17
火の玉のように熱く爆ぜて始まった、叔父と姪の秘密の恋は、年月を重ねるごとにどす黒く燻ぶり。
初期の頃はかろうじて持っていた輝きや純粋さを、すっかり失くしてしまった。
叔父はクレアを殴ることが多くなり、妹は殴られ始めてから叔父への恐怖心が芽生えたようで、段々と彼への愛が冷めていったようである。
以前はなんだかんだ言いながらも、束縛される程度ならば愛を感じられたようなのだが、実際に拳を振るわれてみると、話は変わってくる。
クレアとしては、『若く美しい自分が、どうして暴力を振るってくる年増男の言いなりにならねばならないのか』という、反抗的な心が芽生えたらしい。
加えて病的に夢見がちなクレアは、自分が叔父と切れさえすれば、フェリックスと結婚できるのだと本気で信じているらしかった。
彼女は取り巻きの親衛隊から「美しく可憐な君こそ、理想の花嫁だ」と囁かれ続けて、「そうよ、評判の悪い姉よりも、フェリックスの花嫁に相応しいのは、この私よ!」と、元々のお気楽な考えを強めていったらしい。
キャロラインとしては確かに、自分がフェリックスの花嫁に相応しいとは考えていない。
けれど、だ。
では、妹なら相応しいか? と問われれば、これまたしつこいくらいに堂々巡りの考察になるのだが、やはりクレアにはフェリックスの花嫁になる資格はない。
だからクレアには叔父とは一刻も早く別れてほしいものの、別れたあとは、フェリックスではない別の相手を探してほしいと考えていた。
しかしクレアは昔から彼のことが好きだったようだし、現実問題として、フェリックスほど見目麗しく優雅な青年がほかにいようはずもない。そうなると、「別の男を探せ」と言ってやっても、妹は絶対にフェリックスを諦めないだろう。
そんな訳でキャロラインは、何かしらの手を打つ必要に駆られていた。
そこである日の午後、思い切ってノウルズ家を訪ね、フェリックスを散歩に誘ってみた。
対面した彼はキャロラインに誘われ、戸惑ったように動きを止めてしまった。
眉間がピクリと動き、口を開きかけて、閉じる。
……断られるかしら?
キャロラインがじっと見つめていると、彼は結局、「いい場所がある」と呟いて、小高い丘の上に連れて行ってくれることになった。
丘を目指して森の中を歩いている時は、まだよかった。ただひたすら足元に視線を落として、歩くことに集中できたから。
しかし開けた場所に出てしまったら、もうだめだった。
フェリックスがなんだか緊張したようにこちらを振り返るので、キャロラインも緊張が伝染して、コクリと喉を鳴らしてしまう。
ふたりとも糸で釣られた操り人形のようにギクシャクしながら、丘の上に並んで腰を下ろした。
柔らかい草の感触が、キャロラインの細い指をくすぐる。
丘陵に生い茂るイワダレソウの緑と、崖の向こうに広がるくっきりとした水平線の、濃い青――その鮮やかな色の対比に見惚れ、キャロラインはしばらくのあいだ声を出すのも忘れていた。
さぁ……と強く吹き抜ける潮風を受けていると、ソワソワしていた心が段々落ち着いてきて、なんだかとても満たされたような気持ちになる。
ふたりは男同士みたいに、あぐらをかいて座った。
キャロラインにはしっとりした色気があるのに、不思議とこのような少年めいた仕草が似合う。
ふたりはまだ若干互いを意識していたものの、緊張が幾分ほぐれてきたキャロラインは、勇気を出して話を切り出してみた。
「ねぇ、ちょっと相談があるのだけれど」
キャロラインがちらりとフェリックスを見遣ると、彼はじっとキャロラインを見つめて言葉を待っている。
そんなフェリックスを見て、『今日の彼はなんだか嫌に従順だわ』とキャロラインは考えていた。
彼が意地悪を言わずに、こんなふうにただ受けの姿勢を保っていのはかなり珍しい。
キャロラインは躊躇いを振り切るように大きく息を吸い、
「――あなた、あと三十キロばかり太る気はない?」
肩に力を入れて、一息に尋ねてみた。
……シン……
辺りに嫌な沈黙が落ちる。
絶対に聞こえたはずなのに、フェリックスはたっぷり時間を置いたあと、
「え、なんだって?」
と訊き返してきた。
彼の従順モードがシュッと音を立てて消え去ってしまったのを、キャロラインは体感していた。
だって彼、眉間に皴が寄っているもの。
「だからね――あなた、あと三十キロばかり太ってくれないかしら。……一週間以内に」
期限もつけ加えてみたりして。
フェリックスから殺気が漏れ出てくる。
「……無茶を言うな」
「トライする前からそんな」
「無理」
「でも」
「物理的に不可能だ。でも一応訊いておく――僕がその目標を達成した暁には、君はご褒美に何をしてくれるんだ?」
キャロラインはこの切り返しに驚いてしまった。
正直、報酬のことなんてまるで考えていなかったからだ。
だってキャロラインの計画では、『条件を達成することで、全員が幸せになれる』のだから、フェリックスが見返りを求めることは、あまりに勝手がすぎると思った。
彼の呑み込みの悪さにキャロラインは苛立ち、顔を凶悪に顰めてしまう。
「分からない人ね。あなたが三十キロ太ったら、妹はあなたに幻滅するってことよ」
「そんな保証がどこにある? 大体、彼女は僕に惚れちゃいないだろう。ミンズ卿といい仲だと聞いたが」
キャロラインは本日二度目の驚きを味わうこととなった。
……彼は一体どこからその話を聞いたのだろう? 品行方正に見えて、ゴシップにも通じているなんて!
……けれどまぁ、彼がその事実を知っているのなら、それはそれでかえってよかったかもしれない。これで彼が妹に手を出すこともあるまい。
「ええと、そうなのよね……でも妹はなんていうか……あなたとはプラトニックな関係だっただけに、特別な存在になっているようなのよ。だけどフェリックスがもう少し太ったら、あの子も夢から醒めるんじゃないかと思って」
ぽっちゃりしていても、彼ならば可愛らしいかもしれない。しかしそれはどうでもいい。とにかくクレアはフェリックスのシュッとした外見を気に入っているわけだから、彼が少しでも理想から外れてしまえば、あの子の熱は容易に下がるはず。
「夢から醒める保証なんてまるでないし、僕は自分の健康を犠牲にしてまで、三十キロ太る気もない。君の妹の馬鹿げた妄想を砕くという、ただそれだけの目的のためにね」
言われてみるとまさに正論なのだが、正論というものは大抵、円滑な人間関係に亀裂を生じさせる。
現にキャロラインはこの面白くもなんともない返しに、苛立ちしか感じなかった。
彼女がむっつりして俯いてしまうと、フェリックスは少し困ったような顔をした。
キャロライン自身は地面に視線を落としていて、珍しい彼の慌てぶりにはまるで気づいていなかったのだけれど……。
フェリックスはポケットの中から小さな包みを取り出し、彼女の注意を引こうとした。
その包みからバターの良い香りが漂ってきたので、意地汚い話だが、キャロラインは自然と視線がそちらに向いてしまう。
フェリックスはホッとしたように笑みを浮かべて、
「クッキーを持ってきたんだ。食べるだろう?」
と彼女に尋ねた。
キャロラインがこくりと頷くと、
「じゃあ口を開けて」
と彼が続けるので、この意外な成り行きに、彼女は唖然としてしまう。
「はぁ、なんですって? 順番が逆でしょう? クッキーを渡してくれれば、私は勝手にそれを口元へ持っていくし、もちろん口も開けるわよ」
「それじゃあ、つまらない」
そう言ってフェリックスは、小さなクッキーを親指の爪の先に乗せ、ピンと指で器用に弾いて、上空に真っ直ぐ打ち上げた。
そうしてタイミングを上手く計って、落下してきたそれを器用に口の中に納めてしまった。
まったくもって下品な振舞いなのに、彼のお綺麗な顔でそれをやられると、なんだか妙に小洒落て見えて、楽しそうなゲームのように感じられた。
「――ほら、次は君の番」
フェリックスはキャロラインに考える隙を与えず、ふたたび親指の上にクッキーを置くと、ピンと見事に弾いて、彼女の額よりもずっと高い位置まで飛ばした。
それは緩やかに放物線を描き、彼女の鼻先へ向かって落ちてくる。
キャロラインは慌てて口を開き、持ち前の反射神経を発揮して、落下地点の真下に顔を移動させた。
それは見事にキャロラインの口の中に納まった。
奥歯に当たってカチンという音がしたけれど、それはご愛敬というものだろう。
口いっぱいに広がるバターの香りと、圧倒的な甘さに酔いしれながら、クッキーを咀嚼する。キャロラインの頬が緩んだ。
「……上手いものだな」
彼が感心したように呟くので、キャロラインは思わず素で笑ってしまった。
「誰にものを言っているのよ」
「ほら、もうひとつ」
口元に笑みを乗せた彼が、手慣れた様子でふたつ目を放る。
今度は先ほどよりも、キャロラインうんと上手にキャッチすることができた。
大人しくクッキーを咀嚼するキャロラインのあどけない顔を眺め、フェリックスは優しく瞳を細めていたのだが、やがて口元に悪戯な笑みを乗せて、こんな意地悪を言ってきた。
「良いことを知ったな。――君を雛鳥のように従順にさせるには、クッキーひとつで足りる」
これにキャロラインは腹を立て、抗議するように平手で彼の肩を叩いてやった。
叩かれたフェリックスはなんだかとても楽しそうに笑っていて、キャロラインはそれを見た途端、胃全体をきゅっと締め上げられたかのような、鼻の奥がツンとするような、味わったことのない奇妙な感覚に襲われた。
全身がフワフワしているのに、それは心地良いばかりではなくて、芯のほうが燃えるように熱くて泣きそうになる。
このよく分からない衝動に居心地の悪さを感じたけれど、その強い感情は彼女の深い部分に根を下ろし、絡め取るように痺れさせ、過ぎた刺激を与える。
これはいけないことだわ……キャロラインは考えていた。
はまってしまったら、もう二度と抜け出せなくなるだろう。
だけど、今日だけ――……
キャロラインは彼の横顔をそっと見つめる。
今日だけは、フェリックスの隣にいて、彼の笑顔を記憶に刻もう。
この先どんなことがあっても、この光景をずっと覚えていられるように。
この思い出が宝物になるように。




