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……いつからそこにいたのだろう?
驚きはすぐに怒りに変わる。キャロラインは不意打ちを食らうのが嫌いだ。
大体ね――声もかけずにこっそり見ているなんて、趣味が悪すぎない?
ひと睨みしてやったものの、『相手をしたら負けだ』という気もして、フイと視線を逸らす。そのまま彼を無視して歩き始めたのだが、大股に近寄って来たフェリックスに進路を塞がれてしまう。
「……何かご用ですか?」
つっけんどんに尋ねてやったら、彼は眉根を寄せて、本気で怒ったような顔をした。
彼がこんなふうに怒りの感情を表に出すのはとても珍しい。
キャロラインは呆気に取られてしまった。
すると心底不機嫌そうに、フェリックスが呟きを漏らす。
「何かご用ですか、だって? 用がないと、話しかけるのもNGだっていうのか? 婚約している間柄なのに、ずいぶん薄情じゃないか」
……な、えー……? やだ、驚いた……。
彼ったら、キャロラインのことを婚約者と認識していたのか。
そうか……私たちって婚約しているんだ……?
キャロラインのほうこそ、彼との関係性をすっかり見失っていたようである。
――というのも、妹がちょっかいをかけてくるたびに、「彼は私の婚約者」というフレーズを乱用していたら、段々とそれが意味のない音の羅列と化してしまったのだ。
「キャロライン、聞いているのか?」
まだ不機嫌なフェリックス。
「き、聞いてますけど……」
普段温和な彼にしっかり怒られたことで、ビクッと目を丸くするキャロライン。鼻先を指で軽く弾かれた猫みたいな顔になっている。
しかし元々勝気なので、そこから立ち直るのも早かった。
「そ――そんなことより、まず謝ってもらえません?」
「謝る? なぜ」
「こんなふうにプライベートな場面を覗き見されると、良い気分ではないですから」
ツンケンしてそう返してやると、彼は呆れたようにこちらを見つめてきた。
「……プライベートな場面、だって? 結婚したら君のプライベートには、ほぼほぼ僕が関わる予定なのだが」
はぁ?! ちょっと冗談でしょう、何を言っているの、この人?
「あなたと結婚したら、私はプライベートをすべてあなたに捧げないといけないの? 理不尽じゃない!」
「夫婦とはそういうものだろう」
うわ、やだわぁ……支配的で束縛的で前時代的……カビが生えそうな、古臭い考えですことぉ!
「ていうか私、あなたとは結婚しませんけど」
ついそう言ってしまってから、ハッとする。
……これはさすがにまずかっただろうかと、チラリと彼を見遣る。
するとフェリックスは口元に淡い笑みを乗せ、なんだか意地悪そうな顔でこちらを見返してきた。
え……この人って、こんなふうに斜に構えた顔もできるのか……少し驚く。
清廉潔白なはずの貴公子には、とんでもない裏がありそうだ。
いや……? もしかするとこの腐った縁談により、彼のもともと持っていた善良性が闇に染まり、血に染まり、このような恐ろしいモンスターが誕生してしまったのかもしれない……?
などといらぬことを考えていたら、彼がスッと距離を縮めてきた。
「今――かなり失礼なことを考えていただろう」
キャロラインはびっくりして瞳を瞬いた。
「やだ、どうして分かったの?」
「君は案外顔に出る」
「え、顔になんて出ないわ! 変なこと言わないでよ」
「完全に出ている」
「う……」
「今、困っているだろ?」
「全然、困っていませんー」
……本当はすごく困っている。そして焦っている。
フェリックスが微かに瞳を細めた。
「しかし……妹を制止する時、いつも腕力ばかり使うと思っていたが、こんなふうに鍛えていたとはね。強いわけだ」
なんだか感心している様子である。
ふ……強い?
キャロラインは気を良くし、ツンと顎を上げ、釘を刺してやった。
「ええ、そうよ、私って強いの。あなたが無体なことをするようなら、この剣の錆にしてやりますからね」
「お生憎様、僕も鍛錬は積んでいる」
「ふうん? でも……あなたは荒事が苦手な優男に見えるけれど」
右足を半歩引き、ジロジロと彼の全身を眺め回していると、不意に彼の手が伸びてきた。
――手首を掴まれ、強く手前に引かれる。
キャロラインはつんのめるようにして、フェリックスの懐に飛び込んでしまう。
すっぽりと抱え込まれる形で拘束されると、なんだかとっても居心地が悪い。
汗をかいているし、髪だってボサボサだろう。
それに――……それに、こんなに近しい距離で男性と触れ合ったことなんて、これまで一度もない。
キャロラインはきゅっときつく目を閉じた。
「わぁ――ちょっとやめて、放してよ!」
ほとんどパニック状態に陥りながら大声を出したら、彼がくすりと笑う気配。
耳のすぐそばで、彼の声が響く。
「捻くれた威嚇じゃなくて、子供みたいにびっくりした叫び声も上げられるんだな」
「馬鹿!」
「君はさっき、『剣の錆にしてやる』と威勢良く脅してきたじゃないか? どうぞ、やってみたらいい」
キャロラインはムッとして目を開き、フェリックスの懐から脱出しようと身体をよじってみた。
けれど彼の拘束は強くて、どうしても振りほどけない。
どこかを強く掴まれ、痛みを与えられているわけでもない。ただ、なんというか……彼が片方の手で、こちらの腰あたりを見事にホールドしているから、互いの体の境目が分からないくらいにくっついてしまっている。
まるで底なし沼に嵌ってしまったような、暴れれば暴れるほど絡め取られていくような、奇妙な心地がした。
キャロラインは情けないような気持ちになり、眉尻を下げて、縋るように彼の顔を見上げた。
「……ねぇ、びっくりしたわ、私……力であなたに敵わないみたい」
情けないことを口にしている自覚はあったので、フェリックスはきっと笑うと思ったのだ。
意地悪く笑って「ざまぁないな」と、軽口を叩くんじゃないか、って。
けれど彼はキャロラインのしょぼくれた顔をしばらくの間じっと……ただじっと至近距離から見おろしていた。
キャロラインが『この人もしかして、立ったまま寝ちゃったのかしら?』と疑い始めた頃になって、フェリックスは我に返った様子で、突然拘束を解いてくれた。
キャロラインは慌てて半歩下がり、彼から距離を取った。
「……乱暴にして、すまなかった」
口元を押さえながら、動揺したようにフェリックスが詫びてくる。
え……!
キャロラインは却ってびっくりしてしまった。す、すまなかった? なんで謝るの? 謝るってことは、意地悪のつもりでアレをしたんじゃないの?
よく分からないけれど、かぁっと頬が熱くなる。
フェリックスが困ったようにこちらを見てくるので、ビクリと肩が揺れた。
驚いた野兎のように少し飛び上がったキャロラインは、どうしていいか分からなくなり、その場から慌てて逃げ出してしまった。




