレアの邪魔が入るからまだいい。


 けれど外で不意に出会った時などは、もう最悪だった。


 キャロラインがツンケンした態度を心がけたとしても、彼が物柔らかに瞳を細めて、悪戯な子猫をじゃらしつけるような空気を醸し出すものだから、これじゃどうあっても勝てる気がしない。


 結果、キャロラインは頬を赤く染め、恨めしげにフェリックスの端正な顔を睨みつけながら、


「お、覚えてらっしゃい! 馬鹿!」


 とド低能な三下さんしたがいかにも吐きそうな捨て台詞を残し、必死に走って逃げるのが、いつもの定番の流れとなってしまった。


 これはキャロラインとしては不本意極まりない事態だった。


 けれどこの頃はまだこれが許された。


 平和だった。




   * * *




 フェリックスと一緒にいる時、キャロラインはなんだか異常な気配を感じるようになった。


 誰かに見られている……?


 ねっとりと皮膚に纏わりつくような、嫌な感覚が消えない。


 キャロラインは剣の鍛錬を積んできたせいなのか、はたまた根が動物的なのか、人の放つ気配に敏感なところがあった。


 思い切ってフェリックスに尋ねてみると、彼は何事か考え込んだあと、


「……そうなんだよ」


 と小さく頷いてみせた。


 キャロラインがひとりでいる時は、こんなことはなかった。だから狙われているのは彼なのだろう。


 一体誰がフェリックスを?


 それが問題であるが、答えは考えるまでもない。


 ――こんな陰険な真似をするのは、姪っ子にみっともなく執着し続けている叔父ミンズしかいないだろう。


 叔父は本気で十代の青年に嫉妬心を抱いているのか……だとしたらなんと気持ちの悪い男だろう。


 クレアがフェリックスとこっそり会っていないか確認するため、つけ回しているのだろう。


 叔父自らが毎度フェリックスをつけ回しているわけではなく、あの男はお金だけは持っているから、誰かを雇って見張らせているに違いない。


 ただ見ているだけならば、気持ち悪いが放っておくという手もある。


 しかし段々と監視だけではすまなくなってきた。


 一度など、キャロラインがフェリックスと一緒に通りの端に立っていた時に、人混みの中から突然誰かの手が伸びて来た。その手にフェリックスが突き飛ばされ、危うく馬車に轢かれかけるという事件が起こった。


 フェリックスに「こんなことがよくあるのか」と尋ねると、彼はさっと表情を曇らせ、口を閉ざしてしまった。


 そのさまを見て、以前にもあったのだと気づく。


 フェリックスは反射神経でなんとか切り抜けてきたようだが、人間いつかは注意力が切れる。


 彼が一瞬でもツキに見放されたなら、あっという間にあの世に旅立ってしまうだろう。


 こんなのって、あまりに理不尽だ。


 どうして妹の馬鹿げた恋心のせいで、清廉潔白なフェリックスが危険な目に遭わなければならないの?


 怒り心頭のキャロラインは、帰宅するなりクレアの部屋に押し入った。


「あなたが軽々しく叔父と関係を持ったりするから、とんでもないことになってしまった! あなたの狂った恋人は、フェリックスを殺そうとしているのよ! あなたはどう責任を取るつもりなの?」


 腹が立って仕方がないし、必要なことだけ告げたら、これ以上はもう口もききたくない気分だった。


 だというのに察しの悪いクレアは小首を傾げて、「え、どういうこと?」だとか「何かあったの?」だとか、こちらの神経を逆撫でするような間抜けな返しをしてくる。


 それでキャロラインは気が狂いそうになりながらも、今フェリックスが窮地に追いやられていることについて、何度も何度もしつこいくらいに言葉を重ねなければならなかった。


 クレアと関わると、いつだってこのように会話をこねくり回す破目に陥り、キャロラインはこの間の抜けた工程により、なけなしの忍耐力をガリガリと削られてしまう。


 クレアが話を理解できた頃には、キャロラインは卒中を起こしそうなくらいに苛立ちを募らせていた。――もう殺してやりたい!


 姉が本気で腹を立てていると悟り、さすがのクレアもことの重大さに気づいたらしい。


 しかし気づいたとて、このお気楽娘の責任逃れが改まることはないのだ。


「そんなの……でも、私のせいじゃないわ」


 メソメソ泣きごとを口にして、こんな時でさえ同情を買おうとするものだから、今すぐ息の根を止めてやりたくなった。


「どう考えても、あなたのせいでしょ! あなたの男癖が悪いせいで、フェリックスが危険な目に遭っているのよ? よくもそう被害者面をしていられるものよね! 呆れ果てた馬鹿だわ」


 それからキャロラインは、考えうる限りの侮辱の言葉を叩きつけた。


 すべて吐き出すと、ついにはクレアと同じ空気を吸っていることすら耐えられなくなり、彼女の部屋をあとにした。


 この出来事はクレアなりに思うところがあったのか、その後数日はすっかり大人しくなり、部屋で鬱々と過ごしていたようだ。


 もしもこの非常事態であっても、親衛隊と会ってはしゃぎ倒しているようなら、さすがにキャロラインも妹の鼻面に拳を叩き込んでいたかもしれない。


 そして幾晩か淑女らしく過ごして鬱々期を抜け出したクレアは、ようやく叔父に最後通牒を突きつける勇気が出たらしい。


 クレアはめかし込んで念入りにメイクをしてから、叔父に会うため出かけて行った。




   * * *




 小半日たっても妹が戻らないので、キャロラインはクレアの身が心配になってきた。


 頭のネジが二、三個飛んだような娘であっても、妹は妹だ。別れ話がこじれてミンズにボコボコに殴られていたら、さすがに可哀想である。


 そろそろ叔父の家に迎えに行ったほうが良いかもしれない。


 ……とはいえ。


 正直なところ、妹のためにそこまでしてやるのも気が重い。


 男女の別れ話の修羅場に、どうして姉の自分が首を突っ込まなければいけないのだろうか。


 やはりこの問題は妹が決着を着けるべきだし、百歩譲って家族が仲裁に入らないといけないなら、それは家長の役割になるはずだ。


 そこで父と面会して簡単に状況を説明したところ、迷惑そうな彼の顔を拝む結果となった。


 父はいつもどおりに口先だけでその場を切り抜けようとし、


「帰りが遅いってだけで、心配しすぎじゃないのか? その……クレアはお友達と遊んでいるだけさ」


 モゴモゴと呟いて、もう許してくれとばかりにキャロラインの顔色を窺うのだ。


 ……まぁ、こういう人よね。分かっていた――分かっていたけれども!


 分かっていても腹は立つ。


 ふたたび口を開きかけたキャロラインであったが、この時、天啓にうたれたかのようにある考えが脳裏に閃いた。


 そんな、まさか――……


 顔色を変えたキャロラインは足早に部屋を飛び出した。


 妹は昔からつらいことがあるとすぐに、フェリックスに頼っていた。


 今回も同じなのでは? 別れ話がこじれて叔父に殴られ、フェリックスのもとへ駆けつけたのではないだろうか?


 キャロラインは早馬を駆り、フェリックス・ノウルズの屋敷へと急ぎ向かった。




   * * *




 ノウルズ家を訪ねると、対応に出て来た家令から、フェリックスは不在の旨を伝えられた。


「フェリックス様は散歩に出ていらっしゃいます」


 彼が「クレア様も少し前に訪ねていらっしゃいました」と続けたので、キャロラインはお礼もそこそこに踵を返した。


 ふたたび愛馬を駆り、彼と以前お喋りをした思い出の丘に辿り着いてみれば、妹が彼に抱き着いている場面を目撃することとなった。


 クレアはフェリックスにしがみつきながら、なんだかんだと泣きごとを口にしている。


 それを見た瞬間、カッと頭に血が上った。


 溢れ出る衝動――それは嫉妬心から来るものとはまるで違った。妹の辛抱のなさ、甘ったれた性根に対して、殺意にも似た怒りを覚えたのだ。


 ――クレアのせいで彼は命を狙われているのに! まったくどのツラ下げて!


 この呪われたテスター家の血が、もうどうしようもないくらいに忌まわしくなり、我々はフェリックスに不幸しかもたらさないのだと思うと、ただひたすら情けない気持ちになった。


 クレアのあの様子では、別れ話を上手く纏められたとは思えない。


 今日できなかったことが、明日なら上手くできるのか? ――いいや、そんなことはありえない。


 クレアは未来永劫ずっとこんな調子なのだろう。そうして今後もフェリックスに依存し続けるに違いない。


 もうどうしたらよいのか分からなかった。


 妹の首を斬り落として、叔父の首も同じ剣で斬り落として――……それで終わりにできないかしら? やることをやらせてもらえれば、私はもう絞首台に上がりますから。


 この神経を削られるゲームに、キャロラインはほとほとうんざりしていた。


 もともと潔癖な彼女が、小狡い人間の駆け引きに耐えられるはずがない。


 どうしようもない、愚かなクレア――その姿を馬上から眺めるうち、健全な心が凍りついてしまったのかもしれない。


 馬から飛び下りた時には、彼女はもう何もいらないと考えていた。


 だからフェリックスに、『金輪際関わることはない』という意志を込めて、ひどい言葉を浴びせた。


 それは別れの言葉でありながら、もしかすると最大限の、彼女なりの愛の告白だったのかもしれない。


 ――この瞬間――彼を手放そうと決めたことで、皮肉にも、彼女は自分の気持ちに気づいた。


 ああ、そうか――私は彼を愛している。心から愛している。


 いつからだろう? 自分ではよく分からない。


 正直に彼と言葉を交わしたことなど、ほとんどなかったように思う。


 フェリックスとのやり取りはいつも狂気じみていて、作りものめいたものばかりだった。喧嘩をしていない時ですら、核心に触れぬよう、本心を隠してばかりだった。


 だからフェリックスはキャロラインに対し、強い嫌悪を抱いてもおかしくなかった。


 それなのに彼は、友愛の情のようなものをこちらに向けてくれた。


 もう……それだけで十分ではないか。


 これまで引き延ばしすぎたくらい。


 キャロラインはたぶん……彼を手放すのが惜しくなっていたのだ。


 彼のそばはとても心地が良いから。


 優しい瞳を向けられると、そんな資格はないのに胸が高鳴った。


 過去に本気で喧嘩しかけた時でさえ、ふたりのあいだでは意志疎通ができていたように思う。


 キャロラインの家族と違い、彼女が投げかけた怒りを、彼は真正面から受け止めてくれたし、同等のものを返してくれた。


 キャロラインの知能はテスター家の中では高すぎたのだろう。


 彼女の言葉を誰も理解できないから、不幸な乖離が生じていた。会話が成立しなければ、関係が深まるはずもない。


 キャロラインは家族の浅はかな行いを恥じていたし、その辛辣なものの考え方は、知らず彼女自身を深く傷つけることになった。家族を愛せない自分は、人間失格のような気がしたからだ。


 けれどフェリックスと一緒にいると、まともな人間になれたような気がした。


 心の奥底にしまい込んでいて、自分でもどこにそれがあるのか分かっていないような、善良性、あたたかな気持ち、思い遣り――そういった大切なものを、彼と一緒にいると思い出せる。


 生まれて初めて、自分自身に期待をすることができた。……もしかしたら自分も、そう見下げたものではないのかもしれないと。


 けれどそれも終わりだ。


 これ以上彼を巻き込むわけにはいかない。


 もうこれで終わりだと固く心に誓い、「あなたさえいなければ」と血を吐くような思いで彼をなじった。


 彼の瞳には強い執着が見え隠れしていて、それがキャロラインの心を深く深く傷つけた。


 つらすぎる。


 別れを言うのもつらいのに、彼に縋られたら、また倍の覚悟で拒絶しなければならない。自分にはもうこれ以上耐えられない。


 キャロラインの善良性は、フェリックスがいなければ顕在化しない。


 彼を切り捨てたら、自分は人間ではなくなるだろう。化けものに成り下がるのは分かっていた。


 それでもあえて告げよう――あなたとはもう共に歩めない。


 ――お願いだから、私を捨ててほしい。


 ――お願いだから、あなたから私を捨ててほしい。



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