三 花 ~ 覚めない心 ~ (8)
ピエロは人を笑顔にすることができるんだな。
6
逃げてしまった。
きっと瑠香も期待はしていただろうが、それを沈黙という形で裏切ってしまった。
山崎姉妹から背を向け、一週間が経った金曜日。司はまた病院の小児科病棟に来ていた。
以前、この病棟の看護師に、ピエロのイベントが定期的に行われているのを聞いていて、今日がその日だった。だからこそ、つい足が動いてしまった。
休憩室ではすでにイベントが始まっており、椅子に座っていた子供たちは、おどけるピエロに夢中になっていた。
休憩室の外の廊下から眺めていた司は、一人の子供に注目してしまう。以前も見かけた男の子。屋上に手紙を持って来てくれた男の子を。
初めて見た日からすでに一ヶ月が経っている。それでも入院が続いているのは、かなり重い病気なのかもしれない。
ずっと病院なら、やっぱり嫌だよな。
閉鎖的な病院が、男の子の元気を吸い取っているんじゃ、と思ってしまう。
ピエロが赤い風船を、全身を大きく動かして膨らませるが、動作の割に膨らみが悪い。大して膨らまない風船を不思議に思い、ひっくり返した瞬間、風船が破裂して、ピエロは驚く。
状況が分からず、キョロキョロ辺りを警戒する姿に、子供たちが歓声が湧く。
あの子は、と不安になって見てみると司は驚いてしまう。あの男の子は、周りの子供たちと同じく、満面の笑みを浮かべていた。
心配はただの杞憂だったのか、と安心してピエロを眺めた。
また違う動作に移るピエロを、ふと感心してしまう。あれだけ塞ぎ込んでいた子供を笑顔にするのだから。
羨ましかった。
逃げてしまった自分とは対照的に、ピエロは懸命に向き合っている姿が。
「……どうして、ピエロはああやって笑っていられるんだろうね」
尊敬に似た眼差しを送っていると、背中に冷たい言葉が注がれた。司が振り返ると、
「……お姉ちゃんは無理しているのに」
お姉ちゃん……。
現れたのは璃香だった。
白いカーディガンを羽織り、肌の露出を抑えた姿。以前、叱咤されたことがよぎり、まだ許されていないのか。より険しい眼差しだった。
璃香は司のそばに立つと、ピエロをじっと眺めた。
「この前はごめんね。あなたのことを何も考えていなかった」
司の頬は緩んだ。まさか謝ってもらえるとは思っていなかったので、「別に」と、照れ隠しで鼻頭を擦った。
二人は子供たちに混じって、ピエロのパフォーマンスに魅入ってしまう。
誰もがピエロの次の動きに注目し、周りに静けさが舞ったとき、璃香が口を開いた。
「あんなふうに笑えたらいいのに」
「ーー子供みたいに?」
「ううん。ピエロみたいに。ああやって、ピエロはどんなときも笑ってる。お姉ちゃんも心配させないように無理してる。だから、もっと笑えたら……」
「無理してる、か」
何も反論できない。確かにそうなんだ、と痛感して。
いたたまれず、唇を噛んでしまう。
「ねぇ、知ってる? ピエロの話」
「ーー何?」
「ピエロって、本当は劣等生なんだよね。道化師の一人で、ほかの道化師より、何をやっても失敗ばっかり。だから、泣いているの。ほら、よく見て。左目の下に、涙のペイントがあるでしょ」
言われてピエロを見ると、確かに青い涙が描かれている。
「それでも、あぁやって懸命に笑ってるんだよね。羨ましいなって」
「……ピエロか……」
静かに頷くと、
「正直、僕も逃げてしまった。この前、事情を聞いて。手紙を読んで。その…… 話が重たすぎた……」
「ーーでしょうね」
諦めに似た、冷たい返事を受けてしまい、司はあの男の子を見た。今も目を輝かせている。
「ピエロは笑わなかった子供を笑わせられるんだな。ああいうのを見ていると、やっぱり、逃げるのはダメなんだな、って思える」
「じゃぁ、どうするの?」
「何をどうすればいいか、分からない。けど、何かの支えになれればって思う。電話に出るのが怖いなら出なくていい。会うのが怖いなら、会わなくていい。きっと、まだ僕の顔は見えていないんだろ。だったら……」
そこで、璃香の顔を見ると、璃香はキョトンとしている。
「手紙はダメかな? 手紙なら、文字が見えるだろ。言葉が見えるだろうから」
「メールとかじゃなくて手紙? 古くない? それに、なんで私にーー」
「ダメかな、瑠香?」
間違いでも、ふざけているわけでもない。本気で口を開いた。
無理をしていると気づいたのは、声をかけられたときから。怪訝で横暴な態度を取ろうとしてもぎこちない。一向に司と目を合わそうとしなかった。いや、合わせられないように見えた。
さらに、どこか怯えているようにも。
「何ができるか分からない。けど、僕はお前のその怯えを少しでも取りたい。和らげたいんだ」
瑠香に手を触れることはまだ無理かもしれない。けれど、そばにいたかった。もう、逃げたくはなかった。
じっと見ていると、瑠香は怯えながらも目を細めた。
「……なんで、私だって気づいたの?」
司も安堵から目尻を下げた。
「なんとなく、かな」
前を向くこと。ピエロはそれを教えたいのかな?




