三 花 ~ 覚めない心 ~ (4)
長い間、ずっと待っていた。待っていたんだ、本当に……。
3
違和感が確信に変わろうとしていたのは、美容室から帰ったあとである。
新しい髪形は思っていた以上に気に入った。璃香がネットで人気の美容室を見つけてくれた。
髪を切る、と決心しても、やはりまだ一人で外出するのは無理で、璃香に同席してもらった。それでもふとした瞬間、心が締めつけられる恐怖に襲われてしまったが、どうにかうまくいってくれた。
だがセットが終わり、家に帰るまでの間、上機嫌の璃香に対し、瑠香はずっと表情が浮かなかった。
「……見えなかった?」
「男の人の顔が」
瑠香を担当した美容師は女性であった。
しかし、髪を切ってもらった美容室には、もちろん男性の美容師もいた。鏡越しに男性の姿が写り込むと、そのたびに瑠香は緊張して拳をギュッと握ってしまっていた。その男性が急に自分に襲ってこないだろうか、と。
恐怖で目蓋を閉じ、しばらくして開けた瞬間だった。
鏡越しに見た男性の顔に、黒い靄がかかっていた。
男性の顔の輪郭を隠すように、渦が巻いているようにも見えてしまった。声は聞こえているのに、表情はまったく見えてくれなかった。
この奇妙な感覚はずっと続いた。家までの間、通りすがりの男性の顔が見えなかった。
家に帰ると辛うじて、父親の顔だけは見えていたが、やはり覚束なかった。瞬きをすれば、すぐに霞んでいきそうで。
「それって、あれの影響?」
ベッドの上に座り、両手の手の平を眺めてしまった。眺めているだけで、小刻みに震えそうになる。
気持ちでは気丈に振る舞っているつもりでいた。もちろん、多少の無理もしていたが。だからこそ、体は正直だったのかもしれない。
男性に体する恐怖心と警戒心が表面に出てしまった。
「それって、男の人に対して全員?」
「お父さんはそんなに。でも、ほかの人は……」
かぶりを振りながら、小声で答える。
「じゃぁ、その、竹内くんは?」
「……竹内くん」
璃香の指摘に、息を呑んでしまう。
じっと眺めていた手の震えが強くなり、息が詰まってしまう。
脳裏に浮かべた司の姿。笑った顔や、困った顔は何度も見たはずなのに、司の顔には黒い靄が覆ってしまっていた。
何度スマホを眺めていただろうか。何度も司からの連絡はあった。しかし、瑠香は一度も対応しないでいた。
司と話す勇気がなかった。司が会おうとしてくれているのを痛感していたのだが、スマホに映る名前に、息が詰まっていた。
学校にはすでに退学届を提出しており、司との繋がりも絶っていたつもりだが、無理だった。
しかし、辛くもあった。必死で司の顔だけでも思い出そうとしても、決して靄が晴れてはくれない。逆に強く思うほどに靄の闇は深く、暗くなっていた。
このまま忘れるべきだ、と忠告する気持ちも心の底に存在していた。
会わないでおくべき。
会いたい。
会えない。
会いたい……。
まるで、花占いをしているみたいに気持ちが揺らいでいく。
気づけば、スマホで司を呼び出していた。
「もしもし?」
スマホ越しに聞こえる司の声に胸が痛んだ。久しぶりに聞く司の声への高揚よりも、それでも顔が消えたままの罪悪感に。
「ーー会ってくれますか?」
スマホを握る手に力を込め、どこかよそよそしい口調で瑠香は言う。
司は快く会ってくれるのを了承してくれた。通話を切ったあとも、瑠香の気持ちは晴れてはくれなかった。
このまま押し潰されそうな不安から、何かにすがりたくて部屋を見渡すと、コレクションに集めていた、ピエロの人形の一体と目が合った。
ピエロは無垢な笑顔をずっと瑠香に向けていた。
竹内くんに会ったとき、ちゃんと笑えるだろうか?
不安をよぎらせていると、不意にあの家具屋で見たピエロが脳裏に現れた。
あのピエロ、買おうかな……。
見えない……。会いたい、会えない……。




