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ノウルズ家の厩舎番は、敷地の西の外れにある、煉瓦造りの古い小屋で暮らしている。
とある晩のことだ。
家の暖炉には火が焚かれ、子牛のシチューが鉄鍋の中でクツクツと湯気を立てていた。
貴族様のような豪華絢爛な暮らしぶりではないが、ノウルズ家の厩舎番は、娘とふたりで過ごすこの穏やかな暮らしに満足していた。
しかし皆が同じく、今この瞬間、幸せであるとは限らない。
窓の外に目を向け、雪がしんしんと降るさまを眺めながら、厩舎番の男は思わずため息を吐いていた。
……こんな寂しい夜を、あの方はおひとりで、どう過ごしていらっしゃるのだろう。
男はノウルズ家にまつわるあの不幸な出来事を、娘に語って聞かせることにした。
「フェリックスお坊ちゃまは、子供の頃から優しい性格をしていらして、私ら使用人にも分け隔てなく親切にしてくださるような、大変良く出来た御方だよ。見目麗しく、頭も良くて、この由緒正しきノウルズ家の跡取りでいらっしゃる。彼ならば、望めばどんな女性でも花嫁に迎えることが可能だったろうに、どうしてこんなことになったのだろうかね……」
聞き役の娘はいつになく不安な表情で、燃え盛る暖炉の炎を眺めていたのだが、やがて観念したように父のほうに視線を戻した。
「私、詳しい話をまだ聞かされていないのだけれど……フェリックス様のお相手であるキャロライン様……彼女の妹さんが、時計塔の事故で亡くなって、そのあとどうなったの?」
「普通ならば喪が明けるまで、式は延期になっただろう。しかしフェリックスお坊ちゃまとキャロライン様の結婚式は、予定どおりひと月後に行われることになった。もともと親族だけの小ぢんまりした式の予定だったから、延期したとしても、さして影響はなかったと思うがね。しかし両家の家格を考えると、このような寂れた結婚式を挙げること自体、おかしなものだよ。……けれどまぁ、キャロライン様のしでかした数々の奇行を考えれば、ひっそりとやらざるをえなかったのかもしれないが」
「どうして婚約は覆らなかったの?」
「そりゃあ、政略結婚だからねぇ。どうやらキャロライン様の叔父にあたるミンズ卿が莫大な資産を持っていて、テスター家とノウルズ家に、かなりの額を融資していたらしいのだよ。その強弱関係から両家当主は彼に頭が上がらず、この婚姻に関しては、ミンズ卿の意志が色濃く反映されたのだとか。両家が縁繋がりになれば、テスター領とノウルズ領を横断して、隣国へ最短ルートで出られるからね……交易上、メリットがあったのだろう」
厩舎番の男は情報通の友人がいるせいか、学歴はないものの、色々と物知りだった。
「でも結局、キャロライン様は亡くなってしまったのでしょう?」
娘が物憂げに呟きを漏らす。
「とにかくね、結婚式の前から、すったもんだは続いていたみたいだよ。妹君の死後、不幸が不幸を背負ってやって来たみたいに、恐ろしい出来事が立て続けに起こってね……。結婚式の前日、キャロライン様は暴漢に襲われ、顔と背中に酷い切り傷を負ったらしい。彼女は頬から耳にかけてと、肩から背中にかけてを、深く切り裂かれたのだとか。キャロライン様はエキセントリックな言動が災いして、上流社会ではとにかく評判が悪かったのだが、その美しさだけは褒め称えられていたのにね……その美点も、あの傷で台無しになってしまった」
「それでもフェリックス様はキャロライン様と結婚されたのね」
「さっきも言ったが、断われるような状況ではなかったからね。しかしキャロライン様は肝心の式もすっぽかしかけてねぇ……時間になっても中々やって来なかったらしい」
「それはなぜ? もしかしてほかに想う方でもいらっしゃったのかしら」
「式場にはそういった緊張が走ったようだね。新郎が待つ中、奇妙な時間延ばしが延々と続いて、誰もが気まずそうに顔を見合わせて、もうそろそろこれ以上は待てないという時になって、勢い良く教会の扉が開いた。そして飛び込んで来たキャロライン様を見て、誰もが度肝を抜かれた――彼女が身に纏っていたウェディングドレスは、泥にまみれて所々裂けていたらしい。会場がザワつく中、彼女はよく通る声で言い放った――『ちょっと転んだだけなので、お気になさらず。さぁ、早いところ始めましょう』――彼女は背筋を伸ばし、大股にヴァージンロードをひとりで歩いた。彼女は父親にエスコートされることもなく、ただひとりで祭壇に至る道を進んだのだ。そしてフェリックス坊ちゃまの隣に並ぶと、『死がふたりを分かつまで』という例のあの台詞をふたりで誓い合ったのだとか……。そうしてふたりは正式に夫婦になり、その後馬車で、このノウルズ邸を目指したわけだが……お前は結局、新妻の姿を見ることはできなかったね」
「ええ……」
「キャロライン様は悲劇の花嫁だった。いや……もっと悲劇なのは、残されたお坊ちゃまのほうだろうか」
しかし世間一般の意見では、フェリックス・ノウルズは幸いにも、結婚してすぐにあの悪魔のような女から逃れられたのだから、傷は浅くすんだと言われているらしい。
彼は新妻に先立たれたから、不幸なのではない――あのような悪辣な妻を娶ることになったのが、そもそも不幸だったのだと。
キャロラインに付き纏われた彼には、『悲劇の貴公子』というあだ名までついている。
いっそ入籍前に死んでくれていればね……と口さがない連中は言いたい放題だそうだが、しかしその言葉に躊躇いながらもつい頷きたくなってしまうほどに、キャロライン嬢の評判は最悪だったのだ。
厩舎番の男は娘が急に静かになったことに気づき、彼女の顔を覗き込んだ。すると娘は苦しそうに顔を背け、唇を噛みしめている。
「どうかしたのかい? 具合が悪いのか?」
娘はハッとした様子で父のほうに顔を向けた。彼女の瞳は微かに揺れている。やがて娘は覚悟を決めたように口を開いた。
「ねぇ父様……以前おっしゃっていた、例のお話……伯母様が仕事の手伝いを求めているという件だけど、私が行ってはだめかしら」
「なんだって? 手伝いといっても、隣国だよ? 親子離れて暮らす気かい?」
「だけど私が結婚したら、どちらにせよこの家は出ていくのだし」
「そりゃそうだが……君はまだ子供で、それに、あまりに突然じゃないか」
厩舎番の男はうろたえてしまった。
まだ子供だと言いながらも、それは本当のところ「そうあってほしい」という、親の勝手な願望にすぎないのだろう。
というのも、今年十六になる彼の娘は、近頃ぐっと大人になったように感じられたからだ。
屋敷メイドのアンから、「娘さんは誰かに恋でもしているんじゃないの?」とからかわれて、「あの子はまだ子供だよ」とムキになって答えた記憶が蘇った。
恋……もしかして、誰かに恋を? 男は妙な焦りを覚える。
もしかして、もしかすると、失恋でもしてこの地を去りたいとか、そういう背景があるのだろうか。
ヤキモキする父を見て、娘は苦笑いを浮かべた。
「私、この国の寒い気候はもともと肌に合わなかったわ。隣国に行って、やり直したいの。伯母様のところは、宿屋と食堂も兼ねているのでしょう? 私は料理をするのも好きだし、接客の仕事にも興味があるのよ」
そう言われてしまうと、父親も反対できなくなってしまう。
宿屋を経営する姉は気質が優しいので、娘が行っても、きっと大切にしてもらえるだろう。
それに娘は働き者で気立ても良かったから、血縁関係を抜きにしても、そこによほど意地悪な人間がいなければ、新しい職場で邪険にされることもないと思われた。
どのみち本人が強く望むのであれば、それはもう止めようもないことだ。
「ああ、分かったよ。でもとりあえず、今夜はそのことは忘れて、温かいシチューを食べようじゃないか」
「そうね、父様」
ホッとしたように肩の力を抜いて、娘はやっと笑みを浮かべた。
表(終)




